このブログで何度も指摘しているように、用語の用法をちゃんと定義しないと、何を言っているのかわからなくなることがある。
わが国における政治用語の問題は、定義されずになんとなく使われているから、議論が混乱して、深くかんがえることが「面倒になる」のである。
つまり、「わざと」混乱させて、世人の思考を停止させたい、ということのあらわれなのである。
厄介な言葉は二つある。
一つが、「右翼(派)」に対する「左翼(派)」というセット。
もう一つが、「保守」に対する「革新」というセットだ。
結論から先に書けば、「自由主義」に対する「社会主義・共産主義」というセット一つで済ますことが出来る。
これも何度も書いたけど、ここでいう「自由主義」の「自由」とは、なにをやっても個人の好き勝手だということの自由放任の自由ではなくて、他人から命令されないという意味の「自由」をいう。
だから、「お互い様」ということだ。
わが国で、ワクチン接種の「強制」ができないのは、政府から個人への「強制」が、上記の「自由」を侵害するからである。
国家や公務員を規制するための国民からの命令が、民主主義の「民主」を示す「憲法」だから、即座に「憲法違反」になるために「できない」のだ。
ところが、変な「憲法改正」論議が進んでいて、政府が「緊急事態」を決めたならば、個人は政府の命令に従わないといけない、という条項を加えようとの企みがある。
これこそ「改悪」で、「リベラル(自由主義者)」がこぞって反対しないといけないものを、わが国の用語で「リベラル」は、とっくに「革新」という意味に変換されてしまった。
ヨーロッパ各国にこの「条項」があるのは、たいがいが「内乱」を経験した国にあって、アメリカは「南北戦争:シビル・ウォー:Civil War:内戦)をやったけど、憲法に緊急事態条項は「ない」ので、「別途」、緊急事態法を制定したのだった。
上述の「セット」を見ればわかるように、「革新」は「保守」とのセットなのだから、「リベラル」と「革新」が混じるのは、定義の境界を超えてしまう「めちゃくちゃ」なのである。
ときに、今回話題のワクチンがぜんぜん効かない。
二度で効くという話が、いつの間にか三度目になっている。
ちなみに、接種先進国のイスラエルでは、四度目接種を国民に要求していて、さしもの国民も「?」になってきたという。
さらに不思議が、ワクチン接種者がPCR検査陽性になる、というニュースが流れていることだ。
ワクチンとは、弱毒化させた病原体を体内に入れることで、自己免疫作用から、本物の病気にならないようにするのだから、「感染させる」というのが、本来の効果である。
だから、PCR検査で陽性になって当たり前ではないか?
むしろ、ワクチン接種しても、陰性ならばそちらの方が問題だ。
なお、無症状者が他人に感染させる、という論拠の研究成果は、いまだに存在していないし、PCR検査陽性=感染ではない。
教育が進んでいるはずのイスラエルで、その国民が混乱するのは、「恐怖」という精神的なものに人間が負けている、ということではないのか?
すると、「ホロコースト」を経験したことの意味が、活かされていないという残念になるのである。
つまるところ、ワクチンをむやみやたらに打ちたい、というのは、政府の側の科学的根拠に乏しい「強制」だ。
しかるに、日本政府も20兆円分のワクチンを前払いで購入したので、予算消化とおなじで「無駄なく使い切る」ことをしないと、国民から叱られる、という「恐怖」の条件反射が、なんだか正当化の根拠になっている。
その「恐怖」が、せっせと国民の腕に針を刺す目的になっていないかと疑うのである。
さらに、昨年末(先月)、政府は「無料PCR検査」を、ドラッグストアで実施するように予算づけした。
ドラッグストアには、1回1万円の収入があるから、歩行者に「どうぞどうぞ」と勧めることになるだろう。
世の中に「ただほど高いものはない」と、乞食になることを嫌った先人達は言っていたけど、すっかり乞食にさせられた日本人は、「コスパがいい」とかいって喜んで陽性になって、二週間も隔離されるのだ。
こんなことを「国民のため」という政権は、自民党と公明党だけれども、他の野党で反対する者がいないのは、国民から「自由」を奪うことをしたい、「全体主義」が蔓延したからである。
他人から命令されない自由を奪う者は、自由主義者のはずはないから、必ず社会主義・共産主義の信奉者である。
ロックダウンを繰り返しても、なんの「防疫」効果はないけれど、政府のアリバイにだけはなる。
ところで、世界的に社会主義が流行ったのは、資本主義批判ということに成功したかに見えたからである。
ここでいう「資本主義」と、「産業資本主義」は区別したい。
つまり、社会主義・共産主義がいう「資本主義」とは、彼らの批判に都合がいい定義でできた、資本主義という「用語」なのだ。
逆に、本来の「産業資本主義」は、労働者を大切にしないと成りたたない。
「やる気」がない社員ばかりなら、その企業体の事業はうまくいくわけがないからだ。
だから、ちゃんとした経営者は、社員を大切にした。
ところが、社会主義・共産主義に染まったかんがえの「資本主義」憎しをイメージしたとたんに、そんな経営者でも従業員は「敵視」してしまうし、従業員から経営者に「昇格」してなる日本の労働慣行では、今度は経営者になった元従業員が、後輩の従業員を敵視するのである。
これには、「自分は安全地帯にいる」という、優越感もそうさせる。
いまの自民党は、すっかり看板の「自由」の定義を忘れてしまったので、労働者のために、と言いながら、本音では「票」と野党の分断という政治をしたいだけの集団に墜ちてしまった。
これを、「保守」を自称するものたちが、何を保守するのかも忘れて、威勢のいいことを言うひとに期待するという、残念な構図になっている。
一番重要な「自由」を失いかけているのに。