都知事の意向に、目立ちたがり屋の神奈川県や千葉県がしたがわず、閉店の業界指定までしようとした野望は打ち砕かれたのか?
国が日和るへんな構造になっている。
それでも、都心にオフィスがある企業のうち、大規模な会社ほど「出社しない」ことで凌ぐことにしただろう。
「リモート」やら「テレワーク」とおなじことをべつのいい方にしているが、はたして、どのくらいの成果になっているのか疑問があるが、それでも会社が「まわる」なら、これまでの「ムダ」にかえって気がつくチャンスにもなっていることだろう。
これに気づいた経営者は、当然にスリム化をはかるので、「失業問題」はより深刻化するということになる。
しかし、これも経済における「みえざる調整」なのだとかんがえれば、あんがい悪いことばかりではない。
欧米とわが国の感覚のちがいは、かつての「経験」がさせることが原因となっていることがある。
第二次大戦の戦勝国は「大恐慌」での「失業」が、敗戦国は「インフレ」が怖いとかんがえる。
それが、いま起きている新型コロナウイルス禍でも顕著なのは、一種の「羹に懲りて膾を吹く」ようなものになったりする。
各国政府が発表している、「緊急経済対策」は、そんな意味で、「国状」よりも「国情」がにじみ出るものだ。
しかしながら、わが国政府がぶち上げている「経済政策」の貧困は、既存枠をぜったい超えることができない官僚の作文そのもので、どこにも政治が存在しない。
政治こそが資源配分を決める機能なのに、である。
「100兆円を超える過去にない最大規模」だと、首相は胸を張るが、このひとは何年国会議員をやってきたのか?これは、首相個人の問題ではなくて、与野党ほとんどの議員に共通している。
一部異端がいるのは、財務省出身者がいるからだ。でも、枠を超えることができないから、しょせんは同じ穴のムジナなのである。
議員が政治として「自分で予算編成したことがない」。
これが、わが国を蝕むシステムの正体なのである。
官僚という他人がつくった「数表」の説明を、どんなに詳しく聞いたところで、それが何年も、どんなに繰り返されたとて、実感がわくわけがない。
土台となる数字の意味をしるべくもないし、通したい側が教えるべくもないからである。
それで、せめて「修正」だけさせて「原案」とする。
これは企業でもおなじである。
企業内官僚も、こうやって数字をしらない役員をまるめこむのだ。
適度な「穴」をつくって、そこを「発見・修正」させるよう仕向けることで、役員が参加したことにしてあげれば、難なく通過するからである。
だから、歴代の社長でも、若いときに予算編成にかかわった経験があるかないかは、とてつもなく大きな実力差になるのだ。
ふるい話だが、山一証券破たんのときの社長は、入社以来「営業畑一筋」のひとだった。これはある意味、気の毒なことだった。
すると、いま起きている「緊急事態」とは、政府自身のことであって、国民のことではない。
「三密」がいけないとアナウンスするのなら、「先ず隗より始めよ」のとおり、政府から閉鎖せよ。
これで、どのくらい国民生活がこまるものかを確かめるのが、今後の国民生活にもっとも重要なことをおしえてくれるだろう。
中央政府だけでなく、地方政府も警察と消防、それに水道局以外は閉鎖していい。
わたしの住む横浜市立図書館は、館内閲覧を中止してネット申込の貸出・返却だけをしていたが、とうとう全面閉鎖が決まった。
わたしにとって、税金を支払う意味を感じる唯一のサービスがなくなるのだ。けれども、固定資産税の請求はきっちりやってきた。
そのうち財政難で閉鎖が余儀なくされたときの訓練にもなる。
アメリカ合衆国は、連邦政府予算がなくなって、何回か閉鎖されたことがあるけど、政府依存度が軽いから、なんとかなることを国民がしっている。
だから、大きな政府を嫌うことは、なにも歴史的背景だけがそうさせているだけでない。
わが国の政治家は、中央であれ地方であれ、行政側にまわると、とたんに「行政だけ」の立場に豹変する。
なんのための「選挙」だったのか?
不思議なのは、マスコミ報道も、新人で役人ではなかったひとが当選すると「行政手腕が問われる」とかと書きたてる。
有権者が期待しているのは、「行政当局と一体になる手腕」ではなく、「行政当局を抑制する手腕」なのだ。
どうしてこうなるのか?
行政が肥大して、企画まで自分たちでやることになったからである。
どんなことしようかな?
いくらぐらい使おうかな?
足りなかったら、どうしようかな?
このときの「こと」のことを、「事業」という官庁用語で表現する。
すると、「超大型」という首相のはなしの半分以上が、「事業」になっていて、なんだかわからない。
もっとすごいのは、このなかに「民間銀行からも無利子・無担保融資をさせる」がはいっているのだ。
気は確かか?
どうして民間銀行が、無利子・無担保融資ができるものか?
第一に、金融庁が許していない。
第二に、金融庁に許すように命じるなら、民間銀行に命じる前に、金融庁を廃止する命令をだすべきだ。
順番がハチャメチャである。
ついでに、金融庁を廃止するとき「緊急なので特別に」民間金融機関に「しか」再就職させないとすればもっといい。
いつものように、別の役所に配置換えしてはいけない。
民間金融機関は、強力な助っ人をえて、政府と戦える。
いや、役に立たないから民間では採用できないとなれば、はじめてこれまでの「金融行政」が余計なお世話だったかも国民はしることができる。
どちらにころんでも、マスコミ以上に、国民を啓発する施策となるのだ。政治とはこういうことをするものだ。
そんなわけで、霞ヶ関が閉鎖されても、国民に悪いことはあんまりない。
むしろ、政府機能はシンプルがいいことに皆が気づくのである。
よって、三密であろうがなにがあっても、霞ヶ関は閉鎖しない。
閉鎖してもなにも困らないことに国民が気がつくことが、困るからである。