『国家の品格』で有名な、お茶の水女子大学でながく数学の教鞭をとってこられた、藤原正彦氏(いまは同大学名誉教授)の講演を聴いてきた。
冒頭、「数学者は論理的ではない」という「論理」を展開されていた。
ふつう、論理の修得には数学が重要視されるから、聞き手に「おや?」とおもわせる「掴み」なのだろう。
また、氏は「新自由主義=グローバリズム」と定義されて、いまの日本経済や世界経済を批判的に論じているが、これはたしかに定義自体が「論理的ではない」から、「氏=数学者」と限定すれば、数学者は論理的ではない、と証明できる。
しかし、数学者は氏以外にもたくさんいるので、数学者は論理的ではないときめつけることは、わたしにはできない。
新自由主義が、どうしてこの国で忌み嫌われるのか?
むしろ、この国で愛されるのが社会主義であることをおもえば、こたえはむずかしくない。
富の集中と分配をどうすれば適正化できるのか?
これを数学的な計算にもとづいて計画しようとすれば、それは、社会主義計画経済になる。
社会主義計画経済は、ソ連の実験で破たんした事実があるけれども、これをソ連成立の「前に」、数学的に成立しないことを証明したのは、ミーゼスであった。
だから、ソ連での実験は、ミーゼスの証明を70年かけた事実でもってした証明にすぎないのだが、いまだにソ連のやり方が下手だったのだという「論理」をかかげるひとびとがいるのは承知のとおりだ。
こうしたトンチンカンな論理的結論がでる理由を藤原正彦氏は、まちがった「情緒」だという。
なるほど、感情的になれば、論理などふきとんでしまう。
しかし,それはただの「感情論」ではなく、論理を構成する「出発点」の設定をまちがえるからだと説明するのは、たいへん論理的だ。
たとえば、A点とB点を結ぶ直線は一本しかない、のはユークリッド幾何学の基本中の基本だ。
線分の出発点AからBを目指すとどんな線が描けるのか?
ひとは、その線の結果のすがたをみたがるものだ。
そして、ゴールであるB点に注目する。
けれども、もっとも重要なのは、出発点Aをどこにするのか?という選択で、あとは決まってしまうものだ。
これを、論理にあてはめれば、その論理の出発点をどこに設定するのかがまちがっていれば、論理的に展開させればさせるほど、結論となるこたえはあさっての方向になる。
そこで、出発点をただしく設定する能力こそ、ただしき「情緒」ということなのだ。
数学者のことばから「情緒」というと、わたしは岡潔『情緒と日本人』、『情緒と創造』をおもいだす。
「情緒」の源泉はなにか?と問えば、言語、とくに母国語になる。
日本人なら日本語が情緒のみなもとである。
人間は思考する動物であるが、この思考を支配するのが「ことば」だからである。
だから、ただしい日本語がただしい人格を形成するのだ、という教育論になる。
70年代にいわれた、「ことばのみだれ」は、すなわち「社会のみだれ」という論理の出発点だ。
それで、小中学校における「国語」教育の重要性が訴求される理由になっている。
日本語の話者、すなわち日本人が、世界的にみて外国語習得が不得手な集団であることは、言わずもがなではあるけれど、それが「国語教育」に原因があるという説がある。
小中学校でまなぶ、国語文法の目的は、高校でまなぶ古典理解のための基礎、という位置づけであるということから、これを「学校文法」とよんでいる。
外国人の日本語学習者がつかう教科書は、「日本語文法」と表記されていて、「国語文法」と書かないのは、日本語が外国人には「国語」ではないから、という理由ではなく、「日本語文法」と「国語文法=学校文法」がまったくの「別物」だからである。
さいきんは、「国語」のことを「日本語」とわざわざ言い換えて、このちがいを混同しているひとがいるのは、「情緒」の問題なのだろうか?
そのちがいとは、「日本語文法」は諸国語と比較できるように整理されている文法で、日本語を外国語とおなじ位置づけにしているが、「学校文法」は日本語の独自世界にとどまっているということなのだ。
国語教師は「国文科」卒、英語教師は「英文科」卒がふつうだから、このクロスオーバーは、ない。
だから、国語教師は英語との比較をおしえないし、英語教師も国語との比較をおしえることができない。
「日本語文法」を外国語をまなぶ直前の時点で学習することが、じつは修得の秘訣なのだと、外国人向け日本語教育の専門家が耳打ちしてくれた。
反グローバル化、はこんなところにもある。
さてそれで、藤原先生の主張は、価値論へとつづく。
それは、次回に書こうとおもう。