いまさらだけど、オリンピックの話である。
東と北の「京」で連続開催された、国際大運動会とは、ヨーロッパ貴族たちの「お慰み」としての、「サーカス」という本質があからさまになった。
日本人には馴染みのない、ギリシャ・ローマ史を根本に置く、ヨーロッパ文明は、「パンとサーカス」を政治利用する発明をしたのがはじまりだ。
ここでいう「パン」とは、食糧のことで、のちに「生活保障=福祉」に変貌していく。
「サーカス」とは、社会の「上から」による娯楽の提供のことである。
つまり、為政者は、国民に、生活保障と娯楽を与えさえすれば、為政者=政府に従う「愚民」を大量につくりだすことができて、最後には政府の好き放題にされてしまうことを「警告」した「詩」を元にするのであった。
この警告をしたのは、ローマ帝国になってからの風刺詩人デキムス・ユニウス・ユウェナリスだ。
ほぼ2000年も前の「警告」が、現代にも通じるところが怖い。
人間の営みの本質が変わらないことを意味するけれど、「人類学」でも「おなじ結論」になっている。
たとえば、アフリカで半裸の原始的な生活をしていた部族を数十年後に訪問して、すっかりスーツを着て携帯端末を駆使していても、「部族社会」になんらの変化もないことがわかっている。
だから、賢い為政者は、伝統的な習慣や風俗といった「習俗」を人為的には「いじらない」ということを意識するのである。
なぜなら、たいがいのことがひとびとからの「反発」となって、社会秩序がかえって乱れることになるからである。
さてそれで、国際大運動会という「娯楽」が、テレビ視聴率の凋落という結果になって、「今後」に不安材料を残したという。
不安を感じたのは、主催する「貴族たち」の方なので、庶民にはどうでもいい話にみえる。
しかしながら、テレビが娯楽の提供媒体となった20世紀の後半以来、非支配者たちが、テレビを娯楽の媒体として「認めなくなった」という、大変化が確認できたのである。
これはまさしく、電波が「上から」降ってくるのと同様に、為政者にはきわめて都合の悪い事態なのである。
究極の「上からの娯楽」である、世界大運動会にしてこのありさま。
新聞がダメになったのは、「即時性」はないけれど、「記録性」があったメリットが、ネットによって完全破壊されたことによる。
だから、「即時性」のテレビにとって唯一の有意が、「生中継」になったのである。
その生中継と、究極の娯楽としての大運動会がセットになるから、主催者の貴族たちに、莫大な放映権の収益があったのだ。
これが、「危機に瀕する」事態となった。
わが国では、おなじパターンが、「大相撲」と「紅白歌合戦」というコンテンツで、どちらもNHKが独占している。
公共放送として、まさに「上から」の娯楽の提供こそが、愚民化のための「使命」なのである。
しかし、愚民化「される」側が受信料を徴収「される」ので、「される」の二重使用が、ようやく「被害の倍増」だということに愚民をして気づき始めてしまったのである。
すなわち、愚民化の目的達成は、「道半ば」ということが判明した。
そこで、どうしても愚民化を達成したい政府は、NHKをして二つの対策をもって、しつこく推進することを画策している。
・受信料の値下げ(ただし、欲深いNHKが抵抗するのでわずかな額)
・ネット課金(放送とネットの「融合」らしい)
とりあえず、現状は、絵に描いたような「アメとムチ」である。
そんなわけで、覚醒した元愚民たちは、放送電波を受信しない、「ドンキTV」を買い込んだら、別の会社も参入した。
将来、ネット課金をするかしないかが、政治日程にあがるはずである。
さてそれで、「パン」の方はといえば、農林水産業を直撃するはず、と前に書いた通りになった。
全世界から集合する「サーカス団員」たちが食べるものには、栄養と薬物への「配慮」は欠かせないから、「安全性の国際基準の遵守」が要求されるからである。
野蛮で邪悪なひとたちが「いる」という、日本国内事情とはぜんぜんちがう実態の方を「基準」にするのが、国際の「国際たるゆえん」なのだ。
だから、「いなかのおばぁちゃんが精魂込めてつくったから安全でおいしい」は、野蛮で邪悪なひとたちの基準としては通じない。
それゆえに、「サーカス団員の収容所」での食事提供は、「原材料」が国際基準を満たさないといけない、という当然となるのである。
したがって、この事業を「受託した」ら、どんな会社であってもおなじに対応しないと「いけない」のは、基準を満たすことが「義務」だからである。
そんなわけで、国産品よりも輸入食材のシェアが高くなるはず、と予想して、やっぱりその通りになったのである。
それは、たとえば農林水産省やら厚生労働省が「安全」といっても、相手側の「サーカス団員を管理する」それぞれの国や競技団体が、納得しなければ意味がないからである。
つまるところ、日本政府にあるのは、提供者の論理だけで、消費者の論理=都合を考慮しない、という態度が見え見えになったのである。
国際大運動会が終わって、このことを「反省」している節がないので、日本人はこれからも、提供者の論理だけでつくられたものを食べ続けることになっていて、わずかな「基準合格品」だけが、輸出されるのであろう。
それが輸出先で、「さすが日本製」という評価になったら、日本政府はこれ見よがしの「自慢」をするにちがいない。
これを、「テレビ」が報じるのである。