終身雇用が崩壊するほんとうの意味

昨日の13日、日本自動車工業会の豊田章男会長が、「雇用を続ける企業などへのインセンティブがもう少し出てこないと、なかなか終身雇用を守っていくのは難しい局面に入ってきた」、「今の日本(の労働環境)を見ていると雇用をずっと続けている企業へのインセンティブがあまりない」という発言があったと日本経済新聞で報道された。

そして、「労働流動性の面ではまだまだ不利だが、派遣や中途入社など以前よりは会社を選ぶ選択の幅が広がった。多様化は進んでいるのですべての人がやりがいのある仕事に就けるチャンスは広がっている」とも発言したと同記事にはある。

例によって、前後のはなしが途切れているから、「文脈」がわからない。

あたかも、「インセンティブがない」ことにとらわれると、誰かからおカネが欲しいとかをいっているようにもとれるが、そんな「乞食」のようなことを、わが国をささえる自動車業界のトップがいうのだろうか?

むしろ、(地に落ちて存在意義をうしなった)「経団連の中西宏明会長も「企業からみると(従業員を)一生雇い続ける保証書を持っているわけではない」と語る」ということと、上記の発言をつなげることにこそ違和感がある。

豊田章男氏はいわずとしれたトヨタ自動車という世界トップの自動車会社の社長であって、そのトヨタ自動車にはいわずとしれた「トヨタ生産方式」がある。

業界の代表としての語り口と、トヨタ自動車という自社の社長としての語り口が異なるのはある意味当然だ。
それに対して、経団連の中西宏明会長は、何のことだかわからないことをいっているから、目も当てられない。

「(従業員を)一生雇い続ける保証書」などという世迷い言をはいて、上から目線に徹していることが、どうしようもないトンチンカンぶりである。

平均寿命が60歳にもなっていないときにできた「国民年金」が、じつは「定年制」をささえることの根拠になるが、定年自体は、日本独自の「雇用慣行」であって、法的規制はなかった。

「日本独自」とは、「ガラパゴス化」という意味だし、定年制をささえる土台の「年金制度」がゆらげば、そのうえの定年制は大揺れする。

それが、まず、「努力目標」として法に明記されたのが、1986年(昭和61年)の「高齢者雇用安定法」なのだ。
つまり、「たった」33年前のことで、その後2000年(平成12年)になって「65歳までの雇用確保措置を『努力義務化』」し、それが、「希望する労働者全員を65歳まで継続雇用することが『義務化』」したのは、なんと2013年(平成25年)、たかが5年前のことである。

しかも、最近の平均寿命は短い男性で81歳だから、ぜんぜん「一生雇い続ける意味の『終身』」なんてことはない。
とうとう経団連会長は、日本語ができないレベルでもつとまるようになったらしい。

「定年制」というのは、「年齢」という条件「だけ」で、雇用契約を終了するということだから、アメリカ人やイギリス人にはなじまない制度になっている。
彼らのかんがえる「労働市場」では、本人がもっている職業能力とそれを購入したい企業とのあいだで、価格が一致すれば、雇用契約は成立するからである。

しかし、一方で、アメリカなどでは「終身雇用制」を採用している優良企業がたくさんあるが、これは、日本の強みを研究した成果であった。
「定年」なき「終身雇用制」とは、雇用契約に支障がないかぎり、いつまでも働けるという意味だ。

だから、これまでとおなじ仕事内容をこれまでとおなじ能力で業務をおこなうなら、たとえ「雇用延長」されても「同一賃金」なのは当然なのだが、これを「年齢」という条件だけで「半減」できるのは、「労働市場」の原則からおおきくはずれている。

こうしたことができるのは、わが国独自の「生活給」という概念があるからである。
敗戦後の混乱期以来、独身の若者は安く、家庭をもって、子どもができて、家を買ってという、いまでいう「ライフサイクル」に適合した勤務年数がふえると賃金もふえるように、賃金体系をつくりかえたのだ。

高度成長期に、このつくりかえは完成して、安定的な雇用とセットになった。
その恩恵をうけた世代が、団塊の世代である。
だから、一億総中流社会が実現できたのである。

重要なのは、この賃金体系のポイントは、直線グラフを一本書いて、それに次のような曲線を描けばみえてくる。
つまり、弱年時は「安い」から直線の下に、それがだんだん高くなって直線の上にはみだして、高齢時にはまた「安く」なる。

結局、直線グラフとおなじ面積(生涯年収)になるように積分で「設計」されていた。
ところが、高度成長という条件がくわわって、高齢時に当初計画どおり「安く」ならなかったのだ。

それでも企業内官僚は、設計どおり、だといえたのは、経済成長にあわせた生涯年収グラフを描いていて、団塊世代が50代になっても、そのときのグラフ上では「安く」なっていたのだ。

そんなわけで、日本語があやしい経団連会長は、「生活給」が維持できないといいたかったにちがいない。
このひとは、「終身雇用制」と「生活給」のちがいがわからないのだ。

それは、世界経済の標準化で、日本独自の制度維持が困難になっているからだといえば、そのとおりである。
しかし、もっとも重要なのは、わが国に存在しない「労働市場」である。

これを、豊田章男氏が指摘したのだとかんがえる。
「トヨタ生産方式」で鍛えられたトヨタグループ社員の価値は高いから、いくらでも需要がある。
それで自社のことに言及せず、自動車工業会会長として、他社の人材教育に「喝」をいれたのだと。

売れる人材をつくる、これを放置して使い捨てしようとする経営者への「喝」と、じぶんを高く売るための努力をおこたる労働者への「喝」だろう。

赤い羽根の憂鬱

学生のころ、どういう経緯かわすれたが、赤い羽根募金を駅頭でやったことがある。
仲間みんなで一列に並んで、おお声で「ご協力おねがいしまーす」と半日ほどもつづけると、募金してくれるひととそうでないひとの見分けがついたものだ。

いまになって、あの光景をみると、なんともいえない威圧感があるものだが、まじめな生徒たちは1円でも募金をもらわないとなんだか気がすまなくなって、いよいよ声が強引になるから不思議である。
はたして、これが「教育」なのかとかんがえさせられる。

ああ今年もはじまったな、と思いつつ、なるべく避けてとおろうとするじぶんが、わるいおじさんになったものだともおもう。
しかし、おとなになってわかったのは、たびたび指摘はされているけど、この募金の使い途における釈然としない違和感である。

日本がとっても貧しかった、戦後すぐに、赤い羽根共同募金はできた。
「戦後復興」というスローガンのもと、当時のおかねで6億円があつまったというからおどろきだ。
いまなら、1,200億円にあたるという。

つまり、行政も戦災で被災していたから、行政に「代わって」募金を集めたのだろう。
その意味で、当時はたいそう重要だった社会の機能のひとつにちがいない。

いけないのは、それから復興してくると、行政の側からの乗っ取りがはじまって、とうとう完全に行政の支配下にはいってしまった。
だから、寄付金のはずなのに、「税金化」している。

もちろん、赤い羽根共同募金で募金したお金は、所得税の控除対象になっているし、地元の募金会なら住民税の税額控除の対象になっている。
だから、ほんとうは駅頭だって、募金箱にいれるときに「証明書」をくれないとおかしい、のだが、ここではそれをいいたいのではない。

赤い羽根共同募金は、全国組織になっていて、各都道府県の募金会を全国会である「社会福祉法人中央募金会」がとりまとめている。
「社会福祉法人」だから、許認可権の管轄は厚生労働省である。
そのHPにいけばすぐにわかるが、所在地は「新霞が関ビル」という都心の一等地、しかも、官庁街に居をかまえているのだ。

これで、まさに「お里がしれた」。
善意の「募金」が、家賃に消えていく。
それを、ものともおもわないひとたちが君臨しているにちがいない。

この組織の構造は、よくある霞ヶ関のお役所コピーだから、またかとおもうが、個人の生活者からすれば、赤い羽根に10円玉や100円玉をだしている程度の感覚ではまちがっている。

じつは、各都道府県の募金会が、市町村の町内会や自治会に「強制的」に、集金しているのである。
もちろん、町内会や自治会の活動費は、住民から任意にあつめた「会費」であって、都会では月額200円、年会費2,400円といったところが「相場」だろう。

さいきんは町内会や自治会に加入しないひとがいて、それはそれで住民間のトラブルになっている。
もっとも深刻なのは、ゴミ出しだろう。

ゴミを出しても、自治体の収集車は集積所の掃除まではしてくれないから、これを住民が負担して衛生を維持している。
だから、加入しないでゴミを出すひとは、タダ乗り、にみえる。
さらに、分別という非科学が強制されて、国民生活の負担を強いるのが政府だ。

さて、そんな政府ではない組織である募金会が強制するのは、世帯単位での「寄付」である。
だから、町内会や自治会からすると、入会していない世帯分もきちんと請求されて、それをまたきちんと耳をそろえて支払っているのは、みかじめ料化しているからだ。

これが、200円/世帯だから、年会費であつめたお金の1/12が、だまって消えていく。
支払っている町内会や自治会側は、個別に一軒一軒まわって寄付をつのるのが面倒だから、一括まとめ払いを選択しているのだ。

そういう意味では、双方の妥協点ではあるのだが、さいしょにあるのが事実上の「強制」だから、税金とかわりがないのである。
しかも、町内会や自治会に加入していない世帯の分も払うのだから、じつは未加盟のひとたちに「寄付」していることになっている。

未加盟者にとっては、まさかじぶんの世帯分まで赤い羽根共同募金に、町内会や自治会が寄付してくれているなど、夢にもおもわないだろう。
これが、町内会や自治会からのイジメの原因にもなっている。

こうした事実がくわしくわかれば、駅頭での募金活動に、いじらしさなどを感じるのではなく、募金会のおとなたちの強欲に気が遠くなりそうである。
子どもを利用した、偽善の活動にほかならない。

どのようにつかわれているかの疑問のまえに、おどろくべき集金活動がおこなわれている。
もはや、駅頭の活動はやめたほうがいい。

そんな方法で集めたおカネを、募金会の裁量でつかうなら、二重行政にならないか?
むしろ、こんな組織は解散させて、国会で議論の対象になるほんとうの税金化=一般会計予算がのぞましい。

この国の憂鬱のひとつである。

中国人が驚く本物の共産主義国

もちろん、わが国のことである。
個人的に仲よくなれば、さいきん大陸からやってきて日本になじんだ中国人なら、かならず指摘することでもある。

かつて、「革命無罪」、「造反有理」といった標語をかかげて、あばれまくったのが、文化大革命のときの紅衛兵であった。
それが、「反日無罪」となったはずなのに、親日的な記事や動画の投稿が許されているのはなぜか?

こたえはかんたんで、日本こそが共産社会の理想郷だからである。

ムッソリーニというひとが、イタリア社会党の左派にいて、より先鋭化したかんがえを述べたら、なんと除名されてしまう。
それで、おなじかんがえの仲間をつのってつくったのが、ファシスト党だった。

これが「ファシスト」のはじまりで、彼らと組んだヒトラーのナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)は、日本ではなぜか「右翼」とか「国粋主義」とかいわれているが、ほんとうは「左翼」すなわち、社会主義・共産主義方向のひとたちである。

当初、彼らの支持者層は少なくて、社会党と共産党支持者から勧誘するひつようがあって、それで、これらの組織と犬猿の仲になる。
もともとたくさんいる、自由主義者が彼らの支持者層になる可能性などなかったからである。

わが国がドイツ・イタリアと「三国同盟」をむすんだのも、いまさらだが、思想的親和性と、ほんとうはスターリンのロシアが「すごい」とおもっていたが、建前上「反共」をつくろうひつようからだったはずである。
つまり、どっちでもよかった。

だから、国内の「共産党」を弾圧したのは、ただの「おとり」だったのではないかとおもう。

ところが、ほんとうに反共や反社会主義をしんじるひとたちが政府内にもいて、ホンネとタテマエが交錯する。
それがあらわれたのが、「企画院事件」だった。

当時、企画院という役所は強力で、縦割りで動きが鈍い各省庁をまとめるためにこしらえた「司令塔」だから、いまの内閣府にあたるのだが、総務省という中途半端な省庁をつくってしまったので、内閣府すら企画院の比ではない貧弱さなのだ。

戦後、企画院が看板をかえて「経済安定本部」となり、その後「経済企画庁」として、「司令塔」の役割はつづいて、21世紀になって「経済財政諮問会議」などになった。
だから、時間をさかのぼるほど、こわもてになっていく役所である。

この事件の詳細にはふれないが、かんたんにいえば、ソ連のゴスプラン(国家計画員会)のようなもので、本家のロシア人以上に、異常なる緻密性をもって策定・実施(命令)していたことが、「共産主義である」とあっさりバレて、ときの「検察」が企画院幹部たちを検挙した「事件」だ。

敗戦後、このひとたちは、自由になって、おおくは検察のいうとおり社会党などの議員や幹部になったりしたから、当時の日本政府の左翼性がよくわかる。

ちなみに、この時期に活躍した官僚で、とくに注目された「革新官僚」というひとたちは、戦後の野党が主張した「革新」とどうように、社会主義計画経済の寵児たちをさし、その親玉が岸信介だった。
ネット上の百科事典で、革新官僚を検索すれば、さまざまなひとたちの名前とその経歴がリンクされている。

「昭和維新」という標語で、とうとう2.26事件をしでかして、組織が壊滅してしまったのが「皇道派」という軍内(陸海とも)の派閥であった。
これで、ノンポリか「統制派」しかなくなったから、けっきょくは「統制派」が軍を仕切ることになった。

革新官僚たちは、この統制派と協働するのである。
したがって、終戦間近、軍内の幹部は社会主義的な思想のグループ員ばかりとなって、自分たち以外のノンポリを前線に配置するということまでやっている。

それで、ノンポリたちはこぞって名誉の戦死をし、終戦を無事におえたひとたちは、統制派ばかりの「赤い軍隊」になっていた。
これに特攻の若者たちがふくまれるから、やるせない。
かれらを殺した犯人は、統制派だとだれもいわない。

もし、かれらが生きていれば、わが国のいまは、ちがっていたかもしれないほどの「人財」を虐殺してしまったのである。
それがまた、統制派のねらいだったのではないかとうたがう。

マッカーサーに、独立の名分とひきかえに再軍備のはなしが頓挫したのは、赤い軍隊の将校たちを再雇用して武器をもたせたら、スターリンの命令一下、わが国に軍事クーデターが起きることをおそれたからである。
それで、軽装の「隊」でがまんして、あたらしくつくった「防衛大」卒業生が管理職になるまで、「自衛隊」の武装は軽かったのだ。

ところが、事務官僚のほうは、チェックがなかったからそのまま温存され、だれひとり責任をとったものはいないから、これが免罪符になって、官僚の無謬性と計画経済の継続が粛々とおこなわれたのが戦後日本経済の歴史である。

「60年安保」は、「70年安保」とぜんぜんちがって、じつは、岸政権を嫌うひとたちの倒閣運動の「名分」だった。
革新官僚のトップに君臨した岸の本性を、国民は見ぬいていたのだ。
しかし、その後の経済成長と「官僚の優秀さ」という宣伝(プロパガンダ)が功を奏して、骨のある国民が腰砕けになってしまっていまにつづく。

アベノミクスの「社会主義性」は、かつてなく強力推進している。
なのに、なぜか左翼のひとたちがこの政権を「憎む」のは、おなじ支持層しかいないなかでの支持者争奪戦という、マーケティングのはなしなのである。

大阪の地方選挙で、自民党と共産党が手を組んだことがあるのは、敵の敵は味方だというはなし「ではなく」、かつて社会党の村山政権ができたのとおなじく、ほんとうはあまり違いがないひとたちであって、ふだん対立しているふりをしていることのメッキがはげただけである。

だから、これから日本経済が社会主義政策の推進で衰退すればするほど、メッキどころか本性があらわれて、まったくおなじだということがさらされるはずである。

そんなわけで、ようやく気がついたのかよ、と中国人たちにいいたくなるのだ。

香港がこわれていく

まだ平成で、しかも昭和天皇の「天皇誕生日」でもあった、ことしの4月29日、日本人がたのしい連休にうつつをぬかしていたときに、香港が荒れていた。

気がつけばもう5年前になる「雨傘デモ」で、香港「セントラル」が埋め尽くされて街の機能がマヒしたのは、行政長官の選挙制度が、北京政府の推すひとしか立候補できない、という改正案に反対することが目的だった。

けっきょくデモの主張は敗れ、原案どおりの制度になって、いまの長官が選ばれた。
これを公平な選挙というのか?
といえば、「選挙」である、というのが北京のロジックなのだろう。

なにせ、日本の国会にあたる、とわざわざ説明する「全人代」という「会議」も、党が立候補しろときめたひとしか立候補しない「選挙」で選ばれたひとたちのあつまりだから、それとおなじ「選挙制度」に正したのだ、という主張は、ダブルスタンダードこそが道徳である社会では正当なものだ。

しかし、香港は、返還の条件として「一国二制度」という原則をまもる、ということだったから、香港人からすると、自由がなくなる、という切羽詰まったことと同時に、約束がちがう、ということになるのは、ダブルスタンダードは悪だという道徳がある社会だからである。

それで、こんどの大規模デモは、犯罪容疑者の北京への引き渡しを可能にする法案に対してのものだ。

なんだ、悪いことをしたひとをどこに移送しようがどうでもいいじゃないか、にならないのは、対象が「容疑者」だからである。
これなら、ダブルスタンダードを道徳とするひとたちなら、だれでも容疑者にすれば北京におくって、すきなように裁けるということになる。

行政府長官は今年7月までにこの法案をとおす、と発言しているから、このデモの攻防はこれから盛り上がるだろう。
それに、おそらく「みせしめ」なのだろうが、5年前の雨傘デモを首謀したという大学教授ら4人に、禁固刑がいいわたされたばかりである。

もはや、香港が自由を喪失すれば、これまでの繁栄とはちがうことになるのは確実だし、「一国二制度」という方便が、ただの「うそ」だったことの証拠にもなる。
それで、香港の経済人にも警戒感が強まっている。

日本の経済界、とくに経団連は、みごとなトンチンカンぶりで、そんな北京といまこそ仲よくしようとしているから、世界情勢にすら疎くなっている。
それは、トランプ大統領がしかけた「貿易戦争」で、ヘロヘロになった北京が日本に擦りよってきたことをチャンスと勘違いしているからだ。

どうしてこんな老害爺さんが、財界総理でいられるのか不思議だし、国民に害あって利益なしだから、はやく経団連は解散すべきである。
看板をオリジナルの「産業報国会」にしてみたら、ぜんぜん報国にならない団体に落ちぶれた。

5月5日に、まとまりかけたと日本のマスコミがいう「貿易戦争」だったのに、いきなりトランプ大統領が25%の関税を宣言して、ニューヨークの株価も下がったことを、そらみたことか、と揶揄するのもいかがなものか?

香港のひとたちからすれば、トランプ大統領が英雄にみえたはずである。

アジアの金融センターは、とっくに東京ではなく香港になっているし、グローバル企業のアジア本部も、香港かシンガポールにあって東京ではない。

東京は支店か出張所で、香港かシンガポールに支社がある。
内紛のリクシルで話題の創業家は、本社をシンガポールにするといっていたこととおなじである。

なぜか?
傲慢な日本の役人がきめた、つまらない法規制が、東京の経済センターとしての魅力を喪失させたからである。

たとえば、金融商品取引法(金商法)では、あたらしい金融商品を売買するときに、「重要事項説明」をしなければいけなくなった。購入した客が、理解不足であとから損をしても、説明不足だったら売った会社のせいになる。

この役人の発想は「優しさ」ではなくて、たんなる「お節介」で、おかげで決済機能があるスマホの契約に何時間もかかることになった。
この生産性を低下させるだけのルールの根拠に、「国民は基本的にバカ者しかいない」から、「かわいそうなので保護する」という発想しかない。

このルールを国内にある外国の銀行だけでなく、外国にある外国の銀行にも要求したから、日本人客には「重要事項説明」をしないといけなくなった。

ならば、外国にいって外国の銀行に口座でもつくろうか、とはならず、ぎゃくに「日本人お断り」、になったのは、(英語がわからないバカな国民だから)「日本語で」説明しろと迫ったからである。
これが、日本政府が一生懸命に仕事をしたという姿だ。

そんなわけで、国内からも外国の銀行が撤退したが、それを、ガラス張りのビル群をつくって、「魅力的な東京」と自賛する神経は、北京なみになっている。
日本人は、海外ではあたりまえの金融サービスを受けることができないから、この分野では「鎖国」が成立している。

香港の経済センターとしての機能が攻撃されていることに、日本が無頓着なのは、まさか、香港から東京に移転するのではないか?と棚からぼた餅を期待しているのではあるまいか?
愚かなことである。

軍事力でなくて経済力で中国を締め上げる、トランプ大統領を熱い視線で見つめるのは、香港だけではない。
もちろん、台湾だ。

なんと、シャープを買収したひとが、国民党候補として総統選挙にでるという。
大陸で「100万人を雇用」している会社の長だ、という目線ではなく、どうして100万人も雇用することが「許されたのか?」が重要なのだ。

つまり、あちらの「党と一体」だということだ。
シャープはほんとうに「向こう」の会社に売却された。
しかし、それで経営が復活するのだから、日本人の経営能力はおどろくほど「低い」ことをいみする。

北京と手を組めば儲かる、という田中角栄以来のパブロフの犬のような反応しかできないなら、香港と台湾が北京の支配下にはいったら、どんなことになるかを想像もできないのだろう。

この悪夢を想像できているのが、トランプ大統領ではないか?

香港も台湾も、北京は手を出すな。

これが、彼の主張であり、アメリカの縄張り意識である。
ブレグジットでうごけない、イギリスのかわりに、香港の面倒もみる、という態度こそ、同盟のあかしである。

ならば、日本は同盟にあたいするのか?

おおくの国民がタカ派だと信じている安倍内閣が、香港をガン無視しているすがたは、まったくもって意志をかんじない。
それで、日本はアジアの盟主だと自認するなら、とんだ裸の王様である。
経団連と同様に、政権政党たちも落ちぶれた。

しかして、しんぶん赤旗が、冒頭のデモを4月30日付けできちんとつたえている。
共産党がまともに見える。

これは、ダブルスタンダードか?

上級国民はいないが下級国民はいる

へんな言葉がとびだした。
「上級国民」という言葉をきいたことがなかったが、あっという間にひろがった。
令和初の流行語大賞になるかもしれないのは、これからの暗い時代を予想させるからでもある。

いったいだれがこんな言葉をいいだしたのか?
受賞という場面になるとはっきるするのだろうから、顔を見てみたい。

60年代から70年代、当時、世界でもまれな高度成長という経済成長の経験をしたわが国では、左翼思想が蔓延して、これまた世界史的にもまれな平等国家である「一億総中流社会」がうたわれて、あたかも全国民が「中流」であって、その上も下もない理想社会のようなことを自画自賛したものだった。

理想社会のことを「ユートピア」というのは、もちろん、トマス・モアの『ユートピア』を語源にしている。
この本の特徴に、モアはさいしょにラテン語で書いたが、それを別のひとが英語に翻訳したといういきさつがある。

だから、原題の「ユートピア」もラテン語からの造語で、「現実にはない社会」、「ありえない社会」を意味したが、いつのまにかに「理想的な社会」にかわってしまった。
これは、まちがいなくトマス・モアが意図したことではない。

読んだことがないのに批判する批評家はたくさんいて、そんな批評が世の中に拡散するのは、じつは順番がぎゃくで、世の中の雰囲気をくみ取った批評家が世の中に受け入れられるように批評するからである。
だから、じっさいに読んでしまうと思考の邪魔になるから読まないで批判することになる。

『ユートピア』を読んだことがあるひとなら、この本の世界はけっして「ユートピア」ではないことに気づくが、それは「ありえない社会」のことだという原典にたちかえれば、すぐにわかることである。

また、この本を利用したひとたちは、この本の空想的な特徴を切り出して、「空想的社会主義」という思想をあみだした。
それで、さらに後世のひとたちが、「空想」ではなく「科学」を標榜するようになって、とうとう「科学的」根拠はないけれど「科学的社会主義」を発明したという歴史がある。

そうやってかんがえると、「一億総中流社会」という「空想」が、各種統計数値によって「科学的」になったようにみえたのも、なんのことはないグラフにすれば一目瞭然の、下流と上流を「無視」したからである。

そして、無視したものが「存在しない」に変化したのだから、見えないモノは「存在しない」ということとおなじで、もはや「イリュージョン」になるのである。

この気持ちのよいイリュージョンに、だまされているふりをしているうちに、ほんとうにだまされて、それがさいきんになって「格差」が見えてきたら、こんどは「格差社会」だと騒ぎだしただけである。

それを、政権批判に結びつけたいひとたちが、平等こそが理想なのだという固定した価値感から、さいしょからありもしない平等社会が「こわれた」、といって「どうしてくれる」になっている。

不思議なのは、地上波のテレビで常連の批評家たちが、いっせいにおなじ批判をして、さらに、じぶんはもちろん下層にいますというウソをついていることを、これまたみんなでだまされているふりをしているうちに、ほんとうにだまされている。

いったいこのひとたちには、一回いくらの出演料が支払われているのか?
このくだらないはなしのために、スポンサー企業がしはらう広告料を負担しているのは、消費者である視聴者しかいない。

つまり、だましているひとたちが上級国民で、だまされているのが下級国民という構図に、とっくのむかしからなっているのだ。

以前は、「左から見ればまん中も右に見える」というはなしがあったが、いまは、「下から見ればまん中も上に見える」ということになった。

では、上級国民というひとたちはといえば、世界の「セレブ」からあいてにされない状態で、大型ヨットも自家用飛行機も「個人名義」でなんてもっていない。
せいぜい、会社所有で、税務署からの指摘に戦々恐々している程度である。

そんな程度だから、たとえばヨーロッパの超高級ホテルに、お金さえ出せば宿泊できると意気込んで予約をいれるが、実際にチェックインすれば、毎夜のディナーで昨夜とおなじ服を着ているひとなどいないし、朝食すらも同様である。

さらに、幼児がいてもロビーで大声をだしてぐずったり、走りまわることもしない。
もちろん、このようなホテルに、乳母車を押して入館してくるようなひともいない。

世界標準でいえば、上級国民などこの国にはいない。

まちがいなくいえるのは、上級だとひとびとを煽って、社会の分断をもくろむひとたちが、喜々として「格差」を指摘し、将来の「革命」を夢見ていることである。

戦前の国家総動員体制ができてから、戦中・戦後も日本政府の経済政策は一貫して社会主義の推進だったにもかかわらず、どうしてこうなったのか?

それは、さいしょから「ユートピア」(ありえない社会)の追求だったから、いつまでたってもありえないだけでなく、むしろ、意図とは逆の効果しか生まないのである。

サブカルの国は、リアルで空想社会なのである。
この空想から目を覚まさないかぎり、未来は暗い。

もらって困るビール券

むかしは町内に一軒以上の酒屋があったが、個人営業の酒屋をほとんどみなくなったから、もらった「ビール券」がどこでつかえるのかをかんがえだすと、けっこう面倒くさいことになっている。

安売りのチェーン店が出てくる前は、チケットショップで購入したビール券をつかえば、なにがしかの「お得」があったのだが、この方法はビール券がつかえない安売り店では効力をうしなった。

いまでは、大型スーパーでもビール券をつかえる系統とそうでない系統があって、コンビニでも同様な系統があるから、ちょっとやそっとでおぼえられない。

しかたがないから、つかうまえに「このお店ではビール券はつかえますか?」と確認してから商品選びをするのだが、「つかえますよ」といった店で、ビールに「しか」つかえない、といわれることもある。

発泡酒やスピリッツ類も対象外だとレジでいわれれば、「???」がつきまくって、ぜんぶの購入をやめたくなるし、こんな店で二度と買い物をするものかと八つ当たりもしたくなる。

はたして、ビール券とはなにものなのか?
全国酒販協同組合連合会が発行する商品券である。
それで、この連合会のHPでは、「券面表記の商品とお引き換えいただける商品券です」と説明されている。

なるほど、券面表記されているのは「ビール」なのだから、ビールに「しか」つかえません、ということはただしいのだろう。

けれども、おなじHPに、小売店向けの案内もあって、「全国の酒類を扱う小売店様でのご利用を特約しておりますので、お客様が交換に来られましたら当該商品との交換をお願いいたします」とある。

つまり、「ビール」と表記せずに「当該商品」という曖昧な表現になっている。
さらに、小売店での利用を特約している、ということだから、そのお店の商品とも交換できそうな雰囲気がある。

発行者の免許として、登録番号 関東財務局長 第00090号/社団法人 日本資金決済業協会、と明記されている。
まずは、岡っ引きである一般社団法人のHPをみると、「前払式支払手段」についての説明がある。

これによると、「ビール券」は、資金決済法の「第三者型前払式支払手段」に該当し、発行者である「全国酒販協同組合連合会」は、第三者型前払式支払手段発行者として、管轄する財務局長あて登録申請をして、発行者としての登録をしなければならない。
それが、上述の登録番号の意味である。

ちなみに、ホテルや旅館、あるいはレストランなどが、じぶんの店舗や資本関係のある店に「かぎって」つかえる前払式支払手段(宿泊券や食事券)を発行するばあいで、基準日という、毎年3月末と9月末に発行残高が1,000万円を超えると「自家型発行者」として法の適用をうけることになる。

これの適用対象になると、基準日における発行残高の半分以上の額を、供託金として最寄りの法務局に供託しなければならない。
供託方法はいろいろあるが、手数料をなるべく安くするなら、日銀本店(各道府県にある支店でもよい)に行って、直接国債を購入して、その国債を法務局に持ちこむ方法がある。

これなら、基本的に交通費だけですむが、係の従業員がそのまま逃走するリスクはかんがえておいた方がいい。
日銀には、現金をもっていかないといけないし、購入した国債だって、かんたんに現金化できるからだ。

政府は「電子決済」を推進するといって、例によって民間に負担を強要しているが、日銀と財務局というおおもとでは「現金主義」を貫いているのだから、なにをかいわんと笑えるはなしである。

だから、経営が弱小なのに宿泊券や食事券を、安易に発行すると、供託金という経営にとって重要なキャッシュの一部を国に有無を言わせず預けなければならないから、慎重な検討がひつようだ。
ホテルやレストラン企業の決算書で、資産の部に「国債等」とあれば、この供託金のことだとおもえばよいし、二倍にすれば発行残高がわかる。

もっとも、こうした制度をつくっているのは、発行者が倒産したときの購入者や、もっているひとが困らないようにするための「保険」になっていることだ。
ならば、ほんとうの保険でいいではないかとおもうが、政府は保険業界も信用していないという「無間地獄」にはまりこんでいるのが日本である。

さて、それで、ビール券はどこでどうやってつかうのか?
消費者としては、ビール以外の酒類も、おつまみも、その他その店舗で売っている商品にも適用してくれたらうれしいものだ。

これが鷹揚にできていたのは、お店のレジがたんなるレジスター(金銭登録機)だったからで、酒屋のおじさんやおばさんが、ある意味厳密な売上・在庫管理をしていたのではなく、組合に持ちこめば現金になるということだけだったからだろう。

ふるきよき時代の適当さが、あんがいサービス面でのまとを得ていて、家にちいさい冷蔵庫しかなくても、人寄せでこまらなかったのは、電話一本で配達してくれる近所の酒屋が冷蔵庫代わりだったからだ。

これがややこしくなったのは、レジスターがPOSレジに進化して、さらにそのシステムのなかでの決済機能と金種管理機能が、ビール券との相性の一致・不一致という設計のバラツキを生んで、結果としてサービス内容を決定するようになったのだともかんがえられる。

すると、レジ係のひとに八つ当たりしてもしかたなく、そんな機能しかないPOSレジの機種を選んだ経営者が、ぜんぜん客サービスに徹していないということになるから、やっぱりそんな店で買い物なんかするものかと、こんどは確信にかわるのである。

平成17年9月から、ビール券には有効期限がついている。
期限内につかわないと「紙切れ」になるから、なるべくはやくつかわないといけないし、どの店でつかえるのかまで「Google先生」にきかないとわからない。

やれやれである。

大学の式典用標準服制定という発想

ながかったゴールデンウィークがやっと終わって、ほっと一息ついているひともいるかもしれない。
「連休疲れ」は、仕事での疲れかたとちがって、遊び疲れだから始末が悪い。

この連休前の4月25日に、名門、東京女子医科大学でユニクロのウェアが同校の式典用標準服に推奨されたというニュースがあった。
この「ニュース」の主眼は、ユニクロというカジュアル・ウェアを得意とし、品質の高さと価格の安さがなによりの特徴である企業の服がえらばれたことにある。

ようは、ユニクロの服が大学当局によって指定された、ということだ。
それで、記事ではファーストリテイリングの広報が、質問にこたえている。

ただ眺めれば、なんということもない「記事」なのだが、決めた側への取材がない。
それで、アパレル側の説明に、式典や実習教育の場など、学生がスーツを着る機会がおおいので大学側から相談があったのだという。

記事に添付された写真では、ことしの入学式に、おなじ服を着た新入生がずらりと並んでいる光景が紹介されている。

日本人がみれば、この写真もとくだん目にとまることはないだろう。
街で「リクルートスーツ姿」をみかけるだけで、就活の学生だとわかるくらい、だれもが似たような色とデザインの服、それに鞄と靴をはいている。

大手求人企業が主宰する、学生のための就職セミナーで、企業側の目線からの講演を依頼されたことがあった。
約500人ほどが熱心に聴講してくれた。

壇上からの景色は、ほぼ真っ黒の服で埋まっていたから、じぶんを採用して欲しい面接官に、おなじ服でアピールはできないのではないか?とはなしたことをおもいだす。
もちろん、奇抜な服を着ろといいたいのではない。

すなわち、プロトコールやエチケットにかんする知識が貧弱なために、どんな服装ならよいのかを決めるのに、じぶんではわからないから、洋服屋の「標準服」を買えば済むということだろう。
そんな服を買い与える親も、同様に知識がないし、いちいち選ぶのが面倒だからよしとしているはずである。

しかし、ここには、周囲のひととおなじである、という主張をして、それが「安心」なのだというかくされた心理がある。
「同化」こそが、じぶんは異端ではない証拠だと、じつは積極的に主張しているということだ。

かつて、スターリンも毛沢東も、人民服を着ていた。
映像が粗く、いまのように4K、8Kどころかハイビジョンだってなかったから、おなじ色合いでおなじデザインなら、すばらしい絹の服であっても、人民とおなじなのだといえば、よほど近くにいなければわからない。

そんなわけで、旧社会主義国だった東欧では、スポーツ以外でおなじ服を着るということが、忌み嫌われている。
冠婚葬祭だって、プロトコールやエチケットの範囲をこころえて、各自がそれなりの衣装をまとうことになっている。

それが、自由、というものだ。

日本では、入学式はあたりまえだし、学期末にも、学期のはじまりまりにも「式」があるし、社会に出ても入社式という「式」がある。
これは、文化だから文句はないが、欧米にはこうした「式」がほとんどないことはしっていていい。

東欧の有名大学で日本語を教えている日本人の先生から直接きいた話で、あるときふと授業中に、街でおこなう日本祭りへの学生たちの参加にあたって、日本語学科でTシャツをつくってそれを着たらどうかと話したら、正式に学生から抗議があったという。
それで、学部長と学長にも相談して、正式に謝罪したということだった。

冒頭の記事を先生におしえたら、そんなことをしたら当地ではどんなことになるか、想像するだけでおそろしい、という返事をいただいた。

これは、あんがい笑えないはなしだ。
つまり、じぶんが何を着るのかすらじぶんでかんがえなくてよい。
うえ(当局)からの指示にしたがえば、まちがいはない。(身の危険もない)

慣れれば、たいへん楽ができる。
些細なことに気をつかわなくていいし、余計なおカネもつかわなくていい。
ましてや、同化することの安心感も与えられる。
すなわち、愚民化である。

しかし、これこそが、人民服着用義務の主旨ではないか。

日本の名門大学で、しかも、医学や看護を主とする人材育成の場で、まさかの個人の自由に対する侵害と愚民化が、堂々とおこなわれていることが、「ニュース」なのではないか?

公共放送もふくめ、ニュース番組の気象情報のコーナーでは、とくに季節の変わり目に、明日はどんな服を着たらよいかといって、こんな服、を画像とともに紹介している。
これに、アンカーの女子アナが「いいこと聴きました、明日はそれを着ます」と笑顔で伝える放送がある。

いまどきの東欧圏なら、放送局への大規模抗議デモにもなりかねない、個人の自由への侵害と映るはずだ。
何を着るかは自分でかんがえる。放送では、天気に気温と湿度、風向きと風速の情報「だけ」でいいと。

大げさでも、笑い事でもなく、日本人はそれを「優しさ」だとおもい、お節介だともおもわない。

かつて、自由をうばわれていたひとたちは、あこがれの自由を手にいれただけに、自由に対しての攻撃に敏感である。
国家権力によって、かんたんに、あっさりと奪われる自由とは、じつに繊細なものだと苦しい経験からしっているのである。

あぶない発想をしているのは、じつはわれわれの方なのである。

数学という「言語」

「韓国発の英語教育革命」が、受けているのは、官僚主義的無責任の教師たちによる犯罪的時間のムダづかいだけでなく、現実的に「英語嫌い」という被害者(「英語戦死者」の山)を量産しつづけていることのアンチテーゼだからである。

いってみれば、安かろう悪かろうの極地である。
公立学校の授業料は、義務教育なら無料だし、高等学校でさえ劇的な負担を強いられるものではない。
私立は別だったが、もはや「高かろう悪かろう」にさえなりかけているのは、文科省さまのおかげである。

わが国の就職制度は、新卒だろうが中途だろうが、基本的に世界標準の「ジョブディスクリプション」がない。
それだから、「就『職』」ではなくて、必然的に「就『社』」になる。

会社や役所に採用がきまってから、しごとがきまるし、どんな職場に配属になるのか基本的に本人はしらない。
接客を主とするサービス業でも、おおきな組織になれば、入社したひとの配属先に社長がみずから口をはさむことはなく、人事担当者の裁量にまかせられていることだろう。

これが、生涯つづくから、本人がしらない「ジョブ・ローテーション」が人事部によってかってに組まれて、その育成方針さえも本人には伝えられない。場あたり人事でも、ローテーションだといわれるものだ。

だから、一生懸命と一所懸命が、まざりあって、専門なのか総合なのかわからないのに「総合職」とよばれて、だれも不思議におもわない。
日本企業には「経営(マネジメント)職」がない。

経営は経営陣になってから、という思い込みと身分制で、若いときからの訓練プログラムもないから、素人が経営者に社内昇格して、役員という安全地帯に身をゆだねれば、社長にならずとも優雅なくらしが社内・社外ともにできるようになっている。

なにも、コンサルタントのしごとをふやしたいのではなくて、この状況がわが国の生産性を向上させない、かなり根本にちかい原因だとかんがえている。

それは、ジョブディスクリプションがないことで、社会がどんなしごとを求めているのかがはっきりしないから、専門教育の場も「ぬるま湯」になってしまうからだ。
それが、わが国をむしばむ大学のリゾート化であるし、計画なき人事の正体でもある。

なんとか、下の高等学校がもちこたえているように見えるのは、「受験制度」というダムがあるからだったが、少子化という総需要減少でこのダムの機能がうしなわれそうになっている。
もはや、高校も大学も全入時代、になったからだ。

むかしを単純になつかしむものではないが、高校や大学に行けない、行かないひとたちは、その分の時間で職業人としての訓練をうけていたから、リゾート大学での時間は、社会の生産性を低下させていることも意味する。

日本の高等教育は、もじどおり「高等学校」からはじまる。
中学校と高等学校のレベルのギャップはあんがい大きいし、高等学校の教師たちは、中学校のように手取り足取りといった面倒をみてはくれない。

「高等」なのだから、「自己責任」だといって突っぱねる。
しかし、あとからわかるのは、突っぱねた理由が、ほんとうは質問されても答えられないという現実が、教師の立場をあやうくするからではなかったか?

生半可な勉強で、リゾート大学をでたくらいでは、およそ生徒の質問に即答できるはずがない。
唯一の自慢は、受験制度による上位校に生徒とおなじ年齢のころに合格した、という一点しかない。

日本の高等学校の科目で、最高難易度なのは、「数学」だろう。
「数Ⅲ」まできっちり受講させると、だれも単位がとれなくて卒業できないから、途中で「文系」という逃げ道をつくった。

この「優しさ」は、生徒のためでなく教師のためであることに気づくだろう。
数学嫌いで一生を過ごせたアナログの時代はおわってしまった。

いやがおうにも、サイエンスの基礎的センスがないと、従来の文系分野さえもついていけなくなることを、子どもである生徒がまだ気づかなくても、おとなである教師がしらないはずがないのだが、これがあやしい。

「学校」という狭い世界は、かなり世間から分離されている。
民間企業に勤めた経験が教師には「ない」から、商業高校の簿記の先生すら、企業の経理実務をしらないのだから、普通科高校とて推して知るべし。

そんなことよりも、三年間もかけて簿記検定で生徒たちを最低で二級、数人に一級を取得させれば「おんのじ」なのである。
市中の経理学校は、二級なら三ヶ月コースになっているのはどうしたことか?
生徒をバカにしているか、よほどおしえ方にリアリティがなくて下手なのだ。

ほんとうは、おしえ方がわからない、じつは素人の教師たちをすくうため、採用した教育委員会と文科省が、採用責任を問われる前にさっさと逃げ道をつくったのである。
英語戦死者も、当然に被害者だが、数学戦死者も成長が前提の社会でなくなったとたんに、職探しもままならない状態におとしめられてしまった。

だから、とくに「英・数」の二科目における、怠慢は犯罪的なのである。

中学校からならうことになっていた英語が小学校からになって、その小学校でプログラミングをならうことにもなった。
しかし、一般人に「大丈夫なのか?」と不安がたえないのは、例によってかんがえ方をおしえないで、方法ばかりをおしえないか?ということだ。

最高難易度の数学とは、じっさいには「微分・積分」をいう。
日本における伝統的な数学教育も、計算方法に重心をおくから、生徒にはなにを学んでいるのかがわからなくなって、無味乾燥な授業の強制にふつうは耐えられない。それで「普通科」というのか?

数学をむずかしくさせているのは、表記として簡潔さを追求したはずの「記号」が悪役になっている。
しかし、よくよくかんがえれば、数学における数式は世界共通の表現方法だから、じつは英語よりも強力な世界「言語」なのである。

「微分・積分」は、おどろくほどの応用がされていて、「予測」にもひつようだから、「統計学」とならんで、マーケティングなど、文系ビジネスマンにこそ、しらないではすまされないことになっている。
もちろん、計算はいまどき数千円の関数電卓やパソコンがやってくれるから、なにがって、かんがえ方の理解がいちばん重要なのだ。

ここでも、元予備校講師の著作がやくにたつ。
左側は半日もかからないで読みおわるけど、イメージがわかれば最初の一歩としては十分だ。
あくまで、「言語」における「文法解説」だとして読まれたい。

なお、右側はまだ出版されていないから、「予約」あつかいである。
ユーチューブに「ヨビノリ」(予備校のノリ)で動画をあげている博士課程東大院生によるわかりやすい授業は、15万人がチャンネル登録している。

大学で理系の学生のおおくがついていけなくなる数学・物理・化学は、やはり「おしえ方の問題」だとズバリ指摘している。かれの主張が、ただしいのは、かれの授業がわかりやすいからである。

大学教授にして、おしえ方のプロはすくないのだ。つまり、ほんとうは理解できていないひとが、「研究が主体」だといいわけして教授職におおぜいいるという意味でもある。

 

「十七条の憲法」だって?

さいきんは「聖徳太子」といってはいけなくて、「厩戸皇子」といわないと歴史のテストで減点される。
亡くなってからおくられる「諱(いみな)」が「聖徳太子」だから、生きているときの業績をいうなら「厩戸皇子」でないといけないということらしい。

日本の歴史学会というのは、なにかあやしい。
では、なんのために「諱」をおくるのか?
後世の人びとに、その人物の功績をつたえるためではないか?
ならば、諱をつかってなにがいけないのか?

明治天皇も、大正天皇も昭和天皇も、諱である。
昭和時代の昭和天皇をふりかえって、裕仁天皇と呼べとでもいうのだろうか?

今月4日、元号「令和」を考案した国文学者の中西進氏が講演で、令和の「和」が、十七条の憲法における「和を以て貴しとなす」の「和」だとして、この憲法の趣旨を現在の宰相にも求める、と発言したことが新聞記事になっていた。

国文学者の自由な発言をさまたげるものではないが、このひとはたいへんな勘違いをしていないか?
そうおもうと、まことに残念である。
ゴールデンウィークの「憲法記念日」にちなんで、書いておこうとおもう。

日本語の表記として「憲法」とあるから、よくよく混同されているが、飛鳥時代の「憲法」と、近代国家の「憲法」は、まったくの別物である。

わが国の歴史では、11世紀末の白河上皇の院政までをもって「古代」とするから、聖徳太子=厩戸皇子のいきた飛鳥時代は、まちがいなく「古代」になる。

ちなみに、大化の改新は、太子死後のできごとで、中央政府に権力を集中させるための「改新」であるし、その後の壬申の乱は、天智系と天武系の系統争いとなる古代最大の内乱だった。

一般に、「十七条の憲法」は、じゅうななじょうのけんぽう、とか、じゅうしちじょうのけんぽう、と読まれているが、当時の大和言葉では「じゅうしちじょうの『いつくしきのり』」という。
つまりそもそもが、けんぽう、とは読まない。

こんなことを、国文学者の中西進氏がしらないはずはないから、彼の発言は、そうおうに政治的である。
つまり、「わざと」だろう。

いうまでもないが、近代民主国家の憲法とは、国民主権という概念が中心にある。「民主」だから国「民主」権なのだ。
古代の「いつくしきのり」にある、十七の条文に、国民主権の概念などあろうはずがない。

つまり、穿った見方をすれば、中西氏は国民主権よりも、「和」という概念を優先させろという主張にもきこえるから、じつはたいへん危険なことをいっているのだ。
すなわち、「和」を優先させるなら、独裁者でもいいと。

ここに、この記事をのせた新聞社の「偽善」もみてとれる。
ほんとうに、日本を代表すると自認している新聞社が、この程度の「政権批判」でも、政権批判ならなんでも掲載するというだけでいいのか?
昨今の部数激減の意味が、よくわかるというものだ。

いわゆる「護憲派」というひとたちの、絶望的な薄っぺらさがみえてくるのである。
それは、利敵行為そのものだからだ。
誤解がないようにいえば、わたしは安倍政権を支持してはいないけれど、だ。

永世中立がゆらいだからか、スイスの仕組みが日本でいわれなくなった。
56年前の1963年に、スイス連邦法で、個人宅に核シェルターの設置が義務づけられたので、スイスにおける核シェルターの人口あたり普及率はすでに100%を達成している。

世界ではもう一カ国、イスラエルが100%を達成している。
ちなみに、わが国は0.02%だという。

この法律ができたとき、キューバ危機という大問題があったのだが、スイスを取り囲む周辺国のひとびとは、眉をひそめたものだった。
自分たちだけが生きのこればいい、というかんがえはいかがかと。

そんなわけで、いがいにもスイスはヨーロッパの「嫌われ者」なのである。
「合理的すぎる」、「すべてに計算をしている」ということが、人生は楽しむべきで人間らしくない、というのは隣国イタリア人の弁である。

一国だけでも生きのこる、このスイスの覚悟の真逆がわが国である。

それは、憲法前文にある、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」にあるとおり、他人まかせを決めたからだ。

だから、日米安全保障条約は、この前文を書いた時点で憲法の趣旨どおりになっている。
むしろ、アメリカによる「片務的」な日本防衛こそが、憲法のねらいなのであって、それが「属国」といわれようが「決意」したことだ、とかいてある。

トランプ大統領が、ならばカネを出せ、というのは、「片務的」だからこそだと主張しなければならないのがわが国の立場であるから、「相互的」になってはいけない。
これが、野党のいう「集団的自衛権」の問題だろう。

ならば、護憲派はアメリカではない国に「片務的」に防衛をお願いしたいとかんがえるひとたちだと定義すれば、素直だろう。
「九条」ではなく、「前文」をまもっているからで、だったら、もっと素直に「親中国追従」「親北追従」と自称したほうがいさぎよい。

拉致問題を独立国として解決できないのも、この他人まかせの決意によるからだ。
すると、わが国はほんとうに「独立国」なのか?
おそらく、リヒテンシュタインのような「独立国」なのだろう。

けれども、世界第三位の経済大国で、歴史上アメリカと宣戦布告をともなうサシの戦争をした唯一の外国であるわが国が、かってに「他人依存」を決めたのだといっても、世界の常識からかけはなれてしまった概念だからだれも信じない。

それにしても、よく読めば、この前文は、「和を以て貴しとなす」そのものではないか?
すると、日本人は、外国人にも「和を以て貴しとなす」を強要しているのだとわかる。

この「独善」は、ある種、傲慢でもある。

なるほど、スイスとは真逆に周辺国から尊敬もされず嫌われる理由だろう。

怒りの「フォニックス」

英語ができない。

ところが,この「できない」ということの意味には、あんがい幅がある。
学校の試験が「できない」のも、会話で「話せない」のも、読んで「訳せない」のも、手紙やメールが「書けない」のも、みんな「できない」というからだ。

おおくの日本人のばあい、英語とであうのは中学校にはいってからだったので、さいしょにくる「できない」は、試験ができない、である。
それから、高校にいけば、もっと「できない」になって、大学受験という試練まで、「できない」がつづく。

ちゃんとした大学にいけば、「できない」をなんとかするひともいるが、リゾート化した環境にながされれば、「できない」ままで就職する。
そんなわけで、試験が「できない」からはじまる悲劇は、とうとう一生にわたるようになっている。

「無惨」である。

この無惨は、本人がいけないからなのだろうか?
いや、このブログでなんども書いたが、なんといってもまずは「教授法」がなっていないのである。

だから、教授法の無惨、とちゃんと書いて表現しなければならない。

しかし、一方で、教授法が無惨になったおおきな理由もある。
それが、「試験」だ。
つまり、生徒の理解度の順位をきめて、最後は受験の進路指導をしなければならないから、英語ができなくても「試験」ができればいいのだという「倒錯」が生まれたことが原因だ。

しかも、その設問は、日本語思考をしたときに混乱するであろうことに集中するので、ネイティブが解けない、設問の意味がわからないという笑えないはなしになっている。

明治政府が採用した「高等文官試験」という制度は、わが国の歴史上はじめて採用された「中国式」の「科挙」であった。
わが朝廷の公家文化でも、武士社会でも「科挙」はいちども採用されたことがなかった。

国家優先の開発独裁を実行し、「富国強兵」を実現するには、明治政府に賛同する武士階級だけではたりないから、科挙を実施したのだ。

もうそんな時代はとっくにおわったのだから、政権に貢献したひとを「猟官制」で高官として採用すればよい。
どんなに役所の実務経験がなくても、だれにでもできる、のが行政の本質であるし、だれにでもできなければおかしい。

決めるのは、選挙でえらばれた「首長」と、「議員」であって、行政の役人とは、その決まったことを粛々と実行するひとだからだ。
こんなことをしたらどうだ?という「企画」を、役人にやらせるからおかしくなるのであって、それは「首長」と「議員」の怠慢にほかならない。

だから、そんなことをしたら、役所の機能がうしなわれて、国も地方もたいへんなことに、はならない。
そもそも、どーでもいいことを難しそうにやっているふりをしているのが役人だからだ。

むしろ、国民や住民の「依存ではない」こまったが、AIを応用した役所に変換させるエネルギーになれば、みんなハッピーになるのである。
勉強ができて優秀な人材は、なるべく民間企業に就職させるように仕向けるのが、働きかた改革の本筋である。

もう十年以上前に、とある地方の「市」で、ちいさな事件があった。
この市では、中学校の英語の補助教員として、外国人を採用していた。
事件とは、その外国人の排除運動のことである。
ようは、辞めさせろ、というはなしだ。

要求したのは生徒の親であった。
その理由は、この外国人の英語の発音が「変だ」と、生徒であるじぶんの子どもがうったえたということだった。
この親は、じぶんの子どもを駅前の大手英語教室にかよわせていて、その教室の先生とぜんぜん発音がちがう、ということだったのだ。

役所である当地の教育委員会は、けっきょくこの親子の意見をとりいれて、当該の外国人補助教員を解雇した。
もちろん、親がうまく周辺の親たちをとりこんで、署名活動までして多勢になったことが、役人の責任逃れに火をつけただけだ。

解雇要求は、日本ではまず「辞職勧告」となる。
それで、この人物は、本来の日本留学先であった地元にあるわが国を代表する難関有名大学の教授に相談したのだ。

おどろいたのは相談を受けた教授で、本人のオックスフォード大学における「英語学」での学位についてやその他の研究成果を記述した書簡を、市の教育委員会におくったが、役人たちは無視したという。

このひとの英語は、完璧な「キングズ・イングリッシュ」で、駅前の英語教室の講師は豪州人だったという。
ここで、問題のおおもとが「発音」だったことに注目してほしい。
なお、豪州人の発音について、欧米人のイメージがわかるのは下の人気映画だった。

 

じぶんの英語がダメだと生まれてはじめて日本人に指摘されたこの人物は、辞任後に「日本でいい体験をした」と述べて英国に帰国したという。
それは、「英語無知」という体験が、まさか先進国の日本で確認できるとは夢にもおもわなかったからだと。

松香洋子『フォニックスってなんですか?』(mpi、2008年)の冒頭に、著者が体験した「怒り」の物語がある。
著者は、日本におけるフォニックス普及と教育の第一人者だ。

「公共の学校」と、彼女が主宰する「民間の学校」の役割を明確に区別しているから、立派なひとにちがいない。
それでも、一部の公共の小学校や中学校の授業に、彼女のメソッドが導入されているらしいから、ご同慶に堪えない。

わたしのような英語被害者が、少しでも減ることは、将来の日本人が幸せになるための条件でもある。

しかし、彼女のメソッドのインストラクターを、公共の教師がちゃんと受講しているかわからないから、やっぱり公共の学校だけに任せると、英語被害者が量産されつづけるにちがいない。
なんにせよ、親の「英語無知」が心配だ。

学研の『ジュニア・アンカー英和辞典』にも、フォニックスの解説はあるし、英語教育学会の異端児だった、若林俊輔編『ヴィスタ英和辞典』(三省堂、1998年)には、フォニックスとは明記せずに解説が載っているものの、編者の他界で初版にて絶版になっている。

 

試験でなくて、英語ができるようになりたいなら、上記の辞書だけでなく、CD付の第一人者の本は手にして損はないはずである。
別途、専用の音が出るペン(イヤホンもつかえる)もあるから、おとなだってひそかに練習できる。
発音と綴り方の「法則」がわかって、目から鱗が落ちること、確実である。