語学としての数学

ずいぶん前に、数学を「言語」として書いたことがある。

日本人は、母語の「国語」と、外国語の「英語」を、言語(学)学習だと思いこんでいて、言語学習とは、「文系」の科目だとも思いこんでいる。
そして、「理系」の代表格といえば、「数学」で、生徒が嫌いになるように仕向けて教えるのは、「英語」もおなじ、という共通に気がつかない。

ずいぶん前に、「国語の文法(「学校文法」)」と「日本語文法」のちがいについて書いた。

小・中学校の「国語」で習うから、これを外国人に日本語を教える日本語教師は、あえて「学校文法」と呼んでいる。
「狙い」は、高等学校の「古文」を読むための下準備だという。

しかし、外国人の日本語学習者には、とりあえず「古文」は必要ないし、外国人の母語との関係をもって説明しないと、ただでさえ複雑な日本語を理解するのは困難になる。
そこで、外国人の母語と比較できるように工夫したのが、「日本語文法」なのである。

幸か不幸か、欧米の言語や中国語は、その文法が厳密であるから、これらと日本語のちがいを比較対照することは、外国人にとってわかりやすい、という効果を生む。
なので、日本人の外国語学習者は、下準備として「日本語文法」をしっておくと、外国語たとえば英語の文法とのちがいを理解しやすくなる、という事実があるという。

日本における英語教育は、この下準備を生徒にさせない無謀がある、とはベテラン日本語教師の告白である。

さてそれで、文系人間がもっとも嫌うのが、「数学」なのも、数学とはなにか?という下準備を一切教えない無謀が、妙な伝統になって、数学教師達が生徒をマウントするための十分な理由となっている。

何度か紹介している、『教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社、2018年)で、数学者である著者の新井紀子氏は、「長い歴史を通して、数学は、人間の認識や、人間が認識している事象を説明する手段として、論理と確率、統計という言葉を獲得してきた、あるいは、獲得できたのはその三つだけだった」と書いている。

さらに、「論理、確率、統計。これが4000年以上の数学の歴史で発見された数学の言葉のすべてです」として、衝撃的な一言がつづく。
「論理、確率、統計には、もう一つ決定的に欠けていることがあります。それは、「意味」を記述する方法がないということです」。

文系人間にとって、数学の冷たさとか、無機的な不気味さの理由が、この「意味を記述する方法がない」に尽きている。

「意味」は、人間が別途かんがえないといけないのだ。

逆にいえば、きっと数学にはまった「理系人間」たちは、この意味をかんがえることが楽しいにちがいない。
すると、理系人間たちのこの楽しみとは、やたら「文系」的なのである。

役人が政策立案をすることの、「とんでもない」を、だれもいわなくなったのは、民主主義の普及がされていないから、ともいえる事象だ。
本来ならば、政策立案は、「議会」と「議員」の仕事だ。

それで、議会が決議したら、行政は粛々と実行する、という手順と役目がある。

しかし、議会と議員(政党)がシンクタンクをもたない手抜きのために、役人にシンクタンクの役割を振ってしまったので、「役人天国」ができあがった。

企業の場合は、スタッフが政策立案することになっている。
そのスタッフのおおくが、「文系人間」なのである。

だから、「数字」も文系のスタッフが用意する。
社内データはもとより、各種統計データを用いるのはいうまでもない。

しかしながら、その「解釈」の訓練はどうしているのか?
あんがいと、本人任せ、なのである。

日本企業の「強み」が、ことごとく「欧米に遅れている」として、「改革」されてきたのは、文系人たちによる破壊活動であった。
これを牽引した、経済学者の肩書きをもっていたひとは、いまでは世界経済フォーラムにおける日本人唯一の理事となっている。

このひとのよくわからない論理に、おおくのひとがだまされた。
似たようによくわからない論理をかざすのは、三浦瑠麗氏である。

どうしてこのようなひとたちが跋扈できるのか?を問えば、日本国民に対しての「論理」の訓練が中途半端だからで、それが学校教育における従来型数学の限界となっている。
実用を教えないから、なんのために勉強させられているのか理解できない。

ただ、点数をとるための解法を暗記したり、手計算の方法を身体でおぼえたりしている。
つまり、おおいなるクイズ番組が数学の授業になってしまった。

しかし、もっと驚くのは、高校数学から「行列」が消えていた。
2012年からの話である。
2022年からは統計が必須化したのと交換になったのか?
しかも、「ベクトル」も文系数学から消えるという変な扱いを受けている。

天下り問題で文部次官を解雇された、前川喜平氏は、高校の中途退学者を減らすために、数学の必修をはずせばいい、と主張しているそうだが、言語道断である。
このひとには、「教育の目的」やらの「肝心」が欠落している。

わが国は、あくまで「科学技術立国」を維持しなければならない。

そのための数学を、従来の方法ではなくて生徒に理解させる工夫が必要なのである。

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