「アピールしなくても評価される職場はないですか?」
念のため書けば、「きっとある」と続いている。
これを読んで、きっとある、と思うひとがどれほどいるのかしらないが、それは、鉄砲のように数撃てば当たる、というものでしかない。
むかしの会社なら、そんなアピールをする方がマイナス評価になった。
バブルのころに生まれた、「パフォーマンス」という外来語が、日本語に取り込まれたとき、中身よりも重要なのは形式になって、それがいまでは、「映え」に進化した。
とにかく「映え」さえすれば、バズって、ことによるとおカネになる。
それが例えば料理の写真なら、美味い不味いは、食べたひとの自己責任というわけで、料理人の責任ではなくなったのだ。
そしてとうとう、安全性まで自己責任にされそうになっている。
にもかかわらず、詳しい食品表記の義務は、「規制緩和」されてしまうのである。
べつにキリスト教会からいわれなくとも、縄文以来、別文明を構築してきた日本人は、人はパン(食物自体)のみにて生くるものに非ず、ということはしっていた。
それは、人生を生きる意味であり、哲学のことである。
いまは、人生を生きる意味を教えてくれる身近なおとながいなくなったので、40歳までの若年層における死亡原因のトップが、どの年齢層も「自殺」になっていて、これをまた誤魔化すために遺書がなければ「不審死」となる。
中でも、おとながかんがえないといけないのは、小・中・高校生の自殺が、昨年(2022年)には過去最多の五百人以上となったことだ。
すると、児童・生徒の親世代も、こぞって自殺していることになって、人生を生きる意味をおとなでさえもわからなくなっているということなのである。
もちろん、自殺という結末は、一種の異常である。
その異常は、ぼんやりと周辺のひとびとにも波及しているはずだから、極端な結論に至ってはいないひとたちが抱える、「漠然とした不安」は、かつて自死した芥川龍之介が残した言葉通りの状態になっているのである。
人間とは不思議な動物で、なにも不満がない状態が続くと、不安になるのである。
その満足が、自分からすすんで得たものでなく、なんとなく与えられたものであるほど、不安になる。
ところが、その「なんとなく」を解明すべく、自身で悩む努力もしない。
果たして、『若きウエルテルの悩み』とは、いまは無価値になったのか?
おそらく、「面倒臭いこと」になったのであろう。
かんがえることが面倒くさくて、ダサいこと、になったら、それは「人間辞めますか?」になる。
パスカルがいったという、「人間はかんがえる葦である」、から「かんがえる」を取ったら「葦」という物質になる。
つまり、物に帰ることだから、これを「物故」といえば、なるほどなのだ。
しかして、ただ漠然と生きている、という動物状態になる。
そんな物故した人間が多数になると、社会はあらゆる面で退化する。
これは、「ゾンビ社会」なのだ。
ゾンビとなった個人が、あたかも企業集団を形成すれば、かんがえない集団であるだけなので、過去からの惰性分でしか利益は上がらない。
それで、「安心」と「安全」を混同させて、企業内部だけでなく、顧客へもかんがえのないことをアピールするようになるのだけれども、受け手もかんがえない共通があるから、誰も疑問に思うものはいなくなる。
提供者が、自らの商品やサービスに、「安心」をいうのは、論理的にまちがっている。
これら商品やサービスを購入した消費者が評価するものだからだ。
「あそこの商品なら安心だ」と。
だから、商品やサービスを提供する企業の側は、「安全」が商品価値の中にあることを意識して、商品企画や商品設計、製造をすることが「業」となり、安全が破られる可能性(危険性)を、「リスク」というのである。
リスクはコントロールするもの、というのは、ここからきている。
このリスクコントロール活動の結果が、いつもの安全になって、上にいう消費者からの評価としての「安心」に変容するのである。
このように、「安心と安全」を一緒くたにして、消費者に訴求することの不道徳は、その組織が「かんがえていない」か、「かんがえることを放棄している」とみなすことができるから、中で働くひとたちの「(人事)評価」も、自然とできなくなるのは、適切な「評価」をしようということも、かんがえないのが、ふつう(社風)になっているからなのだ。
いちいち「アピール」しないといけないことに、嫌気がさしているひととは、以上の意味から、希少種になっている。
アピールの必要性もなく、かえって逆評価になった、むかし、は、どちら様もかんがえることが当たり前の社会であり、企業組織だったのだともいえる。
旧制高校生の「寮生」たちが、毎夜尽きない議論をしていたのは、とにかくかんがえることをやっていたと、かんがえれば、かんたんなことなのだ。
「きっとある」という希望的観測は、転職サイトの宣伝・広告だからで、転職企業の内部の資料あるいは担当者の頭の中には、過去の紹介データから、かんがえる企業とかんがえない企業の区別が「きっとある」にちがいない。
個人としては、どうしても企業側に「選ばれる」ことを意識しがちであるけれど、これは、人的資源が豊富な時代の、需要と供給からできた「買い手市場」でのことだった。
いまは、人的資源の争奪がふつうなので、個人が働く先を「選ぶ」時代になっている。
個人が選ぶための条件に、その企業のトップを面接することが重要なので、採用に担当者だけがあたっていて、あたかも個人を選んでいるようなら、そこは、入社しても「アピールしないといけない」ことが明白だ。
ちゃんと企業のトップが面接に出てきて、個人の側からの目線を気遣うようであるなら、きっと当たりなのである。
企業の将来を担う人材を得るための、「採用」とは、そういうものだ。