「うっかり」は、人間につきものだけど、年を取ったせいにしていえば、このところ「携帯電話」を落したり、置き忘れたりして、なんどか「紛失」している。
ちなみに、「またなくしたの」と家人にいわれることも、いつも通りなのである。
そして、ありがたいことに、みつかるのである。
離れたところに保管場所があるので、そこまでとりに行かないといけないけれども、「みつかる」ということの裏には、「だれも触らない」とか、「届け出てくれる」という、「手間」がある。
「触らない」ことが「手間」なのは、他人のものに「触ってはいけない」とかんがえたことについての「手間」として、「触らない」からである。
訪日した外国人YouTuberが、財布やら貴重品を落しても、日本に限っては「みつかる」ことに「感動」する話を通り越して、わざと落してどうなるかを「実験」して動画配信している。
それがまた、気づいたひとが全員、落した本人を走って追いかける、という「手間」をかけて、「落としましたよ」といってニッコリ手渡すのである。
こうした「動画」を観た、外国人のコメントは、一応に、「奇跡の国」という評価になるのである。
「うちの国だったら、走って逃げる」のがあたりまえで、図書館でも喫茶店でもどこでも、席を離れるときに貴重品を置いたままにしても「安全」なことなんて、「ありえない」というコメントが満載になるものだ。
だから、これをついうっかり、外国でやると、たちまちカバンごと紛失の憂き目をみて、パスポートごとなくなって「帰国できない」なんてことにもなるのである。
いわゆる、「置き引き」の被害が、もっとも「ふつう」に発生する。
とくに、人混みの空港ロビーとか、中央駅とかが注意を要する場所になるのは、「お仕事」として、他人の行動を遠目で観察して、虎視眈々と狙っているひとたちがいるからだ。
それでもって、注意が甘い日本人がターゲットになるのだ。
そんなわけで、日本人はどうやら、世界的に「異常」ともいえる、習性を持っていることが、外国人からしたら「奇異」にみえるほどなのである。
しかし、日本人がこれをどこまで「自慢」できるかといえば、ちょっと自信がなくなることもある。
地下鉄サリン事件は、世界的にも珍しいを越して、世界初の化学兵器による無差別テロだった。
これをきっかけに、駅から街中から、「ゴミ箱」が撤去されて、それが現代日本文化にまでなってしまった。
そして、「不審物」には「触らない」ということも、「身の危険」との関係から、あたりまえになったのである。
けれども、これには、「えんがちょ」という、外国人にはほとんど理解不能な「穢れを忌み嫌う文化」があったから、徹底できているともいえる。
しかも、「えんがちょ」は、他人にタッチするだけで、「伝染」する。
これを防止するには、タッチされる前に「えんがちょユビ切った」と言って、指でサインをつくって相手に示さないといけない。
この「防止行為」が、変形したのが「マスク着用」だともかんがえられる。
ゆえに、日本人がマスクをはずさないのは、完全に、科学を上回る「穢れの文化」が、日本人を支配しているからともいえる。
だから、「権威者」が、「えんがちょユビ切った」という意味の、「マスクをはずしましょう」といわないかぎり、日本人はマスクをはずせない。
じぶんが「えんがちょ」の「鬼」になってしまうことが、最大の「リスク」だからである。
もはや、「感染症」の「感染」を怖れているのではないのだ。
完全に、社会的・文化的レベルになっている。
まったくもって、宗教的人間の集団が日本人なのだけど、これをまた、全然意識しないで生きているのも日本人だ。
その宗教が、いつからかわからないほどむかしで、新しい「神道」とは別の、「日本古来」からのものだから、外国人には理解できない。
すると、日本人だって、神道と神社とえんがちょの関係が曖昧模糊としているままなので、なんだかよくわからないでいる。
ヨーロッパ人は、こうした曖昧模糊とした状態に心理的不安を感じるから、絶対に「理論化」する。
しかして、日本人は曖昧模糊を「放置」するのである。
それで平気でいられるのは、そんなことにいちいち興味がないからである。
つまり、完全に「無意識レベル」で、全員一致の境地に達しているのだ。
これが、外国人から日本国を、「日本という惑星」という言い方で表現される理由である。
つまり、別の星に生きていると思えるほどの「ちがい」を認識されている。
その「キーワード」が、「道徳」の根本的なちがいだといえる。
日本人の道徳は、明らかに外国人の道徳と「レベル」がちがう。
これは、アイン・ランドがいう、「資本主義は道徳世界にしか成立しない」ということからしたら、地球で唯一「資本主義成立」の条件を持っているのが、日本人だ、ということになるのである。
世界人類は、いまだにそんな「資本主義」を経験していない、から、資本主義とは「未来のシステム」であると断言したアイン・ランドが正しければ、人類未来は、日本人が握っているのである。
ハイエクは、「資本主義」とは、マルクスが考案した、共産主義のアンチテーゼとしての概念だと指摘した。
つまり、共産主義ありき、から導いた、架空の概念が「資本主義」なるものだ、と。
すると、われわれがいま生きているこの世界はどうかんがえればよいのか?
大塚久雄が説く、中世までの「前資本:詐欺・掠奪・冒険がふつうの経済社会」の状態に、科学と技術が結合した「だけ」だとすれば、納得がいく。
だから、いまでも、詐欺・掠奪・冒険が絶えないのであって、国際金融資本家たちによる一般人からの「掠奪」が、ふつうになっている。
すると、これに対抗する、世界の光は、やっぱり「日本人」しかいないのである。