「報道しない自由」なる、美語が蔓延して、放送局のプロパガンダを隠蔽している。
一方通行で視聴させられる国民には、「選択の自由」すらなくなった。
どの放送局も、おなじプロパガンダを放送しているからである。
それでもって、「放送法」による「公正なる放送の義務」が、放送免許の制度と一体だったはずではあるが、監督官庁がこれを「やめた」ので、自動的に法の存在が無意味になった。
やめた理由は定かではないけれど、政治家は国税庁に睨まれることを恐れて財務省に文句を言わないのと同様に、放送局に睨まれて針小棒大な事件を放送されることを恐れて文句を言わなくなったし、監督官庁の役人は放送局に天下ることの「うまみ」があるからだと推察する。
しかし、このことが成立するのは、国民が放送を信じることが前提にある。
アメリカの調査では、共和党支持者の9割、民主党支持者の7割が、マスメディアを信じない、と回答して、現実に偏向報道で有名になった放送局は、視聴率が半減するという「仕打ち」を受けている。
ビッグテック企業による「検閲」は、さらなる議論を呼んでいて、これら企業の保護を定めた、「通信品位法230条」の適用除外が政治課題にもなっている。
しかもいまは、「ただ除外しろ」という粗っぽいやり方の主張ではない。
連邦であれ、州であれ、あるいは地方都市であれ、ビッグテック企業の通信サービス(ふつう「SNS」という)が、これら「政府」の機能を補完しているなら、例えば、政府が災害時の緊急連絡にSNSを使うとか、平時でも政府からの情報をSNSを通じて一般に伝達するとか、それは、「政府の一部だ」と認定できる。
つまり、「私企業だから」憲法に定める「自由の保障」をしなくてもよい、という訳にはいかないばかりか、「政府と一体」ならば、憲法の履行義務が生じるのは当然だ、という根拠なのだ。
このブログの読者ならわかるだろうけど、近代民主主義国家の憲法とは、国民から国家・政府への命令書なので、国民・私企業は、憲法を書いた側だから「履行義務はない」のだ。
憲法を履行しないといけないのは、国家・地方の政府であり、公務中の全公務員なのである。
「公務中」というのは、公務から離れたら、そのひとも「国民」になるので履行義務を失うからである。
こうしてみると、アメリカ人は憲法の存在理由を知っている。
「欽定憲法」の明治憲法と、GHQの「欽定憲法」になったいまの憲法も、日本人には日本国民が定めた、という概念すらない(上から与えられた)から、憲法は「ただの最高法規」としか意味をなさない。
それは、自民党の「憲法草案」を一瞥すればよくわかる。
驚くことに、この政党は、「憲法=最高法規」という、素人考えをそのまま踏襲して、「国民に命令するための最高法規」に仕立て上げている。
民主主義の根本を知らないひとたちの政党なのだ。
あるいは、憲法の意味を国民に知らせることを「わざと」しないで、支配構造を作ってしまえ、という魂胆か?
なるほど、小学校でも中学校でも、「日本国憲法」は「国民主権」、「基本的人権」、「平和主義」の「用語」を暗記させるけど、上述した「理由」を教えない「工夫」がされている。
国民主権という用語だけを覚えさせられても、憲法が国民から政府への命令書だと教えないから、おとなになっても理解できるはずがない。
そんなおとなが、自民党の議員だけでなく野党もおなじになっている。
それだから、与野党共に「野合」すれば、支配階級に入るのである。
よって、誰もプロパガンダ放送がおかしいとも、いけないとも言わなくなった。
国民からしたら、こんな放送局は全局、廃止が望ましい。
「うそ」と「ほんとう」を区別なく放送するから、国民の「脳」が冒されてしまう弊害が横行する。
NHKだけを取り上げて、国営化とか民営化とかの議論があるけど、国営化だって、「行政」に吸収されるという意味でしかない。
ならば、地上波電波を全部、「議会」に開放すべきだ。
むかしのチャンネルでいえば、1:衆議院、3:参議院、4:各県議会、6:各市町村議会、8:町内会・自治会、10:児童会・生徒会、12:PTA
議会をやっていない時間帯はどうするのか?
1:放送休止
2:再放送 のどちらかだ。
ニュースなど情報はどうするのか?
ネットに接続して各自勝手に視聴すればよい。
そもそも、ニュースがプロパガンダに堕落したから、ニュースも天気予報も貴重な地上波電波を使うほどの価値はないし、災害にも役立たない。
それに、民放だって、もはや番組スポンサーがつかない。
「マス」での広告よりも、ネットでの広告がはるかに「有効」だと証明されたからである。
オリンピックの放送は?
これもネットで視聴できる。
年間で万円単位になるNHK受信料が、バカ高いことも国民は知ることになるのは良いことしかない。