ビジネスにおいても、私生活においても、これまで、幸せなことに人口を意識することはあまりなかった。
基本的に「増加」していていたからである。
ところが、今世紀にはいって、じつは「予定どおり」、人口が減りはじめたのである。
「予想」ではなく「予定」である。
21世紀になればこの国の人口は減りだす。
これは、ずいぶん前から計算されていて、その「確実性」は高かった。
なぜなら、小学生が「ねずみ算」をならうように、人間のばあいも夫婦にどのくらいの子どもができるかを計算することは可能だからだ。
「予想」としてちがったことは、計算で想定した子どもの人数が、現実にはもっと「少なかった」ことだ。
予定どおりの人口減少だが、減るスピードが速い、ということがはっきりした。
一国の人口が「平時」において減少に転じることは、人類史初のことである。
しかしながら、偶然にも、東アジアの国々で、人口が減る。
韓国、台湾はもとより、大陸中国ではかつての「一人っ子政策」の影響で、おどろくほどの「ボリューム」で人口が減る。
だから、日本国内だけでなく、従来の東アジアの秩序すらあやふやになるの要因になる。
おおきなおおきな、とてつもなくおおきな歯車が、逆回転をはじめた。
性に関して、さまざまな自由が主張されるようになったのは、個人にとってはよろこばしい。
しかし、いまのところ生物として人間をとらえれば、女性しか子どもを産むことができない。
だから、女性、それも出産可能な数が、ある集団の人口を決定することになる。
「特殊出生率」というのは、ひとりの女性が生涯に出産する数をしめす。
アダムとイブのように、ひと組の男女しかいない世界を想定すれば、イブは二人以上産まないと、この世界の人口は増えない。アダムとイブという両親がさきに寿命をむかえるからだ。
現代日本の医療水準による乳幼児の死亡率と、成人するまでの事故率を勘案すると、2.07以上でなければならないと計算されている。
小数点二桁を丸めれば、2.1という数字になる。
人間の数に小数点はないから、四捨五入ではなく切り上げるひつようがある。
だから、夫婦に三人以上の子どもがいて、はじめてその世界の人口は増加するのだ。
いわれなくてもあたりまえなのだが、2.0を下回ると、そうはいかなくなってきた。
いま、この国の特殊出生率は、1.4レベルなのである。つまり、1人なのだ。
これを2.1にもどすのはもはや「不可能」とかんがえられている。
安全に出産できる年齢を、ざっと18歳から38歳までだとすれば、いまこの年齢帯にいるひとと、将来、この年齢帯にはいるひとが、それ以外のひとの分を背負って産まなければならない、という条件での計算になる。
すると、ざっくりではあるが、「5人以上」を要求されてしまうのだ。
もはや「維持」すら不可能なので、政府目標は、1.7。
減ることは覚悟して、減少スピードを遅らせようという意味でしかない。
しかし、現実は0.3ポイントの上昇すら、残念ながら達成の見込みはない。
したがって、わが国の人口減少は「確実」かつ、思わぬスピードで「減り続ける」という結論になる。
2004年にでた『人口減少経済の新しい公式』は、基本的な問題を網羅している良書で、さいきんの「人口減少もの」の嚆矢となる一冊だ。
「ルールが変わる」のではなく、ルールをかたちづくる「条件が変わる」のだから、じつは「ルールを変えなくてはならない」のがいまなのである。
にもかかわらず、この参議院議員選挙の各党・各候補の主張は、教育費の無償化をはじめとする、「合法的買収」が叫ばれていて、根本的な議論をだれもしていない。
これは、衆議院のサブシステムに落ちた参議院の姿ではあるが、これとても、人口が増加している時代の産物であった。
社会が維持できなくなる可能性が高い人口減少社会に、とうとう対応できなかった、ということは、国民を見殺しにしても仕方がないということでもあるが、その殺される側の国民がこのことに気づかず、滅亡の選択をし続けるなら、現在の時点で「対応する気がない」と未来人から糾弾されても、言い訳ができない。
日本の歴史には、国民を皆殺しにする宗教が存在したことがなく、むしろ、日本の宗教は「人間に奉仕する神々」がイメージされる。
「困った時の神頼み」とは、そんなひとに優しい神様を信じる習性をいっている。
しかし、旧約聖書の神様は、人類を滅亡させるも救うも、人間のおこないとは関係なく、絶対神が勝手に決めるという思想である。
どんなに良きことをしても、地獄に落とされる可能性がある宗教。
どんな悪事をはたらいても、天国に行ける可能性がある宗教、なのだ。
滅亡のイメージがない、われわれは、こうやって滅亡するのだろうか?