さいきん目にする、「自然派農業」という文字には、自己矛盾がある。
そもそも農業を「業」として行うとは、必ず自然破壊を伴うからである。
「エデンの園」に住んでいた人類の租、アダムとイブは、労働をする必要もなく、その辺にある果実やらを適当に採って食べていればよかった。
だから、飢餓をしらない。
なので、満腹になるまで食べることもしなかったろう。
ひとはいつでも腹が満たされる状態にあれば、しぜんと「腹八分目」にするものだ。
しかし、ふつうのひとがそんな状態に置かれたら、こんどは閑を持てあまして、ロクなことをしなくなる。
蛇に騙されたことにはなっているけど、きっとアダムとイブが閑を持てあましていたにちがいないのは、イブに少しは「智恵」があったからだろう。
すると、アダムは完璧な「愚民」だったともいえる。
それで例の「智恵の実」を食べてしまって、罰として一生労働して暮らさないといけないように、「楽園追放」の目にあうことになった。
これを、あちらのひとたちは、「原罪」と呼んでいて、彼らの子孫であるわれわれは皆その罪を背負って生まれてくる、と。
一方で、日本の神話では、米作りがすぐさま出てきて、「瑞穂の国」となっている。
それがまた、縄文遺跡からも炭化した米が出土して、いまだに日本人の半分を占める縄文人の先祖は、稲作をやっていたことがわかっている。
だから、弥生人が稲作を持ち込んだ、という説は、もはや通じない。
ここで、アダムとイブの子孫たるひとたちは、まず米を作ってはいないことを確認しておく。
彼らは、主に小麦、大麦、オリーブ、ぶどう、を作っていた。
なお、ジャガイモやトマト、トウモロコシ、ナス、それに唐辛子などは、みなアンデス原産なので、コロンブス以降のひとたちがヨーロッパに持ち込んで普及したから、ここ数百年程度の、人類の食料としては「新しい」農産物なのである。
すると、これらの「輸入品」を日本人が栽培して食べ出したのは、「もっと新しい」ことになる。
江戸期に唐辛子がやってきて、辛子に「唐」をつけたのは、南蛮人からの伝来をいったのだと前に書いた。
対して米は元来東南アジア原産で、稲という植物は、育つのにやや水没した環境がないといけないのである。
だから、米作りには、東南アジア「風」の環境を人工的に作って、あたかもやや水没させて暮らしやすいようにしてあげるのである。
これを、縄文人がしっていた。
一方のアダムとイブの子孫たちがいるあたり(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のひとたちが住む)は、もともと乾燥地帯(メソポタミア・エジプト)で、小麦栽培の地域だった。
ところが、米にあって小麦になく、小麦にあって米にないものがある。
米にあって小麦にないのは、玄米にある「必須アミノ酸」だ。
小麦にあって米にないのは、「グルテン」である。
だから玄米を食べていると、極端だが副食を要しない。
しかし、小麦ではそうはいかないから、タンパク質は家畜から得たし、脂質は家畜とオリーブオイルから、そして嚥下しやすいように飲み物を欲したけれど、清水がないのでワインをつくって飲んだのである。
それゆえに、西ローマのカソリックと東ローマの正教会(元はローマ教会)での儀式「聖体拝領」では、パンとワインをいただくのである。
なお、プロテスタントにこの儀式はない。
洋の東西を問わず人類は、農地を「開墾」するために、森を開き、岩をどけてきた。
つまり、「自然」を太古からの手つかずのままの状態だとすれば、農地とは「それだけ」で自然破壊をするものなのである。
なので、耕作放棄地の荒れ地を「自然にかえる状態」といえばいいものを、整地された「百枚田」をみて美しい自然だといって写真を撮り、耕作放棄地の草ボウボウを見向きもしない。
だから、自然派農法なる言葉には偽善があるし、「野菜工場」なる言葉もおかしい。
しかし、人間は食物をとらないと生きていけないために、農地を保持しながら農作物を育てるのであるから、農地そのものが「工場」なのである。
それが証拠に、各種肥料(いまは化学肥料)と、農薬をどのように使ったらもっとも効率がよいのか?という「生産技術」が問われる。
これらの「投入量」と「投入回数」を、人工的に少なくする農法を「自然派」というから、ふつうの農業よりもずっと人工的なコントロールを要する。
それが昔は、「厳しい農作業=労働」をもって対処したのだった。
勝手に作物ができて、エデンの園のような農業を「自然派」とはいわないのは、そんなことができないからである。
これを無理やり政府が命じて破綻したのが、スリランカ農業でのできごとだ。
しかして、われわれが「自然派作物」を求めるのは、「安全」に尽きる。
けれども、「安い」を優先させたら、そうはいかない。
さてそれで、「安物買いの銭失い」という諺は、どんなふうに作用しているのか?
それが、「健康」だとなれば、「安いは悪い」になるのだけれど、簡単ではない「深刻」がある。
いまや、せめて「旅先で」すら、ままならないのは、先年の東京オリンピックにおける選手団への食事提供だったけど、「世界規格」に合致した作物が国内になくて「輸入」に依存していたのである。
日本人はいま、なにを食べているのか?なにを食べさせられているのか?
オリンピックの「経験」は、ぜんぜん活かされていないで、たった1年前のことなのに、なかったことになっている。