同じタイトルで内容が違うことがある。
先日紹介した、『自発的隷従論』では、メモを取るために購入した「電子版」をチェックしていて、「付録」にある1本の論文がまるまる欠如していることに気がついた。
「解説」と「訳者あとがき」とかは、オリジナルの紙の本のままなので、電子版「だけ」をみていたら、内容について行けないことになる。
その論文とは、フランスの人類学者ピエール・クラストルの『自由、災難、名づけえぬ存在』(1976年初出)である。
紙の本にして約30ページが欠落している。
この中で、クラストルは、『自発的隷従論』を本業からの視点で解説しているのだ。
もちろん、『自発的隷従論』は、「1553年以前には完成していた」のだから、クラストルの一文は、ラ・ボエシの執筆から420年以上の時を経てからのものである。
すると、この「欠落」は、クラストルの著作権の方が「問題」になったのだろう。
それにしても、かくなる「ちがい」について、読んでみないとわからない、というのはやっぱり「不親切」だ。
「目次」のちがいから「気がつけ」というのも随分なのは、経緯を説明していないからである。
べつにわたしは「研究者」ではないけれど、同じ本と思っていたら、ちがっていた、というのは残念なことで、しかも、二冊とも購入して初めて気がついたのである。
それでも電子版を返品しないのは、やっぱりメモや覚えを作るのに「便利」だからである。
クラストルの著作については、メモアプリで記入するしかないけれど、より「手を動かす」ことになるのは、妙にラ・ボエシがクラストルとの仲を取り持ってくれた感がある。
これはこれで、「読書サーフィン」の役に立つ。
されども、やっぱり「注意」がいるのである。