「日本史」ではなくて、「国史」という分野がある。
ただしむかしは、「国史」がふつうで、「日本史」はなかった。
戦後のGHQによる「教育改革」で生まれたのが「日本史」で、「国史」は相手にされなくなったのだ。
いわゆる「学歴社会」も、GHQがやった「改革」であった。
これと、「農地改革」で小作がいなくなったのはいいけれど、そもそも小作が借りていた土地自体が狭かったので、「地主」にはなったけど喰えないための口減らしで、相変わらず子供を「奉公へ出した」のが、「金の卵」になって都市部の工場労働者になったのだった。
それで、余裕があろうがなかろうが、なんとか「大学へ」という気運は、「これから学歴社会になる」という宣伝工作のなせる技だった。
しかし、ここでいう「大学」とは、「新制大学」のことだった。
「旧制」と「新制」のちがいを、当時のひとがどこまで知っていたのかはあんがいと疑問がのこる。
それで、旧制中学と高校、新制中学と高校が混乱した。
かんたんにいえば、旧制中学が新制高校。
旧制高校が新制大学で、旧制大学は日本から消えたのだった。
理由は、アメリカ人に対抗する日本人を育成させないためだった。
そんなわけで、GHQによる日本弱体化計画の手先となった日本人たちがいて、これを、「敗戦利得者」というのである。
もちろん、意図的な「分断工作」である。
こうした手法は、典型的な共産主義・全体主義のやり口なので、GHQをコントールした、「本国」のアメリカ民主党の正体がしれるのである。
いまならもっとわかりやすく、スターリンとの権力闘争に敗れたトロツキー派がアメリカに逃げて、民主党を乗っ取ったこともわかっている。
なので、わが国の敵は、いまもむかしも、アメリカ「ではなくて」、民主党なのである。
さてそれで、ジンギスカンである。
義経がジンギスカンだという「説」は、戦前からあって出版もされている。
しかし、最初の言いだしっぺは、なんと「シーボルト」なのだ。
シーボルトといえば、オランダ人だとイメージされるが、彼は神聖ローマ帝国の司教領ヴュルツブルク(現在はバイエルン)の生まれなのである。
本名は、フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトで、名前のなかに「フォン」があるから、ドイツ貴族だとわかる。
しかして彼は、医者だとされているけれど、江戸で面会した渡辺崋山は「プロイセン政府の内偵探査(スパイ)」と言ったと書き残している。
じっさいに彼は、オランダ領インド陸軍の参謀部付「名誉少将」にまでなっている。
彼が出版した、『NIPPON:日本』(1832~1882)は、その後日本語訳も出ているけれど、「内偵探査の成果」となっていることが注目される。
そしてここに、「義経=ジンギスカン説」の記載があるのだ。
田中英道東北大学名誉教授(西洋美術史)が、先月14日に、日本国史学会で講演している動画が公開されている。
田中教授は、パリ大学およびローマ大学などで留学研究された「美術史家」ではあるけれど、ルネサンスの絵画に東洋人が多く描かれていることに注目した最初の研究者だ。
そして、絵画にある「モンゴル文字の発見」は、イタリア人研究者も驚愕させた功績で、バチカン・システィーナ礼拝堂のフレスコ画修復現場での実地研究を許された数少ない学者だ。
モンゴルによって征服されたヨーロッパ側のモンゴル研究は、戦後とまったわが国の研究とはちがって、あらゆる面に及んでいるという。
そこで、田中教授が気づいたのは、モンゴルの「体制づくりの妙」だという。
あたかも世界史に突如あらわれたモンゴル帝国も、初代ジンギスカンの時代は、「内政」のかために忙しい。
それで見つけた資料が、高麗の王が差し出した服従の手紙だという。
そこに、「天皇=朝廷」を彷彿される体制があったことがわかるのだ。
じっさいに、ジンギスカンの幼名、「テムジン」とは、「天神」のことではないのか?
なんと、モンゴル語に「テムジン」という言葉はなく、「名前」としても聴いたことがない珍しさなのだ。
さらに、源義経という漢字を、「じん・義・すかん」と読めるとも。
はたして、シーボルトの「結論」にいたる研究は、ヨーロッパ側でもやっているというから、どんなに「日本史」側から文句がきても止まらない。
このことをわれわれは、「多様性」という言葉を好む「日本史」側が、一方的に無視するか反論するなら、そこにも「二重思考:ダブルスタンダード」があると認識できるから、これがまた「踏み絵」の役割もなすのである。
そんなこんなで、義経=ジンギスカン説は、あたらしい展開を見せている。