集計する者が決める恐怖

スターリンの言葉である。
『投票する者は何も決定できない。
投票を集計する者がすべてを決定する。』

こんな発言を聞いて、よくもロシアで「革命」が起きなかったものである。
しかし、こんなことを平然と語れたのは、独裁者の恐怖政治が盤石の完成度だったから、という理由で説明できる。

では、盤石の権力基盤とはなにか?
それは、第一に行政権の掌握であり、なかでも警察による逮捕権が徹底される。
もちろん、「軍」においても同然で、いわゆる「憲兵」によるけれど、「政治将校」がこれを支えた。

そして、逮捕の後の裁判では即刻判決が下され、刑が執行されるので、身柄を拘束されたら、抵抗できない。

この恐怖を、「小説」にして、ノーベル文学賞を受賞したのが、ソルジェニーツィンの『収容所群島(列島とも訳される)』であった。
この長編の書き出しは、「逮捕は突然やってくる」である。

わが国では、いま、新刊本で入手できず、図書館か古書市場を探さないといけない状態にある。
これも、「平和ボケ」の一種であろう。

そんなわけで、選挙には不正がつきもの、としてかんがえると、「ベンフォードの法則」という統計における不思議な現象が、不正を見抜く方法として指摘されている。

それは、何かの統計値の集団で、「最初の桁」に1から9までの数字がどのように現出するか?ということを調べると、「1」が30%、「2」が18%、「3」が13%、「4」が10%、「5」が8%、といった具合で、「9」は5%弱となる「法則」がある。

これは、母集団の数が多くなればなるほど、上記の比に近づくのだ。

たとえば、人口統計。
わが国最大の自治体は、横浜市で370万人だけど、最初の桁は「3」である。
ところが、全国に1892ある市町村を母集団として、それぞれの人口の最初の桁を調べると、市町村数の構成比はベンフォードの法則と一致する。

このとき、横浜市も一市町村としてカウントする。
つまり、1892を総数としたときに、それぞれの最初の桁が現れる比率のことで、人口構成の比率のことではないのでご注意を。

これを、選挙の獲得票数にしても、おなじになるから「法則」なのだ。
すると、法則からの「あるべき数字」と、実際の数にちがいがあると、「おかしい」ということになる。

このブログでも注目している、アメリカ大統領選挙でもあてはまるし、国内の各種選挙にだってあてはまる。

アメリカの混乱を、どこか醒めてながめている多くの日本人は、地元の選挙でどのような「不正」があるかに、ぜんぜん注視していない。
これは、選挙制度を信頼している、といえば間違いではなかろうが、そこまで興味がない、という本音だってあるはずだ。

ここにきて、アメリカでは選挙の集計ソフトに疑念が集まってきている。

例によって例のごとく、集計マシンそのものというハードウェアと、これを制御するソフトウェアは、別々(といわれている)の会社のものだから、どっちの話しをしているのかを意識しないと、なんのことだかわからなくなる。

そして、これら(ハードウェアとソフトウェア)を組み合わせた「選挙サービス」が、世界各地で実施されている。
今月末29日に予定のスイスの国民投票は、世界人類におどろくほど影響する重要な判断となるものだと書いた。

しかし、そのスイスでも2年ほど前に選挙不正が発覚して、大騒動になったのだ。
いまでもスイスは、アメリカ大統領選挙で話題の選挙サービスを採用しているから、この騒動はヨーロッパ・アルプスの山奥にも波及していることは間違いない。

わが国に目を移せば、広島県で裁判中の国会議員ご夫妻の選挙でも、ベンフォードの法則が当てはまらないことが「あやしさ」を醸し出しているし、東北地方のとある県については、その県にある国立大学の学生が、「卒論」でその県における選挙不正を、やっぱりベンフォードの法則を使って論じている。

わが国のマスコミが、独自取材というジャーナリズムにおける重要な役割を放棄して、ときによって役所のスポークスマンとなったり、批判者となったり、クルクル立場を変えている。

しかし、なんといっても、世界の他国に存在しない「記者クラブ」が、独自取材の手間を省いて、ジャーナリズムの自殺を促していることは、おおくの識者が指摘してきたことである。

知らぬ間に、わが国だって集計する者が選挙を決めかねない。

けだし独裁者は一代限り。
二番手以下を育てないから独裁できる。
ならば、待てば甘露の日和あり、とはいかない。
歴史が教えてくれている。

もって他山の石とすべし。

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