「機械翻訳」ともいうけれど、近年顕著な「進歩」を遂げている分野にあたる。
人類の祖先がDNAから特定されて、そのまた「血の分岐」がさかんに研究されている。
縄文人の「歯髄」が採取されたことで、とうとう「日本人の起源」も解明されるかと思いきや、まさかの闇に深入りした。
中国人と朝鮮人との「ちがい」だけがわかってしまって、これらのひとたちよりもはるか昔に日本列島に棲み着いたことが「確認」されたからである。
それで、いったいどういうひとたちが縄文人だったのか?が、わからないままなのである。
現代日本人の半数が、縄文人の子孫だと確認されているので、この「不明」の意味は、そのまま日本人のルーツに影響するのである。
しかも、日本語そのもののルーツもわからないままなのである。
世界の言語体系にまったくそぐわないからだ。
「血」と「言語」の両方共が、「謎の民族」。
これが、「日本人」なのである。
元がアフリカだとわかっているのに、「その後」がわからない。
アフリカ大陸から、世界に「拡散する」には、シナイ半島・アラビア半島を「経由」しないと、「陸路」ではユーラシア大陸に行けない。
いま、「中東」、ちょっと前なら「中近東」と言われる地域を指す。
どちらも、ヨーロッパ側を基点にした物言いである。
この場合、「東」とはインドのことで、インドとの中間だから「中東」なのだし、「中東」よりもヨーロッパに近いあたりを「中近東」と呼んだ。
ヨーロッパの真逆の位置にある日本からは、当然だがぜんぜん「東」ではないし、「近く」もない。
ただ、アフリカ大陸から、どんどん東に移動して、最後の島々に棲み着いた(この先は広大な太平洋)のが日本人の祖先たちなので、「中間分岐点」としての中東の価値は変わらない。
そこで登場したのが、ユダヤ教で、それから、キリスト教、もっと後にイスラム教が生まれた。
しかし、ユダヤ教が「最古」なのではなくて、いまのイラン北部に生まれた「ゾロアスター教」が最古なのである。
だから、ユダヤ教の聖典である『旧約聖書』には、ゾロアスター教の影響があるのは当然で、これがまた「東方の賢者」として、キリスト誕生の預言をする話の素地になっている。
祖先がおなじ人類の言葉が、どうしてかくも「乱れたのか?」(言語がたくさんできた)の答を示すのが、「バベルの塔伝説」だ。
旧約聖書「創世記11章1節~9節」にある。
「ノアの箱舟」の後の話のなかで最大イベントになっている。
ゆえに、この言語の障害を取り除くのは、欧米系人類の「夢」でもある。
それは、「労働の概念」にもあって、人類の「原罪」たる、智恵の実を食したために「労働を強いられた」から、これら宗教のひとたちは、「労働からの解放」を「夢」としている。
労働からの解放とは、働かずに遊んで暮らすこと、つまり、「エデンの園への回帰願望」のことをいう。
なので、マルクスは「アンチテーゼ」として、「働かざる者食うべからず」を共産主義の基本に据えたのだった。
しかし、「その心」は、遊んで暮らすには、「奴隷が必要」なための「方便」だから、世界的大富豪が望む「家系の未来永劫の安泰」と、共産党幹部の思惑が一致するのである。
ちなみに、カール・マルクスの家系は、完全にロスチャイルド家のなかにあって、極貧生活だった、という「美談」は嘘だ。
また、最近の話題提供者たる、グレタちゃんも、ロスチャイルド家のなかにいる(母系)から、突如無名の少女が「国連演説」したのではない。
こうして、ロシア革命の大スポンサーが、いまの世界的大富豪の先祖だったことと一致する。
ロシア・東欧の「農奴(serf)」が、完全なる「奴隷(slave)化」したのであった。
もちろん、「slave」の語源は、スラブ人の「Slav」である。
そんなわけで、「翻訳」に関する「ソフトウェア」が、日本製ではなくて「欧米系・製」なのには、「訳(わけ)」があるのだ。
「日本語を英語」にしたり、「英語を日本語」にすることの「便利さ」を、英語教師が発狂しそうな「精度」で提供していて、それをまた「私塾」の英語講師が活発な利用を受講者に促している。
「答合わせ」になるからだ。
なんだか、算数や数学の授業で、「電卓を使わせない」数学教師の状態に似ている。
先進国で、「教育用電卓」を使用しない国はわが国「だけ」なのである。
もちろん「算盤」すら教えない。
さてそれで、現在最強の翻訳サービスは、「DeepL 翻訳ツール」サイトである。
こちらは、ドイツ製で、「グーグル翻訳」との比較で圧勝している。
無料サービスには制限があるし、指定できる言語数も少ないけれど、まずはお試しを。
「OCR(optical character reader)」の技術によって、紙の本をデジタル化して認識させることができるようになったものの、その手間(「自炊」という)をかんがえると、業者に依頼できなくなった恨みがある。
「著作権」が個人の知的生産活動を阻害している、といえる。
これが、「電子書籍」だと、「スクリーンショット(いわゆる「スクショ」)で、紙の書籍の手間とは比較にならない手軽さが実現した。
そうやって、電子書籍のページをPDF化すれば、OCR機能も自動的に起動して、出来上がったPDFは、原版と見た目もおなじなのに「検索」もできるように生まれ変わるのだ。
わたしは「iPad」を愛用しているのだけれども、どんどん多機能化してレンズも増える「カメラ機能」の方向性が変なのが恨めしい。
紙の本を撮影するに特化した、うまいカメラが欲しいのである。
あとは、「iPhone」に任せればいいのだけれど、デジカメ機能が最小の機種が欲しい。
スマホでふつうに写真を撮る趣味も、関心もないからである。
ましてや、「インスタ映え」をや。
そうやって「撮影」してから、今度は翻訳ソフトやサービスを利用すれば、言語の壁を乗り越えられる時代になってきた。
さすれば、電子書籍ほど、英語だけでなく「洋書」は豊富にあるから、とりあえず「速読レベル」なら、日本語翻訳版の出版を待つまでもない。
どうせなら、一気に全部を翻訳してくれたら、範囲指定の手間も省ける。
すると今度は、「図書検索」という問題が発生するのだ。
この壁をどうやって乗り越えるのかが、ニーズになってきている。