わが国は、だれでもが「法治国家」だと思い込んでいる。
でも、実態は、かなりあやしい、のである。
「民事訴訟」と「刑事訴訟」が別れていて、さらにこれらとは別に「行政訴訟」もある。
そもそも論でいえば、国会で審議中、あるいは通過・成立した法律に対する、憲法判断を最高裁判所が「しない」ので、法律製造のたれ流しが行われている。
製造業で発生した、かつての「公害」が、法律の側面で発生しているのを止められない国になっている。
最高裁判所が知らんぷりして、他人事になれるのは、「事前」に内閣法制局がチェックする、という「掟」があるからである。
議員立法なら、衆議院、参議院それぞれにある、「法制局」がやはり事前チェックをしてから「法案」になっている。
わが国では、あまりにも「議員立法がすくない」ので、国会両院の法制局は、「なんでもいらっしゃい」という姿勢なのだ。
べつにいえば、「暇を持てあましている」。
議員立法「しか」ないアメリカ合衆国との違いは、ここからはじまる。
「たぶん」だけれど、権威主義の最高裁判所判事たちにとって、内閣法制局の官僚を敵にまわしたくない、とおもわれる。
「論破」されることを回避する、もっとも有効な手だては、関与しないことなのだ。
昨年の大統領選挙から、アメリカの連邦最高裁も息をひそめてしまったので、かなり深刻な事態になっているけど、わが国にてらせば、その深刻さの深さと広さは、わが国の側にある。
ずっと前から「常態化」しているために、目立たないだけだ。
裁判所がそんな具合なので、検察が好きにできる。
2001年に放送された、フジテレビ『ヒーロー』は、当時、全局対象で最高視聴率をたたき出したドラマである。
フジサンケイグループの産経新聞がどちらかというと「保守系」なのに、フジテレビの「進歩系」というコントラストは、より強化されて現在に至っている。
「楽しくなければテレビじゃない」がキャッチのテレビ局だった。
それで、楽しく観ていたひとたちに、「検察=正義」という、驚くべき勘違いをさせたのだから、このドラマ・シリーズの意図とはなんだったのか?
一種の、「褒め殺し」だったのではないかとうたがう。
ファンタジーを現実だと国民が思い込めば、あとは好きにできる。
これは、「狂気」だ。
国民が狂人に仕立てられて、政府がこれを支配する。
あたかも、『羅城門』のごとく。
なにが真実なのか?がわからなくなる。
さて、30日に、「検察」に関係するニュースが3本同時に配信されてきた。
・カジノ疑惑で逮捕された国会議員が、公判に及んで無罪を主張。
・通行人に催涙スプレーをかけたのに「不起訴」になった。
・泥水客から現金をだまし取ったのに「不起訴」になった。
⇒このふたつの不起訴について、理由を明らかにしていない、という共通点がある。
「無罪の主張」は、裁判でのことだから一応は公になっている。
ここで、「検察」による「逮捕」の不当が主張されることになるので、なんらかの判断を裁判所はしないといけない。
その意味で、裁判所は逃げられない。
ところが、あとの二つはどういうことか?
「不起訴」だから、裁判所に書類もやってこない。
つまり、警察に逮捕されたけど、検察の判断で「なかったこと」になったのである。
ならば、処分されるべきは「不当逮捕した」警察になる。
わが国には、国家警察はないことになっているから、都道府県警察のトップは、知事である。
すると、知事は、みずからの責任において、警察幹部から事情をきかないといけないのではないのか?
なぜなら、市民の安全をまもるのが知事に要求される最大の職務だからである。
その市民が被害者なのだ。
そして、犯人を逮捕した警察は、知事の配下にある。
念のため書けば、都道府県の警察本部長は知事の部下にあたるのだ。
いい方がちがうけど、警視庁の警視総監だっておなじだ。
すると、国家行政の法務省に属する検察が、不起訴の理由を明かさないということ自体が、「不祥事」である。
少なくとも、知事は検察に理由を公開質問しなければならない。
「起訴」したら、かならず起訴理由を公判で述べるのに、不起訴がその対象にならないということはあってはならない。
いかなる「法理」で不起訴にしたのか?
たとえば、「初犯だから」とか、「反省いちじるしいから」とかでもいいし、逮捕にあたって不法行為があったでもいい。
ならば、処分対象のひとだけでなく、警察も、二回目を許さない、とか、不法行為はまずい、ということになって、それぞれの防止に役立つのだ。
検察が裁判所の仕事を奪ってはならない。
であれば、裁判所は検察に「不起訴の実態を報告させる」ぐらいのことはしていい。
弁護士や検察官出身の議員はいるけれど、裁判官出身者が見当たらない。
あんがいと、「やめ裁判官」はいるものなのに。
これは、リクルートしない政党の怠慢なのか、なにか不都合でも?