業務用ではなくて、個人用の話である。
個人用でも、遊ぶためではなく、勉強や仕事効率化のためだから、広い意味の業務用でもある。
タブレットPCは何枚か所有していたものの、本物のPCではない不満が原因で、つい「何枚も購入」ということになってしまった。
もとはPCじゃない、という感覚があるので、「安かろう悪かろう」の典型だと認識していた。
もちろん、価格的に別格の「ipad」なるタブレットPCのことはしっていたけど、こちらもついうっかり「ウィンドウズ・タブレット」という別物に手をだしてしまっていた。
昨年は、政府から10万円、おカネがもらえた。
いっそのこと、として買ったのが気になるipadであった。
これでようやく気がついたのは、ipad以外のタブレットPCとは、用途限定の「ゴミ」であることだ。
けれどもipadも種類がたくさんあって、機種選びには困った。
動画編集はしない、という一点で、「pro」ではなくて、「Air」にしたのだけれど、結局、老眼に厳しい画面の大きさから、「12.9インチ」のProを中古で買い増して、2台持ちで使っている。
中古にしたのは、アップルペンシルの第一世代が、双方で使い回しできるからである。
あんがいとこの第一世代が便利なのは、100均にある子ども用のシリコン製鉛筆グリップが書き心地をすこぶる向上させるからで、マグネット式で充電する第二世代では使えないのが最新を選ぶ気のしない原因になっている。
そんなわけで、政府からのおカネだけではぜんぜん足りなかった。
もちろん、「アプリ」にもおカネがかかる。
最近のアプリは、「サブスクリプション」といって、毎月に使用料を引き落とすものがあるから、気軽に購入のタップができない。
「ちりも積もれば」の典型で、あとから困っているひとも多いと聞く。
その意味で、「買取型」は、「良心的」といわれるようになった。
とはいえ、数千円になると、やっぱり躊躇する。
使用を重ねることでの利便性と、目のまえに提示された金額の比較判断が困難だからである。
これが、「経済人」というものだけど、年がら年中「経済人」をやっているわけではない。
それでも経済学徒必読の書といって、むかし読まされたのが、『ロビンソン・クルーソー』(経済人の物語)だった。
これは決して子ども用の児童文学ではない。
むしろ、むき出しの損得勘定がさせる行動が原動力の、大英帝国流の理想像なのだ。
無人島での「やるべきこと(いまなら「To-Doリスト」)」を、貸借対照表に転換して優先順位をつける。
ロビンソン・クルーソーが、とっくに身につけていたこれらの手法を、日本を代表する企業の経営者が、ほんとうに無意識レベルでやっているのか?
社長室に座っている時間、これをやらないで「経済人」を演じることが、どうしてできるのか?
ただし、上述のように、人間は24時間連続で「経済人」ではない。
人生の楽しみという個人的な世界のために、理屈では通らないことをする。
これが集まると、「経済学の根底」を揺るがすのである。
だから、生活経済が豊かになると、経済学モデルが陳腐化して、「使えなく」するのだ。
ロビンソン・クルーソーの物語は、意外な展開をみせるから、全部が教科書にはならないけど、その判断も「読んだ上で」だし、その意外性を楽しむのも人生である。
そんなわけで、「読む」という行為は、「書く」ということよりもだんだんと多くなる。
社会的立場がそうさせるのだ。
上位者は、もっぱら部下の報告を読んで判断することがふえることになっている。
すると、若いうちにちゃんと「書ける」訓練をしておかないと、「読む」立場になったとき、うんざりするような文書を読まされるはめになっても、修正指導ができなくなる。
これがどれほどの不効率を組織にもたらすか。
老眼が眼精疲労を惹起させたら、それから書いた人間に八つ当たりもしたくなろう。
つまりは、パワハラの原因になりかねないのだ。
「書く」には、画期的といわれた「アウトライン・プロセッサ」が、ワープロの普及の後にやってきた。
いまでは、もっと詳細な、「マインド・マップ」が重宝されている。
かんがえをまとめる、というまえに、思考の構造図を描くことでより鮮明になるからである。
すると、「読む」には、書き手の思考構造の「解明」をともなうのだ。
だから、略して「読・解」というのである。
そのために、むかしは「赤ペン」をつかったものだ。
ペーパーレスになったいま、やってくるのは「電子文書」である。
なので、これを読解するのには、印刷して赤ペンもいいけど、それよりも端末上で直接読み込みたい。
そこで、書くためでなくて読むためのアプリが重宝する時代になった。
『Flexcil』とか、『Liquid Text』、定番なら、『PDF Expert』や『GoodNotes5』がこれにあたる。
これらを足して割ったアプリが欲しいが、そうはいかない。
この文書なら、どのアプリが適しているのか?を判断するのが、読み手に要求される「作業能力」になったのである。
まちがえると、二度手間、三度手間になる。
赤ペン一本で解決できた時代とは、部下の文書もそれなりに「読めた」のかもしれない。
[追伸]
「書く」のには、ふつうキーボードを使うけど、「手書きキーボード」(買取型490円)を見つけてインストールしたら、これが快適だった。