量販店の時計売り場にいってきた

目的はプレミア時計ではなくて、量産されているものだから、素直に量販店に行くのがわたし流である。
それにしても、量販店でもそれなりの「高級品」はある。

腕時計にどのくらいの価値を見出すのかは、ひとそれぞれだが、「時刻と時間をしる」という意味のニーズなら、せいぜい「数万円」でたりる。

むかし、ど根性ものドラマの原作で一世を風靡した花登筐(はなとこばこ)氏が、いまにつづく信じられないほどの長寿インタビュー番組に出演して、当時数千万円の腕時計を見せたあと、ポケットから数万円の時計をだして、実用しているのはポケットの時計だといって笑っていた。

数千万円のほうは一日で数分狂うが、こっちのは数秒も狂わない、と。
だから、分単位、秒単位のテレビの仕事には、ポケットの時計がないと仕事にならない。

それなら、そちらの「高価」な時計はなんですか?ときかれたら、「見栄です」と即答していた。
「見栄だから、これは時計ではない」という説明が、新鮮なおどろきだった。

なるほど、それで男性ものの時計でも、高価なものは「ブレスレット(腕輪)」というのかをしったから、なんだか物知りになった気がした。
時計ではなく、すばらしい飾りの腕輪が時計のかたちをしているのだ。

若いころ、スイスにひとりで旅行して、ジュネーブの時計屋通りを散策した。
ぜんぜんしらない時計屋の豪華なショーウィンドウを覗いてみて、その「桁違い」に驚嘆した。

こんなにたくさん「腕輪」を売っているのだから、たくさんのひとが買っているにちがいないが、どういうひとたちなのか見当もつかなかった。
オリンピック競技の計測で有名なメーカーは、「中の下」とかいうひとがいたけれど、なるほどそんなものかともおもったものだ。

せっかくなので、「中の下」でいいからひとつ買ってみたが、数年でこわれてしまった。
仲間からは「一点豪華主義」をわらわれたが、残念な買いものだった。

ジュネーブの酒場では、「カシオ」がスイスメーカーだというスイス人がたくさんいた。
レマン湖のほとりには、たくさんの広告があったけれど、どこにいっても「カシオ」のものは目立っていたからだろう。

クォーツの時計が一般人にも買えるようになったのは、わたしが高校生になったころだ。
ボタン電池で駆動するため、分厚さがなんとも無粋だった。
高級時計は薄いものだという常識が、このときにはこわれかかっていた。

機械式を席巻して、あまねく世界にひろがると、希少価値にまで減少した機械式が見直され、こんどは数千万円の価格がつくものにクォーツはない。
安物の代名詞になったのか?

そうはさせじと、クォーツの時計は、多機能化という生き残り戦略をとるのは必然で、電気をつかうことの意味から、とうとう「発電」にいきついた。
それから、時報の電波を受信して、時刻を修正する機能もついた。

ずいぶんと国内二局対応だけで、外国では「ただのクォーツ」になっていたが、世界各国の時報をひろう機能ができたし、GPSまで受信するようになった。
これに、ボディーの素材がステンレスからチタンになって、おもちゃのような軽量化もされている。

どうやって堅いチタンを精密に加工するのか、ぜんぜんわからないけど、ソ連が崩壊したときに、あまった在庫のチタンでスコップをつくったのは、ロシア人がなにをつくっていいかわからなかったからである。かくして、世界最高峰のスコップがうまれた。

量販店のシステムは、どのフロアーのどの売り場も、量販店の社員は会計をやっていて、ついぞ商品説明はメーカーからの派遣になっている。
そんなわけで、メーカーをこえた同類商品の「串刺し検索」が苦手である。

ならば自社の商品検索はどうかといえば、カタログを暗記するにも苦労するほど「多品種」を売りにしていれば、販売員が気の毒になるほど選ぶのがむずかしい。
つまりは、客にとっての選択基準が、値札以外の見た目ですぐにはわからないのである。

すると、多品種のメーカーとは、いったいどんな「コンセプト」で開発設計し、商品化を決定しているのか?
自社内ブランドの棲み分けと機能共通性の組合せが、まったくもって「無限大」の様相をしめすから、その「ややこしさ」は半端ではない。

運悪くわたしに声をかけてきた販売員は、見た目も若いお嬢さんで、まだまだ新入社員のような風情であった。

どうやって社内の開発設計チームにフィードバックされているのかなぞ、ちょこっと売り場にやってきた消費者に知る由もないが、ここに「販売拡大」の要素が埋めこまれていると、悩めば悩むほど焦れったくなるのである。

あぁ、帯に短し襷に長し。
ならばと、予算枠を売り場の最大に拡大してみても、決定打に欠く商品群とは、どうなっているのか?
機能スペックをマトリックス(一覧表)にしていない証拠である。

世界的量産大手でこれである。
もしかしたら、ブランドごとに担当する役員がちがっていて、横の連絡もままならないのかもしれないと、勝手に想像するにいたった。
このひとたちは、ほんとうに「時計」をつくっているのだろうか?

まことに「販売員」が気の毒なほど、あれこれとつき合わせてしまった。
さいごに、検討の選択肢にのこったモデル番号をメモして、カタログとともにわたしてくれた。

彼女は、いい仕事をしているのになぁ。
買わないのは、販売員のせいじゃなくてメーカー自体にあるという事例である。

その横のコーナーに、電卓のカシオさんの時計があった。
まさかと思って、こんなのがあるかと希望を質問したら、「あります」という。

「即決」である。
時計屋がつくる時計が、コンセプトの混乱をしめすのをたっぷりみたあとだ。

電卓屋は、コンセプト設計がうまいのか?いや、たぶん「量産」に愚直なのだ。だから、機能を合理的に追求する。
機械式でなく、「クォーツ時計専門」だと割り切れば、スイス人がスイスメーカーだと言い張っていた意味が、数十年ぶりにわかった気がした。

それでわたしは、時計よりも「コンセプト」を買ったのである。

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