映画『マトリックス』の第一作は、1999年(平成11年)の作品だった。
以降、シリーズとなって、その哲学性の深さゆえに、「難解」=「つまらない」という評価をするひともおおい。
なお、監督・脚本のウォシャウスキー兄弟も、進化して、性適合手術をうけて「姉妹」へとかわったのも、「マトリックス的」なのである。
この作品について、このブログで何度も取り上げているのは、わたしのお気に入りであるからだけれど、その理由は、やっぱり「内容の深み」にあるからだ。
物語の構造として、「世の中の二面性(たとえば、表と裏)」を、かくもハッキリみせたものはない。
その意味で、単なる消費対象としての「娯楽映画」ではないのだ。
ではなにか?を問えば、まさに、レビ・ストロースの「構造主義」そのものによる、「社会の構造」の解説をドラマ仕立てにした作品だとおもうのである。
この意味で、「学術ファンタジー」なのだ。
その証拠に、2012年(平成24年)に、米国議会図書館のアメリカ国立フィルム登録簿に登録されたが、その理由が、「文化的、歴史的、美学的に重要な作品」だからであった。
なお、受賞が当然のアカデミー賞では、4部門(視覚効果賞、編集賞、音響賞、音響編集賞)と、なんだか表面的なのが、いまどきの「アカデミー賞」だからか?
さて、この作品のはなしから、経済学をかんがえるひとはあまりいないのだろうけど、「表・裏」という構造を意識すると、表の「主流派経済学」をよく観察すると、おかしなことがみえてくるのである。
わたしが学生だった80年代はじめの、大学における経済学には、マルクス経済学(「マル経」)と近代経済学(「近経」)が対峙していた。
わが国の「経済学部」が、「文系」扱いされていて、受験に数学がないのも、戦後のGHQが定めたなかで、主流になったのが、「文学としてのマル経」だったからである。
それでもって、ファンタジー文学をあたかも「理論」だと勘違いさせて、学生を世に出しつづけた。
そうやって、官界(国家・地方の公務員)と財界(民間企業)だけでなく、学界(大学教師)を、マル経で染めて、将来の共産化を謀ったのである。
しかし、巧妙な手口は、公務員試験とか、企業の入社試験の「問題」に折り込んだ。
それが、「近経」からの出題で、「ミクロ経済学」と「マクロ経済学」からの設問として、あたかも「マル経」を無視したように見せかけたのである。
だから、わたしを含めた安易な学生は、「近経」をもって、正統なる経済学だと信じたのであった。
それが変だと思ったのは、『サミュエルソン 経済学』なる、有名な教科書で、どういうわけかマル経を徹底して推しているはずの、岩波書店からで、訳者が、バリバリのマル経学者、都留重人であったことだ。
もちろん、都留重人は、東大で、ときの「経済学会」を仕切っていた重鎮どころか、各大学の教員配置にも権力をふるって、わが国の大学を文部省と共に破壊した工作員である。
サミュエルソンは、天才的な数学の才能をもって、「数理モデル」を経済学にあてはめて、文学だった経済学を、あたかも「理系」にしたけれど、そもそも人間の欲望から発する経済活動をすべて数理モデルで示すことなんかできっこない。
その悪乗りの成果として、「経済物理学」なる、マルクス経済学の変種がでてきた。
数学を無視したマルクスの補完というべきで、根幹に「唯物論」があるから、「物理」なのだ。
ちなみに、われわれがずっと学ぶ「算数」や「数学」は、数式があって解が存在する分野でしかないけれど、世界は、数式が書けても計算できないことや、数式すら書けない事象が、ふつうなのである。
むしろ、経済学は、心理学に近いはずなのに。
それでもって、近代経済学の本質とは、古典派から発展した、「新古典派」のことを、「主流派経済学」と呼んでいる。
これがまた、人間とその心理をまったく考慮しないときているし、アメリカ経済の分析ツールでしかない、という問題がある。
なので、日本経済にあてはめても、なにもないのは、日本経済が特殊なのではなくて、よくみれば、アメリカ経済すらわからないことがわかるのである。
また、日本の政府は、ケインズが大好きで、ずっとケインズ政策をやって成果をだしていない。
あらためて、国民目線からの、つまり、国民生活を向上させる、というかんがえからの、経済学が、ないようにみえるのが、国民にとって悲劇的なのである。
しかし、だからこそ、政府は国民を支配できるのである。
そこで探ってみたら、「国民経済学」という、忘れられたものをみつけた。
言いだしっぺは、ドイツ人の、フリードリヒ・リスト(1789年~1846年)である。
岩波書店からもでているのが、ほぉ!、という感じがする。
これが、経済学の「裏」になっているのである。
やっぱりこの世は、マトリックスなのである。