グーテンベルク以来、印刷された「本」が登場していかほどの知的貢献をしてきたものか計り知れない。
およそ印刷物とは、物理的には「紙」と「インク」に過ぎないので、「古新聞」には「古紙」としての価値しかない。
そこにある、古くなった「文字情報」の価値を認めないからである。
つまりは、「物故」しているのだ。
人間も息を引き取れば「物故」する。
その人の持つ、「情報」や「精神」が失われてしまうからである。
さらに、放置すればいきなり腐敗がはじまるのも、物質的な人間の半分は人間以外の生物が体内で棲息してバランスをとっていたものが、片一方の崩壊で全身が人間以外の生物に取って代わられるからである。
コロナは嘘としても、ときたままともな説明があって、「共存」という話が出てくる。
けれども、大元を理解できないひとがたくさんいて、「コロナとの共存」とわざわざ言って、自分は「無菌」だと思いこんでいるのである。
そもそも、細胞1個1個にあって、細胞にエネルギーを供給する最重要な役割を担っている「ミトコンドリア」だって、「赤の他人様」であった。
別の生命体を、我々の細胞が生きるために取り込んだのだ。
それで、ミトコンドリアがエネルギー供給をやめたとき、ひとも最期を迎えるのである。
以上のようなことがわかったのは、「科学」とそれに関わった「科学者」のおかげである。
それゆえに、多くの人類は、「科学信仰」という、「神」を仰ぐ古来の信仰を捨てて出てきた「新しい信仰」に宗旨変えしたのである。
それが行きすぎた先は、「科学万能」という絶対神化であった。
残念ながら、人類は「そこまで」の科学知識を究めてはいない。
「わかったこと」と「わからないこと」を整理すれば、ほとんどがわからないままなのである。
「わかったつもり」になって、現代生活をしている「だけ」なのだ。
宇宙のなり立ちも、地球の内部も、はたまた人体だって、「わかったこと」と「わからないこと」に分けたら、「どこまでわかった」のかすら「わからない」のが現実なのである。
つまり、分母となる「知の全体」の範囲がわからないのだ。
むかしの科学者、といってもついこの間までは、「科学的興味」とか、「知への好奇心」が、衝動ともなって科学者の研究行動を決めていた。
しかし、紙と鉛筆、それにビーカーやフラスコを用いればなんとかなった時代から、とっくにそうはいかないことになったので、「研究予算の獲得」が科学者の行動を決めることになったのである。
これが、「倫理」の問題になった。
そこで、アメリカ科学アカデミーは、1989年に『科学者の責任ある行動とは』というパンフレットを作成し、版を重ねてきている。
日本語になったのは1996年で、化学同人より『科学者をめざす君たちへ』と題して出版されている。
それが、90ページにして900円の本なのである。
10回読めば1円/ページだ。
なお、オリジナルは、$5、で10冊以上を注文すれば$2.5/冊になる。
こうした内容の書物が出版されるに至った経緯で、そもそもの「問題」だというのが、過去には研究活動を通じて自然と習得してきた、数々のルール(もちろん、「倫理」も含む)が、科学者の「大量生産」によって、学部はもとより大学院においてすらも「困難」になってきたという危機感があったのでる。
いまや「卵と鶏」のループになるような議論になったのは、上述のように単に「研究活動」だけの問題ではなくて、資金を要するようになったことでの、「資金調達計画」が科学者の最大の関心事になったことが大きい。
そして、自己満足的好奇心の追求時代にはなかった、「クライアント」が科学分野に発生したのであった。
クライアント(発注者)の要望に応えるための活動。
それが、研究資金提供を得る「手段」となって、とうとう「目的」にもなってしまった。
たとえば、ノーベル賞を「受賞することが目的の研究」が公然と行われているのも、最終的には「おカネ」が欲しいからなのである。
ただし、アメリカの「寄付文化」はいまだ健在なので、様々な「財団」が直接的「成果を要求しない」で資金提供をしていることもある。
これが、「基礎研究」を支えていて、「失敗を許す」からできるのだ。
すると、このような文化がないわが国(寄付の習慣がなく、失敗を許さない)では、より深刻な「不倫」状況になるのは当然だ。
本書の訳者が、若者に問いかけるような「題」にした意図も、ここにあると見るべきだ。
残念ながら、日本において本書をまっ先に読むべき「若者」とは、「文系」の学生なのである。
同学年の「理系」人が常識とすべき「倫理」を、文系でも知らないでは済まされないのは、科学の恩恵を受けた文明生活を一生するからでもあるし、現場の科学者に「予算配分」する立場になるかもしれないからである。
実際に、わが国は、すぐさま役に立つ、という意味で、近代科学技術の導入を急いだ、という「初体験」から近代化に「成功」してしまった。
これがトラウマとなって、いまだに「役に立つ」という予測ができる研究に予算を重点配分して、その他を切り捨てている。
その「役に立つ」か「立たない」か、という判断を、文系の事務官がやっているのだ。
国家予算が、「儲かる研究」とおぼしきもの「だけ」に使われるのは、国家の役割としていかがなのか?という議論すらない。
そもそも、文系に進学すれば、「科学」と「技術」は違うものだという、基本的認識も教育されない。
それで、「科学技術立国」を標榜し、陰りがみえたら「観光立国」という欺瞞で誤魔化そうとする。
よろこんで誤魔化されるのは、いつだって「業界人」なのは、研究予算が欲しい科学者と同じなのだ。
平和賞と経済学賞ではない、ノーベル賞に騒ぐなら、日本国民だって必読の一冊なのである。
なお、同じ年に出た、『SCIENCE FOR ALL AMERICANS(すべてのアメリカ人のための科学)』(AMERICAN ASSOCIATION FOR THE ADVANCEMENT OF SCIENCE(米国科学振興協会)』(1989)の「日本語版」は、220ページでも「無料」でダウンロードができるから、こちらも読むに値する。