「花祭り」をやり過ごす仏教国

明日、4月8日は、「花祭り」。
しかしながら、わが国では、とくだんなにも話題にならない。
お釈迦様の誕生日を、一般人が大々的に祝わない。
国民の多くが、「仏教徒」ということになっているのに、どういうわけか?

ときは、いまから2600年以上まえにさかのぼる。
詳しくはわかっていないので、3000年前という説もある。
なんにせよ、まちがいなく「キリスト教」より古い。
イエスの誕生をもって、「西暦」がはじまっている。

言葉では、インド・ヨーロッパ語族があるように、インドとヨーロッパは同系の言葉を用いているので、飛行機も自動車もない時代に、深い交流があったことの証拠である。
国連が採用する6つの公用語のうち、この語族に「含まれない」のは、中国語とアラビア語だ。

つまり、「英語」、「フランス語」、「ロシア語」、「スペイン語」が、インド・ヨーロッパ語族にあたる。
もっといえば、「ギリシャ語」、「ラテン語」もそうなので、「イタリア語」に「ポルトガル語」や「ドイツ語」もだし、ほぼアラビア文字をつかうイランの「ペルシャ語」も仲間である。

源流が不明のわが「日本語」は、もちろんこの系統にはない。

イエス・キリスト誕生のおり、東方の三博士がやってくるエピソードが『マタイによる福音書』にあるけれど、それはどちらから?と問えば、おおかたペルシャから、ということになっている。

古代ペルシャには、人類初の経典宗教、ゾロアスター教がうまれている。
「拝火教」として有名だけど、血縁主義をとるためにすっかり現代イランでは、イスラム教シーア派という、こちらも「預言者ムハンマド」からの血縁を重視した宗教家たちが国家を運営する国になった。

オリンピックの聖火リレーがはじまって、既定事実化もはじまった。
ギリシャのオリンピアで太陽光から火を採取する儀式の意味は、火はプロメテウスが神々の元から盗んできたものとされる、「神聖」さの象徴だからである。

前に書いたように、これは、ゾロアスター教が西に広まった痕跡であるし、極東のわが国には、「密教」儀式としての「お焚き上げ」になっている。
火によってできる、「明」と「暗」が、「善」と「悪」の二元論になったのだから、現代の人類にも多大な影響をのこしているのである。

そんなわけで、仏教の影響はキリスト教にも波及したのは、その古さからすれば当然である。
そして、後からやってきたキリスト教の影響も仏教は受けるから、われわれは入り交じった状態を「常態」だとおもっている。

葛飾は江戸ではなかった。
そこに、寅さんゆかりの「帝釈天」がある。
しかし、柴又は帝釈天の門前町だから、おいちゃんの団子屋が商売できた。
その帝釈天の境内に、付属のルンビニー幼稚園がある。

ルンビニーとは、お釈迦様生誕の地をいう。
いまはネパールにある村で、当時は「ルンビニーの花園」といわれた。
出産のため実家へ帰る途中、ここで生まれた。
そして、母の摩耶夫人(まやぶにん)は、7日後に滅している。

誕生してすぐ、立ち上がって指を上下に指し示して、「天上天下唯我独尊」と述べたとある。
すると、実母との死別は、この言の後ということである。

もちろん、漢字での記述は後世、中国に伝来してからのものだ。

釈迦にとっても、人間だれでも、生母なくしてこの世に存在しないけど、その生母は、はげしい「陣痛」をともなって出産するのが、動物として延々と繰り返してきている人間のいとなみである。
これをしみじみ、「臨生受苦の恩」という。

だれしも母に頭が上がらない、最大の理由がこれだ。

そして、はなはだ誤解されているのが、「唯我独尊」の意味である。
キーとなるのは、「我」という字にある。
漢字に翻訳された経典で、釈迦が自身のことを指すときは、「吾」の字をつかう。
すると、この「我」とは誰か?

「我々」のことである。
ようは、「人間」のことを指す。
では、「独尊」とはなんのことか?
「尊」には、「崇高な尊い使命」という意味がこめられている。

これに、「独」=「ひとつ」というのだから、たったひとつの使命・目的が人間にはある、という意味である。
独りよがりで、自分はえらいのだ、というのが、はなはだしい誤解であることがわかる。

さらに、「天上天下」とは、宇宙のことだ。
宇宙でのたったひとつの目的を人間はそれぞれ平等にもっている、ということになる。

もちろん、生まれたばかりの赤ちゃんが立ち上がって言った、という史実はないだろうけど、そういう教えを生涯にわたって貫いた、といえば、かくいう伝説があって不思議はない。

千年にひとり、万年にひとり、というひとが出てくることは、あり得ることだ。

ルンビニーの花園だから、「花祭り」なのである。
たまには、仏教徒になってみてもバチはあたらない。

少数与党・枝野内閣

なかなかに興味深い発言である。

立憲民主党の枝野党首が、現政権に対して「禅譲」を呼びかけて、選挙管理内閣としての「枝野政権」を主張した。
これに、たいへんな反発をするひとたちと、苦笑しながら無視するひとたちが多数である。

たいへんな反発をするひとたちは、たいがいが「保守」を自認するひとたちで、「少数与党」ということの意味がわからん、といっている。
苦笑しながら無視するひとたちは、与党のひとたちで、自身の「多数」をもって、何をか言わんや、ということだろう。

しかし、素直にながめれば、ぜんぶの野党が「少数与党」になっているのは、「事実」である。
だから、けっして枝野氏の頭脳に異常はない。
むしろ、素直すぎて驚いてしまうのだ。

いい悪いの議論ではなく、わが国の政界も官界も、地方を基礎にピラミッド型の体系を形作っている。
市町村議員を底辺にして、都道府県議員がいて、さらに参議院議員、そして衆議院議員という構造になっている。

ほんとうは、参議院が「上院」で、衆議院が「下院」にあたるのだから、わが国の議会は、「上・下」が逆転しているという特徴がある。
「国会改革」をいうなら、議員定数や選挙区のはなしの前に、この「上・下」の正常化をしてほしいものだけど、そう思う国民の数が少数だから仕方がない。

何度も書いてきたけど、もう一つ、重要なことは、わが国に「近代政党」がないことである。
近代政党の要件とは、三つのすべてを充たすことにある。

・綱領
・組織
・議員

決定的に欠けているのが、「組織」だ。
先にいえば、犬猿の仲の「公明党」と「日本共産党」には、ここでいう「組織」があるといえばあるから、なんとかこの二党は、「近代政党らしき匂い」はある。

ただし、両党とも、組織運営にあたっての「民主主義」がない。
つまり、「政党内選挙」がなくて、なんだかわからないけど、「執行部」や「立候補者」が決まるという共通点もある。

すると、犬猿の仲の理由が明らかになる。
「似たもの同士」なのだ。
これに、支持層の共通もあるから、ヒトラーとスターリンのごとく、となるのである。

自民党の組織は、衆議院議員に当選した議員本人の「後援会」が組織といえるものなので、地元選挙区の衆議院議員を頂点に、市町村議員を手足に巻きこんだ「組織」が選挙戦を遂行することになっている。
だから、自民党本部にある、「組織運動本部」の仕事は、いわゆる「近代政党」のそれではない。

もちろん、自民党から立候補するひとは、自前で選挙をすることになっているけど、党のえらいひと(たとえば「幹事長」とか)に気に入られると、お金の支援が得られる。
しかし、地元に、党本部直結の党組織が「ない」ので、すべては「後援会」に依存する。

それで、党員という党費負担をするひともほぼいなくて、議員候補から頼まれて署名すると、党員になったことになる。
党費は、頼んだひとが負担する。
近代政党なら、自分から党費を払って党員になるので、党員それぞれが発言権を持つし、自分から組織要員に立候補もできる。

こうして、党員になる順番がちがうので、地元の党員集会も「ない」。

よって、候補者の選定に党員がかかわることも、ましてや「予備選挙」もないので、党員には関係なく「党公認候補」が決まる。
これは、市町村議員から、衆議院議員までぜんぶおなじ仕組みだから、自民党が近代政党になるという「要素がない」のである。

議員自身の「後援会」が、事実上「唯一の組織」だから、自民党のことを「自分党」というのである。

そんなわけで、地方の末端で変化が起きている。
それは、日本共産党との連携だ。
自民党と日本共産党が、地方議会で連携するというのは、ちょっと前なら「かんがえられない」ことだった。

たとえ「国政レベルではない」としても、上記のような構造があるので、国政か地方かという問題ではなく、むしろ、「足元」に異変がおきていると解した方がいい。
しょせんは、「砂上の楼閣」だから、いずれは国政レベルに波及する。

つまり、わが国の「全党」が、事実上の「翼賛体制」に突入したのである。
枝野氏のいう、「少数与党」とは、このことを指す。
だから、「枝野政権」という発想も、とくだん異常ではない。
この論法をもってすれば、「日本共産党政権」だってありうる。

ここに枝野氏が気づいているかどうかはわからないだけだ。
革マル派出身者の枝野氏からすれば、共産党への不信感のほうが、自民党への不信感より根深いのかもしれない。
いずれにせよ、そんな人物が、官房長官経験者なのである。

国民の多くが、かんがえもしない「少数与党・枝野内閣」は、少なくとも「少数与党」だけは、現実なのである。
基本政策での議論とは関係ない、花見やモリ・カケにしか至らないのは、基本政策に反対する余地がない、「与党」だと告白していたのだ。

これにだれも気づいてくれないから、とうとうはっきりものをいった、ということだ。

すると、共産党まで呑み込んだ、自民党という「怪物」をどうするのか?
ホッブスのいう、『リヴァイアサン』が、現代日本で現実になっている。
「日本」を喪失し、わるい意味で欧米化した「つけ」だとおもえば、因果応報なのである。

国民負担率66.5%の悪政

財務省が2月26日に発表した、「国民負担率」の数字は、
令和元年度(実績):44.4%
令和2年度(実績見込み):46.1%
令和3年度(見通し):44.3% となっている。

これに加えて、財政赤字を加えた「負担率」は、
令和元年度(実績):49.7%
令和2年度(実績見込み):65.5%
令和3年度(見通し):56.5% だ。

計算式は、
(租税負担+社会保障負担)÷ 国民所得(個人や企業の所得)

租税負担にNHK受信料を加えたくなったり、社会保障負担に、「持続可能エネルギー移行負担金」とかも加えたくなる。

それに、財務省は、「実績見込み」と「見通し」という、ふたつの「推計」を毎年誤魔化して、おわってみた「実績」で比較するとたいがいは「実績見込み」を上回るという、「誤報」を常習としている。
だから、「実績見込み」や「見通し」は、もっと「高い」とみていい。

もちろん、「コロナ禍」という条件における、分母の国民所得がちいさくなったので、負担率が「異常に高い」ことになったのを、さすがに誤魔化すことができなくなったことは、理解できる。
ましてや、各種「バラマキ」によって、国は借金を増やした、といいたいのだろう。

すなわち、「65.5%」発表の意味とは、近々の「増税予告」ともとれるから、警戒がひつようである。
それが、令和3年度(見通し)という、「常習誤報の推計」にあらわれている。

「44.3%」と「56.5%」
前者の方は、消費増税が10月にあった令和元年度実績(44.4%)より、0.1ポイント「低くなる推計」で、後者は、コロナ禍の最悪(65.5%)より、急速に改善するようにみせている。

「分数」のつまづきが、その後の算数・数学のつまづきとなることは、とっくにわかっている。
「工業大学」という理系の「大学」で、入学初年度教育のなかに燦然と輝く「(強制)補講」をやって、めざましい成果をあげている講義こそ、「分数」なのだ。

文部科学省という役所は、こうした大学を「モデル校認定」という、「強制制度」をつくって、全国の理系大学に、「(強制)補講」をやらせて、そのご褒美に「補助金増額」をやっている。

どうして、もっと早い時期(小学校・中学校・あるいは高校)にやらないのか?
「行政命令」としての、魅力に乏しいからである。

直接的な影響力が行使できる、大学こそが「うまみ」のある現場だ。
そして、退職しても幹部大学職員として、天下りもできるのだ。

そんなわけで、「分数」は、人生のなかで、とても重要な要素なのは、自分の人生が行政に支配されるように仕向けられるということになる最初の関門なのだ。
すると、小学校・中学校・あるいは高校で分数の補講をしないのは、やっぱり「わざと」ではないかとうたがうのである。

財務省が「常習誤報」のなかで、負担率が下がるようにみえるのは、分母が「勝手に増大する」とみているからである。
あたりまえだが、かれらの計算に、分子を小さくするという概念は存在しない。

すると、わが国は、戦国大名の時代より「悲惨」な状態にある。
最盛期に、ほぼいまの関東地方を支配したのが、小田原に居城をおく北条家だった。

秀吉による北条征伐にあたっては、「小田原評定」の恥さらしとなって歴史に残してしまう。
けれど、北条家の治政は、「4公6民」といわれ、実は税率が低かったという評価がある。

この真偽については、所説ある。
なにせ、太平の徳川時代ではなく、まだ「戦国時代」なのだ。
もちろん、「太閤検地」をするどころか、太閤になるとはおもえないから秀吉と戦ったのだ。

なので、さまざまな計算方法があって、「所説ある」のだ。
そのなかに、「およそ4公6民もありうる」という説がある。
・兵を出す農家と出さない農家で課税に差
・租税10%統一
・徳政令
だから、けっこう「細かい」のだ。

それで、おおざっぱに「4公6民」とすれば、わが国はこれを越えた「5公5民」に近づいているし、財務省がいう「借金」もくわえると、なんと「6公4民」どころではない。

この「重負担」を感じられないひとがいなくなってきた。
それで、「減税」をうったえる「政党」もちらほらと出てくるようになっている。

どういうわけか、わが国の労働組合の大集団、「連合」(日本労働組合総連合会)は、公式に立憲民主党を支持すると表明している。
けれども、立憲民主党の支持率はおおよそ「3%以下」に低迷していて、労働者の総数との乖離がすさまじい。

つまり、労働組合の一部(それも幹部の一部)しか、支持していないのに、この政党が、あいかわらず「大きな政府」を追求していて、「7公3民」をもいとわないでいられる理由だとすれば、小田原北条家を嗤えないどころか、人心はもうここにない。

その意味で、小田原方最後の抵抗勢力にして、唯一豊臣方に屈しなかった、埼玉県行田市にあった「忍城」の攻防が味わい深いのだ。
それは、城主の「人柄だけ」だったものか?
当時の農民のしたたかさは、いまよりずっと戦闘的なのだ。

現代日本人は、この悪政にどこまで耐えるのか?

道議国家の「看板」をおろす

わが国は、「道議国家」である。

なんだか聞いていると気分がよくなるので、「保守系」を自認する政治家が好んでつかう「用語」である。
でも、これってなんだ?となると、あんがいと、「厄介」な戦争の歴史をクリアしないといけなくなる。

このことが、ほんとうに厄介になったので、いわゆる、「反日左翼」の勝利なのである。
こうしたことの原因に、「戦後教育」があることはいうまでもない。

しかし、1945年に終了した戦争から、「二度と戦争して」いないままずっと「戦後」なので、「戦後教育」の「戦後」がいつのことをいうのかが、あいまいになるのである。
こういう「用語」の使い方が、意識的だから「反日左翼」は長けている。

教える方からの見かたで語ると、日教組とか教科書検定とかのはなしになって、たいていの議論が「泥沼化」して、その「泥沼化」をまた意識的にやるから、もっと「泥沼化」する。

おとなたちが、こんな「泥沼化」した論争をやっている間に、子ども達には、「反日教育」をやっているので、時間をかければかけるほど、「戦後教育」は目的を達成することができるようになっている。
15年もつづけたら、小学1年生だって大学を卒業して社会に出る。

それから、15年もつづけたら、そのひとの子どもも学校にはいって、しっかり反日教育を受けるから、「反日」の日本人がふつうになって、「親日」の日本人が異常になる。
これが「目的」だから、ダラダラと論争をしていればいいのである。

すると、よくも「保守系」が、こんな論争につきあったものだとおもうけど、「泥沼」から抜け出せないように仕向けるのが、さいしょからの作戦だから、何の事はない、作戦負けなのだ。

これを仕組んだのが、アメリカ民主党だったことは何度も書いた。
ところが、時間の流れのなかで、朝鮮動乱という不都合が発生して、わが国の供給能力がほしくなって「妥協」したら、わが国の経済発展という予期せぬ結果になってしまった。

そして、わが国発展の時期には、世界列強としての「一等国」時代を生きてきたひとたちが健在だったからこそ、「ダラダラ」と反日教育をするしかなかった。

この意味で、もっとも反日教育のショックを受けた世代は、昭和10年代生まれの「国民学校世代」となる。
昨日までつかっていた教科書が墨で消され、先生の態度がかわる。
それでもって、精神に「異常」をきたした元小学校校長を、東野英治郎が好演しているのが、『警察日記』(日活、1955年公開)だ。

こんな貧しい国が、よくも世界を相手に戦ったものだ。
しかし、わが国以外の白人列強国家群の邪悪さは、なんの反省もなくいまでもつづいている。
それで、どういうわけか、アメリカ民主党がとち狂って、黒人への逆差別をはじめて、白人が自虐をよろこんでいる。

むかしの地図を見せないのが、わが国公共放送の「内部掟」になっているようなので、清国や満州、それに蒙古やらチベットがどんなふうにあったのかがわからない。

いま話題のウイグル族のひとたちは、トルコ系のひとたちが東にやってきたのであるけど、トルコやあるいはイスラム教の国々が、あんまり発言していないようにみえる。

「ジェノサイド」という「認定」を白人列強国家群がやっているのに、わが国は、「確認できない」として静観している。
国連至上主義なのに、1951年に国連でできた「ジェノサイド条約」に加盟もしていない。

制裁要件に軍事介入があるために、憲法9条が邪魔をしている。
「確認」のための「調査能力」が、わが国にはない、と連立与党の党首(弁護士)が明言したから驚いた。
突如、外務省無能論が飛び出したのだ。

たしかに「謝謝茂木」と異名をとるひとが外務大臣だから、わからないではないけれど、野党ではなく与党なのだから、こんなヘンテコなはなしはない。
しかし、もっとヘンテコなのが野党なのである。

つまるところ、与野党ともに「反日」なのである。
基準は、戦前の日本である。

しかし、この政党の支持母体は、いちおう「宗教団体」ではなかったか?
外国といえど、信仰を否定する政府を批判しない理由はなにか?
この宗教団体が、相手国で布教をゆるされるはずもない。

こんなスキに乗じて、民間企業もおかしなふるまいをしている。
「奴隷的強制労働」が指摘される「綿花」を、つかわない、と相次いで世界ブランドが表明するなか、わが国に本社をおく企業が、積極的利用をいう不思議。

いつどこで、世界的不買運動になるやもしれず、それが、「反日運動」と一体化することもかんがえられる。

そこで、なぜか「日英同盟」の気運が、相手国「保守党」から発信されている。

さて、「道議国家」とはなんだ?
看板をおろすなら、ちゃんと発信したほうがいい。

それが、道議国家だったことへの最期の鎮魂である。

国民が持続不可能になる

電気代がまたあがる。
理由は、「持続可能エネルギー移行負担金」という名目である。
原発が止まって、値上がりしたときも「負担金」だったから、役人の「手口」に新しさはない。

レジ袋有料化が、関係省庁の「省令改正」という手口だったのは、新しかった。
縦割り行政の常識を、「やればできる」とぜんぜん褒められたものではないものの、横の連絡で実行した。

今回のは、経産省・資源エネルギー庁の「単独犯行」なので、旧態依然としている。
いちばん旧態依然としているのは、広く国民に負担を強いるものに、国会決議を要さないで済む、という国会の永続的な睡眠状態をいう。

もちろん、役人は与党の会合に出張っていって、「ご理解を得る」努力をしたはずだ。
それで「ご理解を得た」ので、法律もなにもなく、料金値上げを電力会社に命令できるのである。

どうしてこんな負担を「強いる」のか?
それは、地球環境がこわれ「たら」、経済発展どころでなくな「れば」、国民生活もなにもない、という「誇大妄想」にとらわれたひとたちが、「儲かる」という仕組みの隠れ蓑にしているからである。

だから、この「たら」とか「れば」という仮定がなくなると、「儲かる」こともなくなってしまう。
それで、世界をあげて、地球環境を守る「SDGs」が推進されることになっている。

これぞ、脅しによる「究極の貧困ビジネス」なのだ。

そして、あらゆる分野・業界で「SDGs」が推奨されるのは、その指導にあたる業務のひとも、その指導をうける企業も、「儲かる」ことを確信しているからである。

つまり、消費者である国民は、かならず「損」をすることになっている。

あらゆる分野・業界には、「虚業」もふくまれる。
すなわち、世にいう「金融系」だ。
銀行だけでなく、投資会社もこれにあたる。
そうやって、わたしたちの年金だって、「持続可能」な、「SDGs」に見合った投資先で運用されることを名分としている。

すると、大損しても、「地球環境のため」だから仕方がない、という言い分が通るかもしれない。
でも、投資先を決めるひとたちの年収が減るわけではない。
「持続可能」なのは、決めることができる「立場」なのである。

まことに、産業国家として一部のひとに都合のいいはなしなのである。
だから、科学的に立証されることをきらう。
むしろ、科学研究費を、都合のよい「推進派」にしか提供しない、という悪辣をもって、「疑念派」を追放しようとするのである。

もし、明治維新への疑念をいうなら、これを追放しようというやり方とおなじだから、たちが悪いのだ。
けれども、このやり方も役人には「経験済み」ということになる。
それを、世界が真似ている。

そして、民主主義の多数決が、悪用されているのだ。

あと80年の「22世紀」がどんなことになっているかは期待薄ではあるけれど、今頃が「分岐点だった」といわれるのかもしれない。
すると、けっこう今が「正念場」なのである。

今年生まれる子どもの数は、昨年と同様として、87万人程度だ。
「団塊」のピーク、1949年(昭和24年)は、270万人弱だった。
ほぼ1/3になったのだ。

さらに、男女比は半々なので、ざっと女の子が40万人もいない。
特殊出生率の「1」から推定すれば、この子たちの子どもは40万人よりすくない程度だと推定できる。
そして、この子たちの子どもは、女の子が20万人程度だろうから、次の世代は10万人と、20~30年周期で半減する。

もちろん、今年生まれる子が成人するときまでに、おそらくいま70代の団塊世代はこの世にいない。
老人層の死亡数と、新生児の数が、ぜんぜんあわないのである。
すると、わが国の人口はいったい何人にまで減るのか?というのが、「人口減少問題」である。

だから、日本人に限っていえば、今のままの消費水準をつづけても、前年の消費量が維持できるのかもあやしい。
なにも、資源やらの「持続可能性」とかを心配しなくていいばかりか、需要がなくなる。

消費主体である、人間が持続不可能になる可能性があるのだ。
心配すべきことの、順番が狂っている。

かつて、首相だった鳩山由紀夫氏が、「日本列島は日本人だけのものではない」と迷言をはいて糾弾されたことがあったけど、向こう100年を見据えたら、まったくの「正論」なのだ。

日本列島に棲む日本人(大和民族)が、少数民族になる可能性は、否定どころか、現状の延長なら「確実」なのである。

けだし、彼には、「それでどうする?」がなかったばかりか、「子どもは国家が育てる」という、バリバリの共産主義を是としたから、迷言となったのだ。
しかし、糾弾しただけで、国民もすぐに忘れてしまった。

わが国に、ほんものの「宗教家」がどれほどいるのかわからないけど、団塊世代の葬儀が済めば、次はすさまじい勢いでの「墓仕舞い」がやってくる。
ことここに至って、徳川以来の「檀家制度」も成りたたない。

拝むのが宗教とはいえ、死ぬばかりが収入ではつづかない。
「増やす」ための祈りを開発する、イノベーションがいるのである。

紙おむつとロボット

高分子ポリマーが研究室で生まれたとき、その利用方法がわからなかった。
とにかく、じぶんの体積の30倍以上という倍率で、水をとらえる(吸収する)ことができる。

かんがえたあげくに思いついたのが、「紙おむつ」だった。

大学の心理学の授業でも、教職課程にあった「発達心理学」で、当時若かった女性助教授の講義をいまだに記憶している。
それは、すっかり普及していた紙おむつが原因とおぼしき「発達障害」のはなしが衝撃的だったからである。

赤ちゃんが感じる、「不快」は、本人にとって泣くしか表現できない。
すると、誰かがやってきて、おむつ交換をしてくれて、この不快を取り除いてくれる。さらに、「泣いている」ので、交換しながらたいがいのおとなはことばをかけて「あやす」のである。

これを繰り返すと、お乳がほしいということもふくめて、「泣く」ことが他人を「呼びつける」という意味の言語化される。
つまり、欲求の言語化である。
そうして、事前に「泣く」ことで、先回りして欲求を伝える、それに、あやされる、というコミュニケーションがはじまるのである。

たとえば、男の子が泣きだしからおむつを交換しようとしたら、おしっこを顔にかけられた、なんてことがある。
おしっこを「した」からおむつが不快で泣いていたのから、発達して、おしっこを「したい」というだけで泣くようになる。

こうして、じぶんで歩けるようになれば、勝手にトイレにいって用を済ますようになるのである。

紙おむつが「問題」と指摘したのは、赤ちゃんが「不快」を感じないからである。
しかも、製品としての機能に、その都度交換を要しないで済む「用量」を確保した。

これで、おむつ交換の回数が減るので「経済的」かつ、おとなには交換の手間が減る、というメリットがあると宣伝された。
じっさいに、用を済ました赤ちゃんは泣くことがない。
宣伝どおり、「快適」なのである。

すると、上述のプリミティブなコミュニケーションが発生しない、という「問題」となって、赤ちゃんの脳と心の発達に悪影響を及ぼすメカニズムになるのだという説である。
つまり、おそろしく早い時期に、「親子の断絶」がおきている、と。

さらにこのことが、赤ちゃんの深い記憶になって、成長とともに心理的な発達障害を引き起こして、当時のことばでいう「不良」になる確率が高まるということだった。
自分と他人とのコミュニケーションが不得手ということからの、社会性の喪失だという心配であった。

あの授業からほぼ40年。
おおむね、この「説」の正しさは変わっていないようである。
だからといって、推奨された「布おむつが復活した」ということもない。

どこにいっても、好天で、布おむつが大量に洗濯物としてはためいている光景を見なくなった。
コインランドリーで乾燥機にかけているのかもしれないけど。
「注意書き」にみつけることができる。

それにしても、子犬の生育とよく似ている。

生後かならず、母犬と一緒に生まれた兄弟犬たちによる、「社会化」の時期がある。
この時期にちゃんと社会化された個体と、そうでない個体は、その後、生涯にわたって精神の安定度がことなることはわかっている。

だから、スイスやドイツなどでは、社会化時期をちゃんと超えた生体でなければ、売買などの取引は禁止されている。
わが国でも2019年6月、改正動物愛護法で生後56日(8週間)までは「原則」禁止、になった。

ただし、わが国のばあい、確実に社会化されたかではなくて、日数だけ遵守、ということがある。
狭いケージを理由に、母犬その他から切り離してしまう例が多々あるのだ。

この「無頓着」が、人間の赤ちゃんにもあるとなると、一種の「虐待」にあたりはしないか?
「母性」すら否定的なフェミニズムが跋扈するなか、よき「母」としての教育がおろそかになっている。

これが、「情操教育」にも影響している。

子どもがいる家庭で、子どもの発達のために「犬を飼う」ことがある。
人間とは別の生きものと生活を同じくすることが、「情操教育」になるのである。

動物園などの施設による、小動物との「ふれあい」が用意されているのも、このねらいがあるし、小学校でも飼育している。
人気アーティスト『いきものがかり』は、そのままのネーミングだった。

いろんな事情から、犬型ロボットや会話風がたのしめる人形が発売されたのは、「癒やし」を欲したからである。
しかし、これらのロボットが、子どもの発達に役立つものか?

さいきんでは、「弱いロボット」が話題になっている。
子どもからみても、か弱なロボットは、これを守ろうとする心が育まれるという。

でもそれは、「子どもだまし」ではないのか?
急速に発達する子どもには、か弱にみえたものとの「一体感」をつくれるものか?とうたがうのである。

いま、小児病院では、「セラピードッグ」が不可欠になりつつある。
ロボットは生体に代われない。

おむつはじぶんで選べないけれど、子どもは姑息なおとなには、だまされない、のである。

EPWING規格の電子辞書

今日から新年度。

街にはフレッシュなひとたちが歩いているはずだ。
学校がはじまるにはもう少しだろうけど、さまざまな「1年生」が準備に忙しい時期である。

学生なら、新しい辞書を購入するシーズンでもある。
紙の辞書か?電子辞書か?
この「論争」は、根強くつづいている。

紙の辞書も、ずいぶん進化して、わかりやすさという点ではむかしの比ではない。
組版の技術的進歩があってこそだろう。
それは、同時に販売する「電子版」のために、変化しているという順番だともかんがえられる。

その電子版の方は、いわゆるパッケージ化された「機材」としての「電子辞書」と、媒体として「CD-ROM」や、そのまま辞書販売サイトから「ダウンロード」して入手するものとに分類できて、さらに、「共通規格」か「独自規格」かに分けられる。

パソコンや携帯、あるいは、タブレット端末が普及していなかった、ちょっと前だと、辞書を携帯する利便性としての「電子辞書」が主流で、各メーカーは、例によって「細かい仕様設定」をはじめた。
中学生用、高校生用、専門職用、一般生活用など、見た目のデザインにも差別化を施したものだ。

一方で、パソコン用のものは、電子辞書をアプリケーションとして扱うものと、日本語変換ソフトのなかで機能するものとがある。
前者は、パソコン内で辞書を引く、オーソドックスなイメージで、後者は変換候補を選ぶときの支援というイメージだ。

パソコンの処理能力が貧弱だったときに、日本語変換ソフトが多機能で重くなると、なんのための作業かとおもうくらいにモッサリしたことがあった。
しかし、いまのように高速化してきたら、変換時に辞書機能が自動的につかえる利便性は高い。

この意味で、意味がわかる国語辞典系も便利だけれど、類語辞典の充実がほしい。
とはいえ、またまた、モッサリになるかもしれない。
それで、電子辞書としての類語辞典は、別途辞書アプリをたちあげてチェックしている。

ここで、重要になるのが「規格」なのである。
わが国には、電子辞書の共通規格として、各出版社がつくりあげた「EPWING規格」がある。
知る人ぞ知る、というものだ。

おおくの「電子辞書ソフト」は、この規格によっている。
したがって、別々の出版社からでている、さまざまな「辞書」は、この規格にそった「ビューアー・ソフト」で「統合」することができる。

しっているひとには当然だけど、しらないひとはパソコンでの電子辞書より、端末としての電子辞書をイメージする原因にもなっている。

端末としての電子辞書には、データ更新をどうするのか?という問題がある。
もちろん、「メモリ・カード」を別途購入するなどの方法がとられている。
しかしながら、おおくは電卓のように、買ったときのまま使いつづけるひとが圧倒的多数だろう。

だから、収録辞書のなかにある辞書で、「版の改訂」があると、端末全体を新規購入するか、それとも?という問題がおきる。
この点、パソコン・ソフトとしての辞書ならば、新規扱いではなくてバージョンアップ対象のものが多数ある。

さて、「共通規格」のメリットは、OSなどに左右されない、ということがおおきい。
むしろ、ビューアー・ソフトの選択も自由なので、有料・無料のそれぞれをいくつ利用してもかまわない。

逆にいえば、辞書ソフトとは別に、有料のビューアー・ソフトをつかうなら、別途費用がかかることもあるのだ。
この場合、辞書の遣い勝手を決めるのは、辞書自体ではなくて、ビューアー・ソフトの出来による。

元の辞書データは、個人の利用ならさまざまな端末にインストールできるので、スマホやタブレットで携帯もできるけど、それぞれの端末でうごくビューアー・ソフトが必要である。

ちょっと面倒なようだけど、これまで、別々に辞書ソフトを購入していたのなら、ビューアー・ソフトで統合させると、異なる辞書間での「串刺し検索」も可能になるから、単独利用よりグッと利便性が増すのである。

たとえば、国語辞典といえば、その独特な解説で「ファン」をつかんでいる、『新明解国語辞典』は、おなじ見出しでも「版」による表記にちがいがあって、それがまたユニークだから、ぜんぶの「版」を串刺しして検索できると、どう変化させたのかの変遷がさぞや楽しいだろう。

この「恩恵」も、「規格化」というベースがあってのことだ。
そこで、一部、「規格外の独自性」を打ち出しているところもある。
これを、さらにビューアー・ソフトが「なんとかする」ので、その筋のマニアが開発にいそしんでいる恩恵もある。

われわれが現代の文明生活を享受できるのは、「規格化」あってこそなのだ。
古代ローマの馬車の「車輪幅の規格化」は、なんとなく世界史でおそわるけれど、遺跡で確認できるのは、ぴったり、1,435mmだ。

これは現在、「標準軌」と呼ばれる、鉄道線路の幅とおなじで、わが国では、新幹線の線路幅である。
ただし、鉄道の歴史はローマからのつながりを否定している。

とはいえ、「度量衡」の統一とは、規格化の基本中の基本だ。

近代の規格化の父とは、「工業生産の規格化」で驚くべき成果をだした、ハーバート・クラーク・フーバー氏だ。
彼は、いまだに大恐慌の経済対策で、「無能」の烙印を押されたままの、第31代アメリカ合衆国大統領である。

はたしてほんとうに、無能なる人物だったのか?
自分で調べるべきことである。

起訴と不起訴の好き勝手

わが国は、だれでもが「法治国家」だと思い込んでいる。
でも、実態は、かなりあやしい、のである。

「民事訴訟」と「刑事訴訟」が別れていて、さらにこれらとは別に「行政訴訟」もある。

そもそも論でいえば、国会で審議中、あるいは通過・成立した法律に対する、憲法判断を最高裁判所が「しない」ので、法律製造のたれ流しが行われている。
製造業で発生した、かつての「公害」が、法律の側面で発生しているのを止められない国になっている。

最高裁判所が知らんぷりして、他人事になれるのは、「事前」に内閣法制局がチェックする、という「掟」があるからである。
議員立法なら、衆議院、参議院それぞれにある、「法制局」がやはり事前チェックをしてから「法案」になっている。

わが国では、あまりにも「議員立法がすくない」ので、国会両院の法制局は、「なんでもいらっしゃい」という姿勢なのだ。
べつにいえば、「暇を持てあましている」。
議員立法「しか」ないアメリカ合衆国との違いは、ここからはじまる。

「たぶん」だけれど、権威主義の最高裁判所判事たちにとって、内閣法制局の官僚を敵にまわしたくない、とおもわれる。
「論破」されることを回避する、もっとも有効な手だては、関与しないことなのだ。

昨年の大統領選挙から、アメリカの連邦最高裁も息をひそめてしまったので、かなり深刻な事態になっているけど、わが国にてらせば、その深刻さの深さと広さは、わが国の側にある。
ずっと前から「常態化」しているために、目立たないだけだ。

裁判所がそんな具合なので、検察が好きにできる。
2001年に放送された、フジテレビ『ヒーロー』は、当時、全局対象で最高視聴率をたたき出したドラマである。

フジサンケイグループの産経新聞がどちらかというと「保守系」なのに、フジテレビの「進歩系」というコントラストは、より強化されて現在に至っている。
「楽しくなければテレビじゃない」がキャッチのテレビ局だった。

それで、楽しく観ていたひとたちに、「検察=正義」という、驚くべき勘違いをさせたのだから、このドラマ・シリーズの意図とはなんだったのか?
一種の、「褒め殺し」だったのではないかとうたがう。

ファンタジーを現実だと国民が思い込めば、あとは好きにできる。

これは、「狂気」だ。
国民が狂人に仕立てられて、政府がこれを支配する。
あたかも、『羅城門』のごとく。
なにが真実なのか?がわからなくなる。

さて、30日に、「検察」に関係するニュースが3本同時に配信されてきた。
・カジノ疑惑で逮捕された国会議員が、公判に及んで無罪を主張。
・通行人に催涙スプレーをかけたのに「不起訴」になった。
・泥水客から現金をだまし取ったのに「不起訴」になった。
⇒このふたつの不起訴について、理由を明らかにしていない、という共通点がある。

「無罪の主張」は、裁判でのことだから一応は公になっている。
ここで、「検察」による「逮捕」の不当が主張されることになるので、なんらかの判断を裁判所はしないといけない。
その意味で、裁判所は逃げられない。

ところが、あとの二つはどういうことか?
「不起訴」だから、裁判所に書類もやってこない。
つまり、警察に逮捕されたけど、検察の判断で「なかったこと」になったのである。

ならば、処分されるべきは「不当逮捕した」警察になる。

わが国には、国家警察はないことになっているから、都道府県警察のトップは、知事である。
すると、知事は、みずからの責任において、警察幹部から事情をきかないといけないのではないのか?

なぜなら、市民の安全をまもるのが知事に要求される最大の職務だからである。
その市民が被害者なのだ。
そして、犯人を逮捕した警察は、知事の配下にある。

念のため書けば、都道府県の警察本部長は知事の部下にあたるのだ。
いい方がちがうけど、警視庁の警視総監だっておなじだ。

すると、国家行政の法務省に属する検察が、不起訴の理由を明かさないということ自体が、「不祥事」である。
少なくとも、知事は検察に理由を公開質問しなければならない。
「起訴」したら、かならず起訴理由を公判で述べるのに、不起訴がその対象にならないということはあってはならない。

いかなる「法理」で不起訴にしたのか?

たとえば、「初犯だから」とか、「反省いちじるしいから」とかでもいいし、逮捕にあたって不法行為があったでもいい。
ならば、処分対象のひとだけでなく、警察も、二回目を許さない、とか、不法行為はまずい、ということになって、それぞれの防止に役立つのだ。

検察が裁判所の仕事を奪ってはならない。
であれば、裁判所は検察に「不起訴の実態を報告させる」ぐらいのことはしていい。

弁護士や検察官出身の議員はいるけれど、裁判官出身者が見当たらない。
あんがいと、「やめ裁判官」はいるものなのに。

これは、リクルートしない政党の怠慢なのか、なにか不都合でも?

欺瞞の「戦犯」

戦争犯罪人、略して「戦犯」なる「ことば」と「罪」が、戦後にうまれた。

人間の思考は、ことばによってなされるから、日本人ならふつうは国語たる「日本語」、アメリカ人ならふつうは国語たる「英語(米語)」をもって、思考する。

もし、本人が理解できない外国語をもって「思考している」というひとがいたら、周辺のひとたちはこのひとを「病気」だと認識するはずである。

だから、その言語の特性(文法)が、その言語を常用するひとたちの思考を支配している。
アラビア語を話して、イスラム教を信仰していれば、「アラブ人」という定義があるけど、日本にやってきて禁断の豚肉(とくに「トンカツ」)を食して、イスラム教から密かに離脱するひともいる。

すると、本人はアラビア語を話すひと「だけ」になるから、もう「アラブ人」ではない。
けれども、やっぱり日本人とはちがう思考をする。
ところが、長く日本に住みついて、日本語を習得したり、子どもや孫が日本語「しか」はなさなくなると、たちまち「日本人」になるのである。

「日本人より日本人らしい外国人」を、結構みかけるのは、日本文化ではなくて、日本語の威力なのであって、後から日本文化がやってくる。
すると、いつの間にか、日本文化の意味が体感的に理解できて、そこに「どハマり」することで形成されるのである。

日本人にも難しくなった、日本語特有の「敬語」の混乱は、尊敬したり謙譲したりする「場」を失ったためだとおもわれる。
この「場」の雰囲気が、尊敬語の使用を決めるのであって、暗記するものではない。

外国人には、もともとこうした「場」が自国文化に存在しないから、当初は日本語習得の「壁」になる。
しかし、「場の意味」を理解すると、おどろくほど日本語が上達する。

それが「茶道」や「武道」での「礼」なのだ。
さいきんではアニメによって、この理解を助けているから、まんがの文化的重要度はたかい。

ここまでは、日本自慢になるけれど、あんがいと古代からの伝統世界のことである。
そして、近代の自慢は、いきなり「産業国家」になってしまうのだ。
ここを、外国人は突いてくる。

木造の大寺院の借景が、ガラス張りの高層ビル。
そして、その高層ビル建築の「薄さ」や「安易さ」と、伝統世界とのギャップを、不思議がって楽しんでいる。

そうしてみると、戦後すぐにやってきた「戦犯」という概念の、「薄さ」やら「安易さ」やらに、日本人も気づかないといけない。
かえって、日本人らしい外国人の方が、よほど「気にしない」という正しさがあるのは、日本以外の「自国」にある「欺瞞」をしっているからだろう。

第一に、わが国に法的な意味の戦犯は「存在しない」のだ。
独立後、すぐに招集された国会で、全会一致をもって「戦犯の名誉回復」が決議されている。
ちなみに、この決議の発議は、日本社会党の女性議員であった。

第二に、「べき」が二つある。
占領軍による、「日本国憲法」の無効と、新憲法制定の「べき」。
わが国から無理矢理切り離された、サハリン(樺太)、朝鮮、台湾の軍人軍属に対する、国内法適用の「べき」である。

第三に、「戦犯」を糾弾する報道の欺瞞だ。
法治国家として、法的根拠のない「戦犯報道」は、深刻な誤解を国民に刷り込むことになる。
つまり、「占領」による欺瞞の意識的継続は、「従属の継続」を意味する。

簡単にいえば、独立国家として筋を通す「柱」がいまだに「ない」、のである。

だから、防衛問題が「経費負担の損得勘定(感情)」になる。
奪われた竹島や北方領土、それに拉致被害者は無視されて、なぜか尖閣だけは「本気で守る」という。

この島々の住人を強制退避させて無人島にしたのは、アメリカ軍の意向であった。
「射撃訓練場」として、陸地をボコボコにするからである。
なので、この島々の管理責任はいまでもアメリカ軍にある。

これが、政権交代してもアメリカ政府が「守る」という、法的根拠なのだ。
大陸の大国が、おいそれと「上陸しない」のは、アメリカ軍の「射撃訓練の標的」とされることをおそれるからである。

そんな下地のなか、元日本人でBC級戦犯で最後の生き残りだった、韓国人の李鶴来(イ・ハンネ)氏が96歳で亡くなったと報道された。
彼は、日本政府に「名誉回復と補償・謝罪」を求めていたが、1999年に最高裁は棄却した。

ここにも日本政府と韓国政府、それぞれの「欺瞞」がある。
・「元日本人」を切り捨てる日本政府と裁判所に、国会も動かない。

・日本はなんでも悪いという「だけ」の韓国政府。

当事者には、まことに気の毒なことである。

昨年8月、ロイターが伝えたところによると、オーストラリア国立大学のロバート・クリッブ教授は「自国民にだけ恩給を支給し、日本軍の一部だった朝鮮人に支給しなかったのは」不公平だと指摘している、と。

ここにも、むかしの日本人らしい外国人がいるのかもしれない。

ふつうの電卓考・再び

もう3年も前に「ふつうの電卓考」を書いた。
そのとき心配した、いまでは貴重な「置数式コンパクト電卓」がいかれてしまった。

代替機は存在しない。

これは、この機種のユーザーからしたらあきらかな「劣化」である。
メーカーを怨むより、売らなくなったのは皆が買わなかったからだと、べつの恨み節をいいたくなる。
もっと変態な、「逆ポーランド式」がまだ買えるのは、変態電卓好きのおおくのひとがいるからだ。

「数式どおり」という関数電卓や、そのスマホアプリもでてきたので、ちょっと複雑にカッコがある計算だと、そのままスマホに式を入力してしまえば、だまって正解をだしてくれる。
確かに、これはこれで「便利」だけれど、それでは「能がない」とおもってしまう。

せっかくだから、ふつうの電卓の機能を駆使して計算したい。
結果が不安だったら、スマホで確認すればよい。
わたしには、「逆ポーランド式」の方が手間がない。
これも、スマホのアプリになっているけれど。

さてそれで、ふつうの電卓を買うのにどうしよう?ということになった。
前に書いたのは、「√(ルートキー)」の有無だった。
今回は、「クリアキー」と「ゼロ」の位置関係が見た目の問題で、もうひとつが「定数(じょうすう)計算」のための「キー」の押し方がテーマである。

わが国の二大メーカーといえば、カシオとシャープだ。
じっさいに、知り合いの会計士たちもこの二社について、それぞれのこだわりで選んでいる。
だから、カシオ派とシャープ派にかならずわかれる。

カシオ派は、数学的厳密性を根拠としていて、シャープ派は利便性を根拠としている。
なので、いったんカシオ派、シャープ派になると、ほぼ一生、これを変えることはない。

電卓を常用するプロは、一定数いるし、新規の合格者(税理士や会計士)もいて、市場規模は確保されている。
なので、メーカーは、こういったターゲットに「選ばれる電卓」をつくらないと、たちまち衰退してしまう。

それに、電卓というのは電池交換以外で、蓋を開けることはない。
それも、太陽電池が常識化したから、電池交換もいらなくなった。
関数電卓だと、パソコンにつなげてシステムの更新ができるものがあるけど、ふつうの電卓にはこれがないのが「ふつう」だ。

つまり、もし計算プログラムに「バグ」があると、いきなり欠陥商品になるリスクがある。
パソコンや関数電卓のように、パッチ・プログラムをユーザーに配布して修正する手当ができないのだ。

だから、いったん発売された電卓は、なかなかモデルチェンジをしない。
その「完成度」が、プロたちからの「信頼」と同義なのである。
逆に、発売まえに、どんな計算の試験が社内でおこなわれるのか?

プロの卵たちは、資格者養成校の指導もあって、まず「電卓選定」というプロセスをかならず通過する。
学校側は、講義の円滑なる遂行のために、メーカーばかりか機種を指定する。

ここで、本人の一生涯に影響する「派」が育まれるのである。

「ふつうの電卓」の使い方を、ちゃんと説明書をみて確認するひとはすくない。
けれども、あんがい「奥深い」計算ができるのである。
もちろん、養成校ではこれを習得させるのに機種を統一するのだ。

いまの時代に、中学校で「ふつうの電卓」を採用して、操作方法と計算の妙をおしえないのはどういうことか?とおもうのだ。
「へぇー、べんり~」という応用をみせてから、定理や証明をおしえることが、よほど教育的である。

小学生にパソコンを配布するのは、ただの「利権」だろう。
給食にパンをだしたのはアメリカ農民の利権だったし、米に転換したのは、コメ消費のための農協利権だった。
そしたら、コロナでパソコン生産が間に合わなくて、全国一律の小学生向けパソコン配布ができなくなった。

高校生になったら、関数電卓やグラフ電卓をつかわせるのが、より理解を深めさせる「道具」であるのに普及しない。
予算が少ないと利権もないから採用されず、教師も教え方をしらないから、ここで「利害が一致」するのである。

さて、カシオか?シャープか?
結論は、「慣れ」と「好み」である。
こんな選択肢があることの幸せが、資本主義にはある。
役人の好みだけで生産規制がされたら、一生選べない。

まず、「キー配列」の見た目と遣い勝手ということでいえば、シャープに分がある。
「クリアキー」が、右上に配置されているのは、パソコンのキーボードの「デリートキー」、「バックスペースキー」位置とおなじだ。

カシオのは、「ゼロキー」の近くに配置されているので、ミスタッチで計算過程がおじゃんになる。
そして、その「ゼロキー」の位置が、整然としているのがシャープなのだ。

この時点で、シャープ派が形成される。
ただし、ブラインド・タッチを習得すると、特に右手にペンをもったまま左手で電卓を操作する技を得たばあい、人間工学的にカシオの配置が理想だというから、一概にいえない。

つぎが、「定数計算」で、決まった数の繰返し計算をするときに便利な機能だ。
シャープは「=キー」、カシオは「計算命令キー:+、-、×、÷ のそれぞれ」で、計算を繰り返したいときその回数を押せばいい。

ここで、カシオが有利にかわる。
計算させる感覚的にカシオは合致するし、数学的にも合致する。
もちろん、シャープが計算を間違える、ということではない。
「数式」としてのかんがえ方のちがいである。

理論的に几帳面なひとは、カシオ一択で譲れない根拠になる。

一般ユーザーからしたら、そんな厳密さはいらない、と思いがちではあるけれど、「定数計算」の便利さに慣れてくると、やっぱり「=キー」に違和感がでてくるかもしれない。

さて、「名機」と誉れがたかいライバル両社のどちらを選ぶべきか?
それとも、100均?
いやいや、ほんのちょっとでも「業務用」なら、100均はない。
おそらく、わたしの残りの人生時間をかんがえれば、今回が最後の選択になるのである。

さほどに長持ちするのが、プロ仕様だから、使用予定年数で割れば、高い買いものではない。
それでも、カシオはシャープの二倍のお値段。
フラフラっと、シャープかな?