「赤い幟」の山梨県自民党

久しぶりの山梨県である。
そろそろ「桃」の季節だが、どうだろうとおもったら、あった。
早生の品種がすでに登場し、めくるめく週替わり状態で各種(二十数種類)の桃が出回るシーズンになった。

桃好きには、山梨県はやっぱり「桃源郷」なのである。

ところが、なぜか甲州街道を神奈川県から山梨県にはいると、幟旗があちこちに出現するのは、やっぱり武田家以来の伝統なのか?
それにしても、こんどは「赤旗」なので、それが自民党のスローガンとはおどろいた。

ことし1月の統一地方選挙での山梨知事選は、現職を破って自民党の候補者が勝利した。
とはいえ、自民党は県連として事実上の分裂選挙にもかかわらず、一応、党単独の候補を擁立したのはなんと44年ぶりではあった。

山梨県の人口は、ことし5月1日現在で、818千人。
全国で下から6番目に位置する。
最下位は、鳥取県の560千人、1ランク上の佐賀県とは千人ほどすくないだけだ。

しかし、県としての面積もちいさいから、人口密度という点では、全国32位と、グッと上昇する。二倍にすると、ほぼ14位の奈良県、三倍にすると、10位の京都府ぐらい、十倍にして4位の埼玉県にやや足りない。

そういえば島根県でも自民党は分裂選挙をやったから、人口と自民分裂にはなにがしかの関係があるかもしれない。
「ドン」のわがままだったり、力の衰えが起きると、福岡だって分裂するけど。

山梨県と横浜市は、みえないけど深い関係があって、山梨でとれた絹糸が八王子経由で横浜におくられ、横浜は「シルク」の街としていまでも「横浜スカーフ」が地場産業でのこっている。

八王子から横浜を結ぶのは、JR横浜線だが、国鉄時代は、世にもめずらしい「黒字路線」だった。
それで、週末限定とはいえ、特級「はまかいじ号」が、横浜と甲府を直結していたし、横浜商工会議所メンバーには山梨県人が多数いる。

みえる部分での深い関係は、横浜市水道の水源が「相模川水系」の「道志川」になることでわかる。山梨県道志村の山林面積のおおくが、水源確保のための横浜市の保有林で、同村にある村営温泉「道志の湯」は、横浜市民にも割引が適用されるし、「道の駅道志」では横浜市水道局の「水」が自動販売機でも販売されている。

道志村議会は横浜市への編入決議をしたけれど、山梨県と神奈川県が談合して、これを潰したのは、民主主義がなんだかわからない人たちのおかげであった。

道志村と横浜市は、どうして行政訴訟を起こさなかったのか?も不思議である。
最高裁まで争っていい、議会決議にたいする重要な問題であった。
役人が仕切るとこうなるのだ。

その役人あがりの新県知事が、出身の財務省に「顔が利く」ということをアッピールして当選したのは前に書いたとおりである。
「顔が利く」といいことがありそうだ、という発想は、封建社会以前からの「人治主義」である。

役人OBの知事がなにかいえば、予算がつくらしい。
そんなバカなことがあってたまるか。

けれども、この発想の根幹に、知事が県の支配者だという、これまた封建社会以前からの人治主義がある。
選挙で選ぶのは支配者ではなく、役人がかってにすすめる行政を見張ることだ。

こんなこともわからない元財務官僚だから、自分こそが国家予算をぶんどって、これを配分する社会主義をおしすすめると公言できるのである。
いまでは、イギリス労働党すら、こんな主張は愚論だとはばかれる。
自民党のお里がしれる、重要な選挙であった。

それから約半年、山梨中央銀行が、県内の消費動向調査をして、暮らし向きがどうなったかを発表した。
一年前にくらべて「悪くなった」と答えたひと17.3%(前年より4.6ポイント増)、「良くなった」6.7%を上回ったという。

家計の悩みは、6割が「収入の伸び悩み」といい、そのほかに「税負担の増加」「物価の上昇」という。
あろうことか、この銀行のコンサルティング子会社は、原因を「米中摩擦の先行き不透明感」というから、どうかしている。

県知事さまへの気遣いもここまでくると「忖度」とはいえず、たんなるゴマすりか議論のすり替えとしかいえない。

知事と自民党のいう社会主義では、県民のくらしは向上せず、その分の消費税負担、くわえて石油の値上がりが痛いといっているのだ。
これを、街道筋の赤旗で「前進」というのは、どこかの党のパクリではないか?

消費税の増税に、レジ袋の負担も国の命令だから増税効果になる。
負担を軽減させようと発想しないで、重くするための方法を一生懸命かんがえるさまは、愚か者の努力である。

桃を買いにいって、素晴らしい温泉につかりたいけど、住みたいとおもわないのは、めにみえてガソリンが高いのと、どんなにめにみえない負担があるか想像できないからである。

どこまで衰退するのか?
山梨県人には申し訳ないが、衰退するのは確実なので、どこまでなのかに興味があるのだ。

ある意味、わが国の先端をいくのが、山梨県だからである。
山梨県の明日は、この国の明後日になっている。

寝具という基本機能

宿泊施設の基本機能には、「衣・食・住」のうち、「食」と「住」は欠かせない。もちろん、寝間着を用意していれば「衣」だってあるし、広くかんがえれば「タオル」だって「衣」の範囲になる。
しかし、とかく「食」だけが重視される傾向があって、利用客は滞在時間のほとんどの時間を「寝ている」ことを忘れている。

それでか、経費削減がだいすきな経営者は、唯一おカネの出所であるお客様が、ふだんどんな寝具に包まれて眠っているかなぞ、想像もしないから、とっくにヘタってしまった敷布団とちいさな枕を交換しようと発想することもない。

それに、こういうひとにかぎって、自分の寝具も気にしないだろう。
なぜなら、自分と商売上の顧客の価値観が、なぜか一致しているとかんがえているからだ。
つまり、自分の生活水準で商売をかんがえている。

バブル崩壊以来30年間、ずっと販売単価を下げてきて、ある意味トラブルがなかったのは、自社の顧客層と経営者の生活水準が近づいたからともいえる。

また、リピーターのリピート具合を定期的に調べることもしないから、「そういえばA様、さいきんみえないなぁ」程度でおわってしまう。
ところが、A様、B様、C様。。。と、かつて、のお得意様の姿がみえない。

「ご高齢だったから」という想像で済ませるのも典型的で、誕生日や記念日の記録もないから、おいそれと葉書もだせない。
こうやって、経営者と生活水準が似ているひとびとに顧客層が入れ替わってしまっても、ぜんぜん気がつかないのである。

上客は、だまって去るのだ。
そして、生活水準がひくい利用者の数が増えても、それが経営者の生活水準と似ていれば、どちらにしてもクレームやトラブルにはならない。
だから、サービス全体も、この程度で十分なのだ、と勝手に思い込めるのである。

もちろん、むかしの高級店だったころのサービス水準を維持している。
ところが、あたらしいコンセプトで開業して、それが評判の高級店であれば、どんなサービス水準なのかを確かめにいくこともしないから、自社のふるいやり方がとっくに陳腐化していることにも気がつかない。

安心材料はたくさんあって、なかでも分かりやすいのが、大手旅行代理店がつくる「パンフレット」である。
おなじ地域で、同等の予算レベルのお宿が、きれいな写真つきで紹介されている。

むかしは表紙や最初のページで特集されたものだが、だんだんと、徐々に、時間をかけて、しかも確実にまん中以下のページになって、似たようなお宿と料理写真だけで比較されるようになっている。
この似たようなお宿も、かつてのライバルで、表紙になったことがる。

旅館料理というジャンルは、なぜか会席料理になっていて、一品ずつ運ばれるから、一枚の写真でみるようにはならない。
けれども、大手旅行エージェントのパンフレットには、一枚しか掲載されないし、載るのは料理写真に限定される。

そんなわけで、一枚の写真になったときに「見栄え」のする料理にしないといけないから、現実にどんな段取りで一品ずつ提供するのかという手順と人員と原価をイメージしながら、調理長は悩むのである。

旅慣れたひとが、大手旅行代理店にみずから足をはこんで、パンフレットを手にいれても、魅力ある宿を見つけられないのは、何度かこれで経験を積めば、自分の好みとパンフレットの記事が一致しないことに気がつくものだ。

残念ながら、大手旅行代理店の発信する情報は、「昭和」の「高度成長期」のパターンを基礎に、バブル後の低単価で「お得」と表現しているにすぎないから、ネットで検索して「発見」することからしたくなる。
そんな、「発見」の対象になる宿ほど、マスコミにも登場したことがない。

ちゃんとした宿の寝具はちゃんとしている。
しかし、「寝心地」を、寝具メーカーがどのように競っているのか?
これを知らずして、寝具選びは困難になるだろう。

「食」へのこだわりが、調理長まかせにして困難になるように、「住」のなかで重要な寝具を誰が選定するのか?
これを決めるだけでも、あんがい困難だろう。

お客がみずからの身をゆだねる、医療とは別の「宿」という商売の奥深さである。

反日種族主義打破放送

さいきん、韓国で「反日種族主義」を打破するための「正論」が、YouTubeでシリーズ放送されている。
出演者は、韓国では「反主流」の研究者たちであろうが、論理は明確で、正当な証拠にもとづくその論証は、われわれ日本人の主張に近い。

親日が「罪」になる国での活動だから、その覚悟は深刻で、シリーズ第一回の「校長(ソウル大学名誉教授)」による開講のことばは、李承晩のことばを読み上げながら「嘘で塗り固めた国の滅亡」についてとうとうと語りかけている。

すなわち、もうガマンの限界だ、ということだ。

しかし、彼のことばには重みがあって、これからのシリーズで単なる「親日」の論を張る、という意気込みとはちがう。
あくまでも、自分たちの歴史をタブーなしで、ときには耐え難いほどの屈辱の物語であっても、目を逸らさないで直視することをなによりもはじまりとしているのだ。

都合がいい「種族主義」の排除である。
そのご都合主義が、一方で中国にたいする「事大主義」となり、一方で日本に対する「反日」となるのは、どちらも、韓国の将来をかんがえると間違っていると指摘している。

日本語字幕がついているから、じっくり観れば、日本ではしられていない「反日」の話題のかずかずが「間違っている」と訂正されていく。
ここまで根深いものかとも思うが、政府の役人によって「反日」が創られていく様は、なかなかの迫力だ。

なるほど、もはや論理ではなく国内の統治目的に利用されているのだが、利用する側とされる側が一体となって「自己満足に浸る」から、日本人には理解できない「種族主義」がそこにある。
これこそが、民族統一の熱情になって、親北政権がうまれる背景である。

ところで、反日の理論的根拠はどこから出たのか?といえば、じつは、日本の学者からなのである。慰安婦は、作家からだった。
「親北」の日本人学者が「発見」したかなにかした「資料」が輸出されて、これを韓国政府が採用し、教科書にもした。

ある意味、いうことを聞かなくなった韓国政府とは、反日をかかげる日本人がつくった、特大ブーメランなのだ。
だから、韓国では、そうとうに日本人の発信が、ある意味無条件に信じられている、という逆説もなりたつ。

すると、この「校長」たちが、もうガマンの限界という中に、日本人の発信源もふくまれていることになる。
このことは、われわれ一般の日本人もしっていた方がいい。
校長たちからすれば、日本人が「反日種族主義」を煽り、日本人から「嫌韓」されるのは、どういうことなのか?になる。

このシリーズを観ていて、このように真剣に国の将来を憂う、ちゃんとした学者が立ち上がるのが、うらやましくなった。
わが国で、このような発信をしている学者は片手でも足りそうだ。

どちらさまも、研究費がほしくて、御用学者にならないと、商売にならない。
科学技術系では、最先端の研究計画を提出して、ものになるもの、でないと予算がつかない。

最先端で「ものになる」と予想できる研究とは、とっくに見通しがたつ研究のことだから、じつはぜんぜん最先端ではない。
こんなことをしていたら、とうとう世界の最先端テクノロジーの研究から遅れだしてしまった。

ところが、より深刻なのは、文系の学者なのだ。
たとえば『自由の国 平等の国』という「哲学書」がある。
哲学者が書いたから、哲学書とする。
その内容の薄さが記憶にのこったが、けんかをしないためになる本という評価もある。子ども向けだから「薄い」のではない。

しかし、日本人のわかき哲学者は、平等がお好きらしい。
このたびの、韓国人の学者たちの深刻度が理解できるひとであろうか?
わたしには、いっときつかんだ「豊かさ」が、永遠なるものとして認識された、大甘の哲学、だとしかおもえなかった。

日本のながい歴史から観れば、いまこそ「特異」(とくにことなる)な時代はない。
イランではやったドラマ「おしん」のような、貧困こそが、日本の真の姿なのである。

絞り出すような哲学をうめなくなった日本は、まさに精神の貧困に陥っている。
この「校長」たちの目論見どおり、韓国人が「反日種族主義」を克服したとき、かならずや彼我の差は逆転するにちがいない。

その貧困の日本より、もっと貧困だった「日帝時代」を韓国人が正面からかたるのを観るのは、初めての経験である。
ぜひ、お勧めしたい。

未決のG20

「大山鳴動して鼠一匹」よりもなにもかも、なんにも決まらなかった。
議長国日本が、主たることは決まらないと、あきらめて張り切ったのが、プラスチック・ゴミの規制だったが、これも決まらなかったのは、世界人民にとってご同慶の至りである。

世界の首脳は、日本の役人ほど、バカではなかった。

決まらないのは、このほかに、会議場の机で、まさか各国首脳が町内会館にもある「五尺テーブル」に、きっちり三人づけされたことだ。
しかも、さいきんの町内会館の五尺テーブルは、キャスター付きで足下が隠れる板もある。

各国首脳が、足下までさらして座るのを、はじめてみた。
日本人事務局の「貧乏根性」が、みごとに表現された会議場のしつらえであった。

「もはや日本は先進国ではない」と、自分から宣言したような潔さであるから、これを期に、次回から参加を見送るのがいいだろう。

けれども、参加国の首脳だって、G20でなにかが決まるとは、最初からおもっていない。
ではなぜやってくるのか?といえば、個別会談がしやすいという、一カ所集中のメリットしかない。

ほんらい、これは「国連」の役割だから、なにも「G20」などといって各国持ち回りなどにせず、ニューヨークの国連本部か、ジュネーブの国連ヨーロッパ本部で開催すれば、警備による大騒ぎもないし、会場に事欠かないから、ちゃんとした会議室が最初からある。

国連という場のマンネリが、とうとう機能不全になってひさしいから、「G20」もおなじだと印象づけたくない、という理由しかかんがえられない。

すると、なんとか決めることができた時代はなんだったっけ?と記憶をたどれば、「冷戦」という東西両陣営が対峙していたときで、東西ともに「決めていた」。
緊張感のちがいである。

米中による対立は、この意味で重要だ。
「中」を包囲して封じ込めたい「米」は、冷戦構造をつくりたいだろう。
これにロシアがどっちつかずを演じて、とっくに経済弱者になっているけど、主導権を握りたいと志向するのは日本の野党に似ている。

わが日本は、御殿女中の思考で、とにかく目先の「おもてなし」をきっちりこなして、無事に予定の日程を終了すればそれでよい。
のんきな大阪のコンビは、「大阪の格があがった」とよろこんでいるらしいが、なんの「格」をいうのか意味不明である。

さて、決まらない、とはいかなる事情か?をもうちょっとかんがえれば、決まっていた時代と比較して、なにがどう違うのか?
いわゆる「グローバル化」が、決まらない世界をつくった。
それで、あたらしい冷戦を志向して決めようというなら、これは「反グローバル化」のことである。

今回もふくめ、ここ数回のG20は、すでに「反グローバル化」を模索している。
つまり、世界のグローバル化、といういいまわしはもう古いのだ。

そんななか、国内ローカルニュースで、東京理科大学が、「グローバル化」に対応した、学部の再編とそれにともなう各地のキャンパスを再整備するという記事をみた。

あたかも、日本国内では「グローバル化に対応した」という言葉を念仏か題目のように唱えれば、もっともらしくきこえるようになっているが、世界の潮流はとっくに逆転している。

「最高学府」にしてこの程度。
ちゃんとした学者はいないのか?

べつに理科大「だけ」が問題なのではない。
きっと、「グローバル化に対応せよ」と、命じている役所があるのだ。
このこと自体が、すでに世界標準ではない。

「粉もん」を首脳がよろこんで食べるすがたで、日本はいい国だと自画自賛する「引きこもり」も困ったものだが、時代潮流を読めないのは、決定的に損をする。
もはやトラック一周遅れなのに、先頭にいると思い込んでいるのは果たして幸せか?

出すぎた「中」をたたくため、安保条約を「片務から相互」へすべきというトランプは、とうとう日本がほんとうに「独立してよい」といった戦後はじめての大統領になった。
これも、グローバル化への反旗である。

どこまで読書をしているひとかしらないが、読み聞かせてくれるひとがいるのだろう。
トランプ氏の言動には、おなじ共和党の大統領だったフーバー氏の『裏切られた自由-フーバー大統領回顧録-』を読んだ、確信をかんじるのはわたしだけではあるまい。

 

せめて日本で指導的立場にあるひとなら、上記の翻訳者が要約した『誰が第二次大戦を起こしたのか』は、もはや必読書なのではないかとおもう。
日本を独立させるとしたトランプ氏と、そうでない70年前からの固定を支持する現状維持派(属国のまま)との戦いが、再選をかけたかたちで我々にはみえることだろう。

はたして、マッカーサーが決めた戦後秩序を、あたかもわが国の「国是」だとする奴隷根性にまみれたわが国マスコミは、親中の旗もおろせずにトランプ批判を繰り広げるのは、まさに「逆神」のごとくである。
しかも、日本は自分で決められない。

マッカーサーもトランプも、当事者の日本抜きで、属国か独立を許可するのかを決めるのだ。
日本国民にとっては、どちらも空中戦で、B29をみているしかなかったのと、状況はまったくかわっていない。

しかも、日本人の歪められた根性は、永遠の属国を望むという、世界人類が想像もしない「常識」がある。
新聞を読むとバカになる。
わざわざ購入する価値が、とうとうなくなった。

ドメインのおそろしさ

ネット世界に参加しようとしたら、取得しなければならないのが「ドメイン」である。
個人ならまだしも、企業の営業ツールとしてなら、もはや必須になっている。

ネットでのドメインはネットで取得する。
最初に取得するドメインなら、ふつうはオリジナルがほしい。
そこで、既存のドメインにかさならないものを「生成して」、自社のビジネスにつかう。

しかし、商標とおなじで、有名企業やらにまつわるドメインを、素早く生成して、これを売ろうという商売もある。
あんまり有名でないなら、これでちょうどいいドメインを購入することもあるが、ほんとうに有名企業なら、なかなか面倒なことに見舞われることもある。

今月は、「サークルKサンクス」の「本物」のドメインが「オークション」にでて、そのおどろきの落札価格が話題になった。

ことのはじまりは、サークルKサンクスがファミリーマートに経営統合したことによるのだろう。
それで、これまでつかっていた「サークルKサンクス」のドメインの使用期限がきても、使用料の更新がされなかった。

つまり、企業内における「経費削減」が、きっとネット担当者にも浸透していて、もうつかうことがない(とかんがんられる)古くなった「サークルKサンクス」が不要であるということと重なって、維持費がムダだと判断されて更新しなかったのだろう。

ところが、ネットの世界では、信用できるドメイン、という概念があって、それは、従来からの「実績」で評価されている。
評価するのは、検索エンジンと呼ばれるコンピューター・システムだ。
かんたんにいえば、「Google」のことである。

つまり、そのドメインが育ってきた(企業からすれば「育てた」)、リンク数や一般人からのアクセス数と、それにともなうネット上の販売実績とかが、「評価」されるのだ。
だから、たんにネット上の「住所」ということではない。

東京都千代田区千代田一番地は、皇居を指す。
それで、あんがいここを「本籍」にしているひとはおおいのだ。

これに似て、事業の発展とともにドメインも成長し、そのドメイン自体が信用をうみだす。

そんなわけで、ある日突然、リアル世界で経営統合されたとはいっても、そのドメインの評価が、検索エンジンというコンピューター・システムがつけた評価として無意味になることはない。むしろ、そのまま固定されて残るのだ。

このルールを、あろうことか、大企業たる組織人がしらなかった。

それで、使用者がいなくなったことをしった、ドメインの仲介・売買する会社が気がついて、これをすぐさま自社購入し、即座に自社が運営するインターネットでのドメイン・オークションに「出品」した。

容赦ない世界である。
このドメインの仲介・売買する会社とて、東証一部上場企業である。
「もしもし、お宅のドメインが、どういうわけか『使用権利者不在』になっていますよ」と、おしえてすぐさま買い戻すようにアドバイスしなかった。

しかし、こうした行為は、もはや「正義ではない」のだ。
どんな事情があったとしても、市場に「使用権利者不在」ででてくれば、それは善意の第三者からすれば、ただただ「使用権利者不在」という事実しか存在しない。

だから、本業として、このドメインの仲介会社が、オークションにかけて、なにがしかの利益をえることが、株主に対しての「正義」なのである。

けっきょく、オークション当初、気がつかなかっただろう当事者が、途中からこのオークションに参加したとおもわれるのは、そのやりとりを「オークション参加登録者ナンバー」から想像することができる。
途中から、特定の参加登録者が、不特定の参加者からの入札のたびに、かならず入札を繰り返しているのをみることができるからだ。

このだれもが「ファミリーマート」とおもう参加登録者のミッションは、やっぱりだれもが絶対に「買い戻す」とおもったはずである。
ただし、「ファミリーマート」の広報は、オークションに参加していない、と表明している。

なぜなら、「もうつかわないから」。

しかし、このドメインの価値は企業統合しようが、その企業のなかで保持することで発揮されるもので、第三者にわたることは、「悪意」を想定すれば、とんでもない企業価値の毀損原因になることまちがいない。

けっきょく、落札価格は、約6,000万300円だった。

ドメイン使用期限切れは、事前にあんがいしつこく警告される。
これを承知で手放した「担当者」が、当該企業内でどんなあつかいを受けているのかしらないが、組織としてかんがえれば、担当者「だけ」が責任を負うはなしではない。
ましてや、広報の否定とは?

ではいったい誰が落札したのか?
第三者なら、どんなつかいかたをかんがえているのか?

経済記者には、ちゃんとした続報を期待したい。

ベトナム留学が自慢になった

わが国のIT業界のことである。
世界のIT最先端技術を研究しているのは、なんといってもシリコンバレーだ。
シリコンバレーとは、事実上「スタンフォード大学」の街である。

アメリカ合衆国には、国立(連邦)大学がない。
あえていえば、陸軍士官学校のような軍の幹部養成校ぐらいがそれにあたる。
州立大学が日本の各県にある国立大学にあたるのだろうが、一部の大学をのぞけば、そのほとんどが職業訓練校的な存在である。

だから、ふつうは「私立大学」である。
さて、その授業料は?といえば、おおよそ700万円/年である。
上述した一部の有名州立大学も、これとかわらないのは、日本のように憲法違反(89条)がうたがわれる「私学助成金=税金の流用」がないからである。

アメリカがつくった憲法だからか、日本の役人は多くの条文を無視するか都合のよい解釈をして、とっくに骨抜きにしている。

このブログの読者なら、しつこい、といわれるかもしれないが、民主主義国の憲法とは、国家=政府を規制する国民からの命令書だから、守らなければならないのは、国民ではなくすべての役人である。
ただし、勤務外の役人も国民にもどるから、公務中の役人だけが憲法を守る義務を負う。

日本国憲法第89条「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」

ということで、「公の支配に属しない」教育事業には公金は出せないから、「公の支配に属する」ことで、「合憲」にした。
これが、文部科学省の役人による許認可権という利権の「合法的」な理由になった。

正々堂々と国が、私学にもおカネ(税金)を与え配分するから、とうとう、日本の私学はこのおカネをもらわないと、経営が成りたたなくなった。おカネをもらうために、授業料をさげろと命じられてさげたからである。

すると、役人の配下に成り下がるものかと頑張っても、授業料の安いライバルに学生の人気があつまるから、頑張るのをやめて、こんどは一番もらえるように努力した。
それで、おそろしく歪んだ競争の結果として、日本の大学は、授業料が「安い」のである。

この見返りが、役人のいうことを聞くことになったから、建学の精神まで絵にかいた餅になってしまった。それで、偏差値順という序列だけができた。
それでも懲りずに、大学まで無償化するという政府与党は、他人の子どものために税金を払えと国民にいっているのとおなじだと気がつかないふりをしている。

年に700万円もするということは、生活費をふくめれば1,000万円かかるから、親にとって4年で4,000万円は確実な出費となる。また、自動車がないと生きていけないから、自動車の購入費が加算される。
とどめは、アメリカの有名私立大学の授業料は、もっと高いことだ。

留学生がアルバイトで収入を得ることをゆるしているのも、日本ぐらいで、アメリカでは許可されない。
ただし、日本の大学とちがって、アメリカの大学はそら恐ろしいほど授業前に指定された学術書を読破しないと授業に出席すらできない。つまり、アルバイトにうつつをぬかす時間がないのだ。

そんなわけで、日本人の留学生は「珍しい」ということになった。
ここにも、わが国の国力が「衰退」していることを認めることができる。

それで、圧倒的に有利になったのは「共産国」で、国家が率先して留学させている。
トランプ大統領は、中国人の留学生を大幅に規制しはじめたが、ベトナムからの留学生はそのままだ。

こうして、わが国のIT企業にとって、コストがかかるアメリカ留学ではなくて、ベトナム留学を選択するようになってきた。
アメリカで学んだベトナム人から、最先端技術を学ぼう!ということになって、自社から何人ベトナムに留学させたかが、業界内の序列に影響しているのだ。

じっさいに、ベトナムに進出した日本企業で、日本人駐在員の人件費がいちばん「安い」という状態になっていると前に書いた。
先端技術を駆使する、若きベトナム人が最高額の賃金を得ている。

一方で、日本に出稼ぎにやってきたベトナム人が、日本で奴隷のような労働を強いられている。
その理由は、人件費を安くしないと儲からない、というかんがえが、バブル崩壊以来「常識」になってしまったからである。

そのうち、日本でのうらみをベトナムで敵討ちされるようになるだろう。

それにしても、競争論理を利用して単価をあげる努力をしているのが共産国で、平等論理をとにかく理想とするのがわが国だから、どっちがどっちだかわからなくなってきた。

このかんがえ方のちがいが、繁栄か衰退かの分岐点なのである。

コンビニに命令したがる経産省

今日(28日)から、どちらの省庁もなんとかのひとつ覚えである「有識者検討会」がはじまる。
その名は「新たなコンビニのあり方検討会」といって、来年1月に中間報告をまとめる予定らしい。

検討するのは、労働環境の改善や持続可能なコンビニ業界を目指すための指針作りだというから、どうかしている。

労働環境の改善や持続可能なコンビニ業界を目指すのは、当事者である各社の問題であって、国家公務員が介入するテーマではない。
これを、ムダ、というのである。

しかも、全国8カ所で、8月から9月にかけて、コンビニ8社の加盟店オーナー計120人に対面調査をするらしい。
これは、統計的に「有意」な調査なのだろうか?一社あたり15人だ。
しかも、コンビニは全国に「約5万軒」ある。

そこから、たった120人のオーナーに聞き取り調査をして、何になるのか?
うざい、邪魔である。
調査のことではない。「国家行政」がかかわることが、うざいのである。

すでに、最大規模のコンビニ本部と一部オーナーは裁判で係争状態にある。
行政ではなく、とっくに司法の出番になっている。
もちろん、民事裁判だ。

そもそも、労働環境の改善なら、厚生労働省の管轄ではないか?
すなわち、地元労基署の仕事だ。
これを無視して、経産省さまが直々にお出ましになる理由はなにか?

労働環境の改善は、ダミーで、持続可能なコンビニ業界、がメインなのだろう。
「倒産しない」という意味ではなく、意味のないプラスチック・ゴミ、すなわちレジ袋有料化に積極的でない業界を締め上げるため、だと推測する。

この検討会の出席者は、まちがいなく「御用学者」たちである。
メンバーひとりひとりが、いったいどんな補助金や研究資金を経産省から受けとっているのか?
この国に、ジャーナリストが存在するなら、是非とも読んでみたい記事である。

いよいよはじまった大阪市内を大混乱にさせている「G20」。
開催国の日本が議長国だけど、いまさら「G20」をやっても、まとまる政治的課題などない。
来年に「国賓」でくる予定の国は、香港問題を議論するな、と命じてきた。

その国が、大量に輸入していたプラスチック・ゴミの輸入を禁止したから、「リサイクル」できなくなってしまった。
そこででてきたのが、プラスチック・ゴミのはなしだ。
これなら、いまだに「京都議定書」をやったと自負する日本の役人たちがはりきれる議題になる。

そこで、昨日(27日)、環境省は廃棄プラゴミの国内保管上限を二倍に引き上げるとして、例によって法律ではなく関係「省令」の改正で対処するという。

まさに、万全のG20対策だ。

科学と化学を無視すれば、政治はなんでもできる。
化学者で自由主義者だったサッチャーが生きていたら、こんな議案は議論に値しないといったはずだし、香港返還の当事者だったから、香港問題をガンガンやれといいだすはずだ。

おなじ化学者だけど、旧東ドイツ育ちのメルケルには、化学と政治は別物だ。
ドイツでは、「再生可能エネルギー」なるペテンを推進して、電気代が四割増しになった。それでも、なにかに取り憑かれたようにもっと推進するというから、おそらくドイツの電気代はかつての二倍になる。

これで、ドイツの中小企業・工場は、青息吐息になったけど、地球環境にまさる価値はないという、あたらしい不幸をつくる思想にがんじがらめになっている。
国家主導がだいすきなのは、さすがかつての日独同盟国である。

そこに、歴史的な熱波がヨーロッパを襲っている。
気温は40度。
サハラ砂漠からの熱風を、気圧配置の関係で呼び込んでいるらしい。

「この極端な気温の上昇は、石炭、石油、天然ガスの燃焼による温室効果ガスの増加が引き起こす地球温暖化の結果として、まさに科学的に予測されたもの」とポツダム気候影響研究所の気候学者が語ったという。
各国が温室効果ガスの排出量をすぐに削減しなければ、今回のような熱波は悪化し続けると科学者たちは警告している。

果たして、おカネがほしい科学者が、世界中で笛を吹いている。

ほんとうは、地球という星のことなんか、ぜんぜんわかっていないけど、わかったふりをするとおカネがもらえる。
ひとびとの恐怖心が、おカネのつかいみちをきめるからである。
かつて、中世の時代に、カソリック教会がやった手口である。

あたかも神妙に、みなさんのためです、といって命令し、従わなければ火あぶりにする。

なんのことはない、経産省も中世の教会のような役割を自負しているらしい。
はやく、こんな役所はなくしてしまえ、と、そのうちプロテスタントが出現するのを待つしかないか。

イラン危機に対処できないのに円高

五年半ぶりの円高である。
今回の円高は、ドル安とユーロ安がセットになった円高である。
通貨の相場は、ふつう相対的なものだが、ドルは利下げが、ユーロはEUの危機からの下げだから、円が強い意味の円高になっている。

つまり、なんにもしていない日本の円だけが、相対的に価値が上がっている、ということになっている。
トランプ政権は、為替操作をきらうから、ほんとうは日本政府は円高を阻止したいのだろうができるオプションがない。

円高になると株価が下がるという構図がある。
輸出企業である製造業の輸出が減って、もうけが減るからである。
ところで、外国人観光客がつかうおカネも「輸出」とおなじ効果がある。
円高になると、外国人観光客にとっては、負担が増すから、製造業のそれとおなじ構造なのだ。

だから、日本の占領がおわって、独立するとすぐに「国際観光ホテル整備法」という法律ができたのは、いまとはちがって外貨がぜんぜんなかったわが国で、まずは手っ取り早く外国人旅行者からいただきましょう、という趣旨だった。

まぁ、当時は、これもいまとちがって一ドルは360円という、超円安だったけど。

いま、わが国の国際収支は、資本収支という項目で黒字をかせいでいて、かつての花形・貿易収支はぜんぜんさえない。
後期高齢者のひとたちにとったら、信じられないぐらい、日本は貿易立国でなくなった。

資本収支とは、外国に投資した結果の利子収入のことである。
円高は、外貨建てのままならいいけど、円に交換しようものなら、たちまち円での取り分が減る。
つまり、円高なら、外国に投資して、将来の利子収入を得るチャンスなのだ。

そうはいっても、イラン危機という、朝鮮半島よりも世界に影響がある、石油がからんだ地域での大問題が発生している。
日本のタンカーが何者かによって攻撃されたが、日本政府は犯人をいまだ特定していない。

それで、トランプ大統領から「自国の船は自国で守れ」といわれたら、日本の防衛大臣は「それはできない」ときた。
ようは、これまでどおり、アメリカの傘の下にいたい、という希望なのだろう。

でも、そのアメリカは、だったらその分負担しろ、と請求書を書いてきそうな雰囲気で、国内ではまたぞろどーしょうもない、カネで解決か自前で防衛かの、どっちが得か?という金銭的損得勘定しか議論されないにちがいない。

「国防」を金銭感覚でかたるのは、ローマ帝国末期すなわち衰退期の特徴である。
わが国の衰退は、経済だけでなく、物事のかんがえ方である思想も衰退した。

そんなわけで、どうして円が「安全資産」といわれているのか?
報道では、かならず「いわれている」というけれど、だれがいっているのかをいうひとがいない。
たんなる「うわさ」か「都市伝説」ではないのか?

だれもいわないが、金(Gold)が値上がりしている。
つまり、普遍的価値があるという金を基準にすれば、しっかり円も価値を下げているのだ。

リーマン・ショックでわかったことは、世界中の金融マンたちが、おなじ情報で判断していたということだった。
それは、学部学生時代からMBAを取得するまでからはじまる。
アメリカの金融論や金融工学が、世界標準になっているから、国籍に関係なく、みんなおなじ理論を学んだ。

そして、そうした仲間たちが、こぞって金融機関に就職して、こぞっておなじシステムで相場をみている。
たまに読む、最新の理論情報がでている雑誌も、みんなが読むという状態になっていた。

つまり、優秀なひとほど、おなじ発想をしていたのである。
しかも、情報源もおなじだった。

そうやって、サブプライムローンの証券化という商品に、だれも疑問をいだかず、かんがえた人間たちは、当初、巨万の富を得た。
ところが、だれかが「王様は裸だ」といったら、雪崩をウって崩れ去ったのは、仲間うちへの「疑心暗鬼」が原因だった。

つまり、だれもが「信用できない」と、こんどは互いに互いを疑ったのである。
優秀なはずのひとたちが、そんな体たらくで、じつはただ卑しい発想をする人たちだったことが、世界中の一般人の目にさらされた。

世界を相手に張り合う気概がなくなった日本人は、生活の根源的資源を中東から輸送しないと生きていけない。
堺屋太一の出世作にして、無邪気にも通産官僚の価値観丸出しの小説『油断』がでたのは1975年、第一次石油ショック(73年)の後にして、第二次石油ショック(イラン革命:79年)の前であった。

あれからほぼ半世紀。
この構造は、なにもかわっていない。
むしろ、より複雑になっているようにもみえるのは、インターネットのおかげで情報が細かくなったからである。

イランにも入れ子型の問題があって、核問題を表面に、その内側にイラン内部の民族問題があり、それが宗教対立をうんでいる。
けっして一枚岩の結束がある国ではない。
それを、しってかしらずか、安倍総理が出かけていって、案の定成果はなにもなかった。

それなのに円高。
これは、都市伝説だ。

強制がとまらない

世の中で強制の最たるものといえば「税」である。
これは、資本主義社会がはじまるはるか以前からあった。ときはローマ帝国で、徴税人だったのが「マタイ」である。
当時、もっとも蔑まされた職業であって、なかでもマタイが専門にしたのは最悪といわれた「通行税」だった。

そのマタイを救ったのがイエスで、救われたマタイは「福音書」をかいたのだから、人生とはわからない。

狭い国内に戦国大名がかってにやたらと関所をもうけて、通行税を徴収していたのをやめさせたのは「楽市楽座」をすすめた織田信長で、経済の空前の繁栄を招いた。当時は身ぐるみ剥いだろうから、税とはいっても掠奪だった。

新大陸の植民地は、本国イギリス国王が勝手にきめた「茶葉への課税」が引き金になって独立戦争になり、とうとう植民地が勝利した。
この一件があるから、アメリカ人はいまでも税に敏感である。それは、個人の権利を侵すものだという認識があるからだ。

世界に類をみない高率な税は、江戸時代の百姓に課せられた「五公五民」だ。すなわち税率は50%。人口構成で8割以上だったのが農民という、一大農業国だったわが国は、そんなわけで、税には鈍感である。

なぜか?いまやこの率に近づきつつあり、高齢者をささえる現役の負担率は最大75%になるという予測もある。
水呑百姓よりも貧乏になる?いや、その前に暴動でしょう。

消費税を上げるのか、そのままなのか、それとも下げるのか?
卑しくなった国民は、賛成派と反対派、自分ではわからない派の三つにわかれている。

あんがいおおい賛成派の下心は、年金がもらえる(かもしれない)、というちんけなはなしで、人類史上公的年金で悠々自適の老後生活ができたことなど一度もないのに、それを信じるという、マタイもおどろくだろう盲目的信仰がこの国を覆っている。

国家が窒息しそうなのに、自分の年金だけが将来の楽しみだといえるのは、学校にいったことがない未開のジャングルに暮らすひとには、なんのことだかさっぱりわからないだろう。

それでも、きっと東大を出たひとたちは、入ったときより優秀なはずだから、大丈夫という財務官僚を信じていれば、きっとなんとかしてくれるはずである。

無力でかわいそうな子羊ならぬ、百姓のひ孫たちは、御上さえ信じていればいいという、江戸時代にバック・トゥ・ザ・フューチャーしてしまった。

トランプ大統領から「ホルムズ海峡」は自分で防衛しろといわれて、あわてて官房長官が記者会見しているけれど、石油がどこからどうやって運ばれてくるのかわからないひとたちが、内閣不信任案を出すという。

いっそ解散して、こんな輩を三原じゅん子のように一喝したいが、そんなことを選挙でやったら、またぞろどーしょうもない自民党が勝つしかない。
いったい野党のひとたちは、どんなマーケティングをしているのだろうか?

再生可能エネルギーなるペテンも、ここにきてようやく破たんしてくれそうだ。電気代だって、21世紀の生活では税金のようなものだが、政府がたくらんだ高コストを、われわれ国民が「特別徴収」されている。
毎月の伝票をよく見れば、理解不能の請求がしっかり加算されている。

それでも飽きずに、レジ袋を強制的に有料化するというから、これも税金とおなじではないか。

下がるものがなくて、強制的に上がるものばかりで、意図的に消費経済を縮小させるアベノミクスとは、いったいぜんたいなんなのか?苗字がついてる本人も、わかっているはずがない。

大義名分があれば何でもできると、「チバニアン」の現場では、やっぱり地元の市原市がへんな条例をつくるらしい。
あいかわらず、報道機関は、どうして市が収容しようとした土地について、強固に地主が反対したのかの経緯を伝えない。

きっと地元の記者はしっているのだろうが、それをいうと、「チバニアン」の発見がすっ飛ぶほどのスキャンダルになるからいわないのだろう。
だったら、はやく記者などやめて、べつの職業についたほうが、こころの平安になる。

「学術」のためなら、他人の土地に強制的に立ち入ってよい、という不道徳が、この一箇所でおわると思ってはいけない。
「前例」こそが、役人の真骨頂なのである。
ふるくはこれを「有職故実」とみやびに呼んだが、いまならたんなる「前例」だ。

学術という「みんなのため」、世界登録というなんだかしらないが「名誉のため」、あなたの土地に他人が勝手に侵入しても、あなたは文句もいえない。
所有権の絶対が、平気に無視されるのは、憲法違反と同時に資本主義以前の時代への回帰である。

まさに、ファシズム、全体主義のはじまりである。

まともな「経済」の知識があれば、日本経済の60%以上が消費者の消費によっていることをみれば、「楽市楽座」がもっとも重要な施策なのである。この真逆をやりつづける発想はどこからくるのか?

財務省の管轄する、国家財政だけを守る。
これこそが、日本経済沈没の原因であり結果なのだ。

二院制を確保せよ

国会を「一院制」にすべきと主張する「保守」がいる。
その理由が、なぜかおカネのはなしだ。
議員ばかりか事務局にもおカネがかかって、それがムダだというのだ。
もったいない、というのである。

バカげている。
本末転倒どころか、なぜ「二院制」でなければならないか?なぜ一院制では「ダメ」なのか?という根本をわすれているから、ほんとうは「暴論」なのである。

これが暴論とおもえないくらいに、国民が劣化している。
まず、第一にそんな劣化した国民の立法府が「一院」だけだったら危ないではないか。
なにをされるかわからない。

人工的な社会主義国が、みな「一院制」だったのは、特定政党による独裁体制だったから、実質的にも名目的にも議会は必要なかった。シャンシャン大会で、手が腫れて痛くてもたくさん拍手しないと逮捕されたから、みな必死で拍手した。痛いのをガマンするから笑顔になったのだ。
けれども、そういう国にかぎって国名に「民主主義」とか「人民共和国」を入れていて、なんだか優しそうであった。

一方で、自由主義陣営と呼ばれる国のおおくが「二院制」なのは、民主主義の悪い面、つまり、国民に迎合するポピュリズムや、そのときの気分で大勝した与党の独裁をゆるさない、厳重さが重要だからである。
なぜなら、国会で決まってしまえば、国民全員がそれに従わなければならないからである。

だから難しいのは、国会がきめない、という選択も重要なのである。
しかし、一院制だと、多数があつまれば、決めないでほしいものも決まってしまう。
これを阻止するのは、もう一つの議会があってこそなのだ。

その典型が、わが国では地方議会で、どちらさまも一院制になっている。
そんなわけで、札幌でピエロが除名されてしまうのだ。
いまになって、おかしい、とか、厳しすぎるという意見があることを地元新聞が書いているけど、もう決まってからだからアリバイ記事にしかならない。

それに、市役所の元職員のはなしとして、ずいぶん職員がこの議員に怒鳴られたから、評判がわるかったとまで書いている。
市議会議員は市役所職員のために仕事をするひとではない。
その証拠に、地元から何度も当選しているのである。

こういうむちゃくちゃな新聞を、おカネを出して読まされる方が迷惑である。
札幌市民は、地元新聞の購読をやめた方がいい。
思い切ってやめたら、意外なほど困らないことに気がついて、お得感すらあるだろう。

そうしてムダな新聞社が潰れれば、有能な人材が世の中に供給されるから、北海道経済に有益である。
これが、資本主義のすぐれた効率性なのである。

しかし、わが国の二院制は、かつての自民党独裁時代に「参議院改革」と称した革命があって、「参議」であるはずの議員が、ただの政党人に入れ替わってしまった。
「良心の府」といわれた参議院が、たんなる衆議院のサブ・システムにおとしめられた。

元首相の長男が、国会改革に熱心だが、「参議院」を「参議」の「院」に戻すことがプライオリティのはじめになければならない。
「参議」とは、その道のプロのことだった。
その前は、貴族だったが、貴族には代々の「家」の専門があったから、いまよりも立派な人物がいたことだろう。

和歌の家、料理の家、楽器の家、花の家、お茶の家、学者の家、、、。
こうしたひとたちが「貴族院」の議員になって、衆議院の勝手を見張っていた。
これに、内閣を見張る枢密院まであったから、どうして決めごとはすべからく面倒なことになった。

そんなに「決めるのが」大変なのに、戦争をやるのは決まった。ところが、どうやるのかを即座に「決める方法」を用意しなかった。
それで、開戦してからあわてた東条英機が、内閣総理大臣兼陸軍大臣兼参謀総長兼と、どんどん兼務しないと、決まらない。
戦争だから、即決がひつようなのだ。

これをもって「独裁者」といわれるのは、さぞかし本人には不満だろう。

明治憲法は、内閣総理大臣の権限を記述していないから、内閣総理大臣と国務大臣は「同格」だった。いまのように総理に「任命権」もなければ「罷免権」もない。だから、やたらに総辞職するしかない。

衆議院と貴族院も同格だった。いまのように衆議院優先というルールもない。両院で可決されなければ即座に廃案になる。議案を提出した内閣は、廃案の責任を枢密院から叱られて、天皇側近の内大臣のひとことで、おしまいだった。

貴族がいなくなったから、選挙がない貴族院を復活できない。
ならば、上院と下院のごとく、参議院の参議をどう選ぶのか?智恵のしぼりどころである。
年収高額者トップ100人でもいいくらいだが、貧乏人のやっかみを利用して反対する輩もいるだろう。

下院は「私」が主張される府で、上院は「公」が主張される府としたい。
こういう二院制をもちたいものだが、そうもいかないのが、この国の民主制がおかしいからだ。

もうすぐ参議院議員選挙。
つなげるとわからなくなるから、上院の「参議」を選ぶのだと、こころにしまっておきたいものだ。