日本好きが昂じて、日本での暮らしをしてみたら、いつの間にか自分が日本人に思えてくる、という現象が起きるらしい。
国はちがえど、ヨーロッパ人の女性が集まって、日本暮らしの雑談を多数動画にしている。
その中に、「鼻が高い」と日本人からいわれて、「めちゃくちゃ恥ずかしかった」とひとりが発言したら、全員が同意したのである。
このとき、彼女らは、「鼻が大きい」ことを恥じていた。
この会話の違和感は、ここにある。
「鼻が高い」と、「鼻が大きい」が、イコールになっているのである。
日本人の感覚からしたら、白人の鼻が大きいという感覚はあまりない。
やっぱり、「高い」のである。
しかし、彼女らは、「高い」が「大きい」になっていて、漫画やアニメのように「ちょこん」とある鼻が理想なのだという。
極端にいえば、「だんご鼻」が、「かわいい」ということらしい。
おそらく、日本に興味を持った共通の、日本のアニメや漫画から、美意識が転換されてしまったのかもしれない。
さらに、来日すればわかる、日本人のコンパクト体型のサイズ感が、おそらく異次元にちがいない。
食生活のちがいどころか、食文化そのもののちがいが、何千・何万年もあったから、環境適合がちがうのである。
もちろん人種差別をいいたいのではないが、「ちがう」ということはちゃんと認識して区別しないと、相互理解なんてできっこない。
本稿冒頭の、いつの間にか自分が日本人に思えてくる、のは、彼女たちが日本語で不自由なく会話できるレベルにあるからでもある。
こういった日本好きの投稿動画の特徴は、ついこないだなら観ている側にも違和感があったものだけど、外国人が外国人同士で日本語を話していることにある。
たとえば、英語圏のひとたちが、外国人であろうがなんであろうが、英語が通じることに違和感がないのと似ているのだろう。
外国で、日本語が公用語として認定されているのは、台湾の原住部族間会議における取り決めが唯一だから、日本語が通じるということの違和感は英語圏のひとたちとは一線を画してきた。
それが崩れ出したのは、良いことではあるけれど、日本人側にその意味が深掘りされていない。
しかも、彼女らのレベルになると、敬語の使い方が特に上手いことに気づくのだ。
いまや、日本人にも困難になった敬語の遣い分けは、「場」による変化として、自分の立ち位置と相手の立ち位置が理解できないとわからなくなる。
全部に、主語の「I」をつけないといけない文化からしたら、日本語は「場」をイメージする言葉なので困難なのである。
逆に、日本人には、自己中的な発想を強いられて、なお、「語順」が厳密だから、困難なのである。
だから、敬語の遣い方が上手いとは、場をわきまえて話していることになるので、日本人社会の、上下左右の関係が理解できないとわけわからんになる。
逆に、ふつうに育った日本人が、人生の途中から欧米人になることは、ほとんど不可能な理由にもなる。
話は飛ぶが、この意味で、わたしは、白洲次郎という人物が気持ち悪いのである。
それゆえに、鬼塚英昭の『白洲次郎の嘘』(成甲書房、2013年)に納得がいった。
幼年期に英国へ出されてそれきり、おそらくユダヤ人に養育された彼は、とうとうユダヤ人(もちろん「アシュケナージ」)になったのだという推定には説得力がある。
もちろん、彼は「日本一の英語遣い」と評価されていたのは、その分、日本語がさっぱりだったことでバランスをとる。
彼の母語(かんがえ事をするときの言語)は、まちがいなく英語だったはずである。
それに彼の出自の問題は、あの、ウィンストン・チャーチルのそれと重なるのは、渡辺惣樹『英国の闇チャーチル』(ビジネス社、2020年)で暴露されている、チャーチル自身の出自と似ているからである。
白洲次郎の数々のヨイショ本にある、彼の写真をみると、日本人離れして「鼻が高い」のだ。
実母が英国人で、ユダヤ系だったという白洲次郎の出自は、チャーチルの母が社交界で有名な浮気者だったけど、その人間関係をもって息子の人脈としたのは、日本人的ではないヨーロッパ上流社会の常識なのだろう。
しかして、こうした息子は母への歪んだコンプレックスが、とうとう歪んだ思想になって歪んだ行動にもなる。
終戦連絡事務局(1946年~47年の長官は吉田茂が外務大臣兼任)の次長として、GHQ本部に出入りしていた彼を、GHQのアメリカ人たちが総じて嫌ったというのも、滲み出るものがあったからだろう。
なお、晩年、ずっとコンビを組んでいた吉田茂から政府特使としてヨーロッパ歴訪を命ぜられた(国会で問題になった)けど、チャーチル首相から面談が拒否されているエピソードがあって、また妙なのである。
そんなこんなで、「鼻が高い」のが、「鼻が大きい」となることの発想がどこに原因があるのかをかんがえたら、そもそも日本好きのひとつのパターンに、幼少時からのマンガやアニメにあるとは上にも書いた。
これは「おとな中心」のヨーロッパからすると、一種の異常なのだ。
マンガやアニメは、もっぱら子供がみるもので、おとなになってもやめないのは、発達障害だとみなされてきたことが崩れだしたことを意味するからである。
恐るべきは、日本発のサブカルの威力なのであり、グローバル全体主義に染まるヨーロッパの側の現象なのである。
しかし、それは果たして日本発のサブカルだけ?なのかということもかんがえないといけない。
グローバル全体主義がポリコレになって、「アカデミー賞」を乗っ取ったと前に書いたけど、さいきんのこととして、別に書いておこうとおもう。