チャンスは一回だけの無情

受験シーズンである。
大雪などの天候で、人生が左右されることもある。
それで、なにか改善があったかというと、みごとになにもない。
せいぜい、試験開始時間がくり上がる程度で、あとは自己責任とされる制度になっている。

「受験戦争」といわれてこのかた、「受験制度」は受験に「とおったひとたち」がつくっている。
受験にとおらなかったひとは、ひとまず無視される「制度」だから、改善のポイントがかたよることになるけれど、おとなになれば自分が受けるものではないから、関心はうすい。

「制度」というものは「形式的」なものであるから、形式で比較する、ということができる。
しかし、その「形式」が、どうしてその「形式」になったか?ということまでかんがえると、あんがいやっかいな事情がでてくるものだ。
それを、ふつう「歴史」という。

卒業と入学の季節が春なのか秋なのか?
これだけでも、世界標準の「秋」とちがうのがわが国で、「秋」にしようとはする動きがあるけれど、いっこうにそうはならない。

大学受験のための「資格」は、わが国にはふたつある。
「高等学校卒業資格」と「高等学校卒業程度認定試験」(旧大学入学資格検定:大検)だ。
いわゆる、「高卒」と、「高認」という。
「高卒」は、履歴書の学歴に「高卒」と書けるが、「高認」は学歴的には「中卒」となる。

しかし、学歴がどうでもいい世界が「官」にはあって、浪人や留年なく大学在学中の3年生までに「国家公務員一種(上級)試験」を合格してどこかの省庁に入省すれば、「高卒」だけど「トップ入省」と認められる。入省が一日でもはやければ、生涯追い越せない「先輩」になるのだ。
だから、一生懸命勉強して、博士号などを取得してからの合格者は、「うとい」としてバカにされる世界である。彼らは「研修期間」中に外国留学も国費でまかなわれ、修士号や博士号を取得するからだ。

若者の数が減って、これから若年者にとっての雇用需要は増加するとかんがえられるから、採用をかんがえる企業にとって、この「資格」問題は、従来とは逆の採用者側にとってハードルの設定にもなる。
はたらきながらの「高卒」資格は、むかしだったら定時制だったが、いまでは「通信制」もある。
「高認」試験は、年二回、8月と11月に実施される。

しかし、供給がすくないのに需要がたかまるのだから、若者の採用には企業間での競争が発生する。
そこで、「高卒」や「高認」の勉強をどのくらい支援して、企業が結果にコミットする、ことも選ばれることの条件になるかもしれない。
つまり、この支援のためのみえにくいコストが、採用経費になってくるというハードルだ。

「高卒」、「高認」、どちらにせよ、本番の大学受験は、やっぱり一発勝負になるのが、わが国の無情であって、しかも、併願すれば受験料がばかにならない金額になる。

文科省という行政の役所が、許認可権を独占し、政治をもって認可させようとした獣医学部を、獣医業界からのはたらきかけでこれを阻止し、「政治の理不尽な介入だ」と反発したのが、なぜか政治の問題にされる国になっている。
行政府を監督指導するのが、選挙でえらばれた政治家の仕事でもあることを、なんと否定してしまうことになるのに、だ。

その役所が、権限を拡大するほど、天下り先がふえるという法則ができて、とうとう自分のこどもをムリクリ入学させるという問題まで発覚した。
これを許した大学は、拒否するとどんな報復があるかしれないから、もはや脅迫であったろう。
本人が退職しようが、制度はのこる。

東京の一極集中はいけないから、東京の大学をムリクリ郊外に移転させる「政策」は、政治家の発案ではなく、役人の勝手な判断だ。
こうして、助成金をやるかわりにいうことを聞けという手法がまかり通るから、大学が自主判断できるすくない分野の「受験料」が値上がりするのである。

これとても、役人のたなごころの上で踊らされている。
こうして、受験生のためでもなんでもなく、役人が肥えるために利用されている。
すなわち、だれのためか?という「マーケットイン」の思想が皆無なのが、日本の教育制度になってしまった。

「教育の荒廃」という問題を、文科省になんとかせよというのは,泥棒にもっとやれというようのもので、まったくの筋違いである。
さいしょに、文科省を廃止すべきなのだ。

80年代、英米両国は、日本に対抗するため日本を研究し、日本の初等教育制度をずいぶんまねたが、その時期、あろうことか日本の文部省は、手に負えなくすさんだ英米の教育制度を輸入してそのまま導入したのが、「ゆとり教育」という自殺であった。

欧米のやり方がすべて正しいとはいわないが、かれらの大学受験方式は、たいがいが「受験資格試験」の点数と、学校や地域生活での活動内容、そして、志望動機や自分の将来像を手紙に書いて学校に送付すると、合否の通知がやってくるようになっている。

そして、「受験資格試験」の受験料は数千円で、しかも何回も受験でき、そのうちの最高成績の点数を記載すればよい。
さらに、大学によっては「点数」よりも、別の項目が重視されることがあるのは、「のびしろ」をみているのである。

「教育機関」として大学をみれば、卒業時のレベルが重要なのであって、入学時のレベルではない。
「やる気」という「のびしろ」があれば、入学させても学校に損はない。
なぜなら、欧米の私立大学は、わが国の数倍どころではない授業料が請求されるからだ。
ちなみに、アメリカには連邦設立の「国立大学」は存在しない。

日本にはない、欧米のやり方で、幹部社員や幹部社員候補の人材を採用するばあいには、かならずトップによる面接がある。
社長面接のことだ。

「企業はひとだ」という社長は、日本にもたくさんいるが、面接すらしないで人事に丸投げの会社はおおい。
こういう会社に、へりくだって入社しても、たいした人生にはならないとかんがえるのが妥当である。

おそらく、一回だけのチャンスをものにしたことだけが人生のよりどころのひとたちがトップの経営者になっているのだ。

その程度では、21世紀は生きていけない。

うれしくても踊れない

人間という動物は、動物性の台木に人間性の芽をつぎ木したもの、と岡潔は定義した。
だから、動物であることがベースにあると強調している意味でもある。

感情がゆたかな身近な動物は、高等動物の犬がいる。
動物には下等動物から高等動物まで、それぞれの区分がある。
脊椎動物が、高等動物の区分になって、そのなかに哺乳類、なかでも霊長類が君臨するという構造になっている。

脊椎動物のなかで下等なのは、魚で、それから両生類と、だんだん陸上にあがってくる。
進化の歴史と「高等」さの分類がリンクしているのは、必然である。
金魚だって、エサを与えるときにはうれしそうだし、エサを与えるそぶりをしても、こちらに寄ってくる。

犬の感情は、人間の感情を見ぬくというレベルまで発達していて、人間が悲しい感情でいると、犬も悲しくなるようだ。
それで、主人によくなついている犬は、ときによって主人の悲しみを慰めるような行動をとる。
万年単位でのおつき合いが、とうとう犬のDNAに変化をもたらしたのだろう。

感情の起伏というものはだれにだってある。
嬉しいときには喜々とした笑顔になるし、悲しいときにはうつむくものだ。
それでは、ものすごく嬉しいときにはどうするのか?
おもわず飛び跳ねたりする。

古代ギリシャを代表する物理学者といえば、アルキメデスだろう。
自分のなまえがついた、原理、すなわち「アルキメデスの原理」を発見したとき、かれは風呂にはいっていた。
湯をはった桶に自分の体をつけると、水位があがるのをみて「ひらめいた」という逸話で、「ユリーカ(わかった)!」といって、そのまま裸で走りだしたという。

これは、後世のつくりばなしも混じっているが、とにかく「ひらめいた」ことはたしかで、裸で走りだしたのもたしかとされる。
けれども、叫んだのは当時のギリシャ語だったはずだから、英語的に変化した「ユリーカ」ではないはずだ。

ちなみに、「テルマエ・ロマエ」で有名になった入浴の風習として、湯船に湯をはりそれに浸かる、というのは、古代ギリシャとブータン、それにわが国しかないという不思議がある。
ギリシャの風習はその後ローマ帝国につたわったが、ローマ風呂は基本的に「蒸し風呂」であったのはトルコもおなじで、なぜかまた江戸市中の「浮世風呂(基本蒸し風呂)」につうじる。

アルキメデスはあたかも、異常な行動をしたのだが、本人には至ってシンプルな「よろこび」しかなかったはずだ。
それというのも、岡がみずからの数学的発見をしたときの逸話で、アルキメデスの行動に深い理解をしめしている。

これとはレベルがちがいすぎるけれども、わたしも仕事で「ひらめいた」ことは何度も経験した。
このときの自分は、ずいぶん悩んでいて、どうしたら業務改善できるのか?それはどんな方法か?をずっとかんがえていた,という点では似ている。
夢にもでてくるから、枕元にメモ帳をかならず置いていた。

夢のなかで解決策がみつかったのに、朝になって肝心のひらめきをすっかりわすれていて、よろこんでいた場面しか思い出せないことが何度かあったからである。
メモを置いたら、それがおおいに役だったのだ。
しかし、家内には、そこまでやるの?と若干気持ち悪がられた。

アルキメデスや岡といった偉人ではないが、かれらがいうことはつたないわたしの経験からも理解できる。
ずっとかんがえていて、それがけっこう「頭の奥の方まで」に染み渡ったかんじになると、ふと、思考がとぎれたときや、なにかのきっかけ、しかも睡眠中でも突然「ひらめく」のである。

散歩中に「ひらめく」こともおおいので、ICレコーダーを持ち歩いたりしたことがあるが、いまではスマホアプリで音声を文章に自動転換する。だれかと通話しているようにみえるだろうが、ひとりごとである。
散歩途中の喫茶店で、アイデアをふくらませることもあるが、そのまま文章化してしまうことがふえた。

しかしながら、我を忘れて小躍りしてしまうことはめったにない。
「情緒の中心」が弱くなっているのだろうかとおもうことがある。
これは、もしや現代日本人に共通しているかもしれない。

映画『ALWAYS 三丁目の夕日』に、休日最強の娯楽だった映画館のシーンで、裕次郎の『嵐を呼ぶ男』が上映されていて、若い観客がいまのライブ・コンサートのように一緒に踊っているすがたがあった。

街をあるいていても、見知らぬ人が子連れの母親におかまいなく、こどもをあやしていたりもした。
いまなら、不審者になりかねない。

世界で大ヒット中のクイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』は、日本ではどうか?
もちろん、大ヒットで、三回も四回も観たひとがいると聞くが、画面といっしょに盛り上がっている様子はない。

日本人の情緒が衰退しているのだとかんがえれば、妙に説得力があるのである。
それは、個人が「アトム化」(原子化)しているのだとも解釈でき、ジャン・ジャック・ルソーのいう『人間不平等起源論』になって、どんどん「革命」へと接近する。

「情緒」をうしなうと、革命の野獣と化してしまう。
かくもおそろしいものなのだ。

嬉しいときにはもっと小躍りして恥ずかしくないのがいい。
「シラケ」たニヒリズムは、情緒の邪魔である。

ただしき「情緒」の育成

数学者は論理的ではない、という議論のつづきである。
今日は、「情緒」の「価値」を深掘りすることがテーマだ。

情緒を最重要としたのは、前回も紹介した、二十世紀わが国を代表する数学者だった岡潔だ。
言わずと知れた1960年の文化勲章受章者である。
岡潔は、物理学者をして名随筆家だった寺田寅彦をいたく尊敬しながら、みずからも名随筆家であった。

このほかに、寺田寅彦の作品は、いまでは電子書籍ならかなりのものが無料化されているから、まったくいい時代になったものだ。
前回紹介した以外に、岡潔の随筆はまだある。
本格的な春にはまだ早いが、こころがポカポカとするから、いつでも読んでいいとおもう。

この本に、情緒の教育が書かれているから、藤原正彦氏の主張は、これを読めばわかる。
そういう意味で,藤原氏は数学の系統ではなく「情緒」の系統として、寺田寅彦-岡潔のながれをくむのだろう。
それは、古きよき日本人のすがたでもある。

ノスタルディックに「情緒」をどのように取り戻すのかをかんがえても、うまくいかない。
いったん失われた教育の修正には、その教育をうけた世代をあきらめて、次の世代に注入しなければならないから時間がかかる、と岡はいう。

「あきらめる」というのは,残念だが「切り捨てる」という意味だ。
すると、年功序列を否定する社会環境が重要になる。
あとから修正された教育をうけた世代が、残念な教育をうけた世代を飛び越えて社会の指導者にならなければならないからだ。

年長者を敬う、という文化の一時的なモラトリアムが必要になる。
これは、いったん日本的伝統秩序の破壊のようにみえるが、そうではない。
なぜなら、年長者ならだれでも後輩から無条件に敬われる、ということは思考停止だから、敬われるべきひとが年長者におおい、ということであればよいからだ。

ぎゃくにいえば、若年者であっても、立派なひとは年齢にかかわらず社会から敬われるということでもあるから、フェアなのだ。
ただ年齢をもって、中身をみずにフィルターをかけて「若輩者」ときめつけるほうが卑怯な社会である。

さて、『春宵十話』の冒頭に、教育、とくに幼児教育や義務教育について書かれている。
ちなみに、この本は文化勲章3年後の1963年の毎日出版文化賞だ。
このなかで岡は、「人」を抜きにした教育を批判しているのだ。
「人」に対する知識の不足を、こどもの教育にないと嘆いている。

まさに、本末転倒という指摘である。
「人は動物だが、単なる動物ではなく、渋柿の台木に甘柿の芽をついだようなもの、つまり動物性の台木に人間性の芽をつぎ木したものといえる。それを、芽なら何でもよい、早く育ちさえすればよいと思って育てているのがいまの教育ではあるまいか。」
「すべて成熟は早すぎるよりも遅すぎる方がよい。これが教育というものの根本原則だとおもう。」

そして、人たるゆえんについては、
「一にこれは思いやりの感情にあると思う。」
「いま、たくましさはわかっても、人の心のかなしみがわかる青年がどれだけあるだろうか。人の心を知らなければ、物事をやる場合、緻密さがなく粗雑になる。粗雑というのは対象をちっとも見ないで観念的にものをいっているだけということ、つまり対象への細かい心くばりがないということだから、緻密さが欠けるのはいっさいのものが欠けることにほかならない。」

これは、たいへんな指摘である。
たんに、心理学をいっているのではない。
すなわち、「情緒」である。
だから、「情緒が頭をつくる」と稀代の数学者は断言する。

「頭で学問をするものだという一般の観念に対して、私は本当は情緒が中心になっているといいたい。」
「単に情操教育が大切だとかいったことではなく、(中略)情緒の中心が実在することがわかると、劣等生というものはこの中心がうまくいってない者のことだから、ちょっとした気の持ちよう、教師の側からいえば気の持たせ方が大切だとわかる。」

「(副交感神経が)活動しているのは、遊びに没頭するとか、何かに熱中しているときである。やらせるのではなく、自分で熱中するというのが大切なことなので、これは学校で機縁は作れても、それ以上のことは学校ではできない。(中略)こうしたことが忘れられているのは、やはり人の中心が情緒にあるというのを知らないからだと思う。」

その気にさせるのは、陽明学の得意とするところである。
「情緒の中心が実在する」とは、最新の脳科学が解明しはじめていることだ。
そして、副交感神経の興奮をうながすことが、じつは情緒の中心を鍛えるのである。

さいきん、脳にダメージをあたえる「ミネラル不足」の指摘があるのは、食品栄養成分からおどろくほどのミネラルが欠乏しているからだ。
キレる子どもにミネラル強化療法をほどこすと、症状が改善されるのは、半世紀前に大数学者が指摘したはなしと合致する。

やっぱり、数学者は論理的なのだ。
むしろ、それを変人とする社会に論理が通じない。

ビジネスも論理である。

論理的ではない数学者

『国家の品格』で有名な、お茶の水女子大学でながく数学の教鞭をとってこられた、藤原正彦氏(いまは同大学名誉教授)の講演を聴いてきた。
冒頭、「数学者は論理的ではない」という「論理」を展開されていた。
ふつう、論理の修得には数学が重要視されるから、聞き手に「おや?」とおもわせる「掴み」なのだろう。

また、氏は「新自由主義=グローバリズム」と定義されて、いまの日本経済や世界経済を批判的に論じているが、これはたしかに定義自体が「論理的ではない」から、「氏=数学者」と限定すれば、数学者は論理的ではない、と証明できる。
しかし、数学者は氏以外にもたくさんいるので、数学者は論理的ではないときめつけることは、わたしにはできない。

新自由主義が、どうしてこの国で忌み嫌われるのか?
むしろ、この国で愛されるのが社会主義であることをおもえば、こたえはむずかしくない。

富の集中と分配をどうすれば適正化できるのか?
これを数学的な計算にもとづいて計画しようとすれば、それは、社会主義計画経済になる。
社会主義計画経済は、ソ連の実験で破たんした事実があるけれども、これをソ連成立の「前に」、数学的に成立しないことを証明したのは、ミーゼスであった。

だから、ソ連での実験は、ミーゼスの証明を70年かけた事実でもってした証明にすぎないのだが、いまだにソ連のやり方が下手だったのだという「論理」をかかげるひとびとがいるのは承知のとおりだ。

こうしたトンチンカンな論理的結論がでる理由を藤原正彦氏は、まちがった「情緒」だという。
なるほど、感情的になれば、論理などふきとんでしまう。
しかし,それはただの「感情論」ではなく、論理を構成する「出発点」の設定をまちがえるからだと説明するのは、たいへん論理的だ。

たとえば、A点とB点を結ぶ直線は一本しかない、のはユークリッド幾何学の基本中の基本だ。
線分の出発点AからBを目指すとどんな線が描けるのか?
ひとは、その線の結果のすがたをみたがるものだ。
そして、ゴールであるB点に注目する。

けれども、もっとも重要なのは、出発点Aをどこにするのか?という選択で、あとは決まってしまうものだ。
これを、論理にあてはめれば、その論理の出発点をどこに設定するのかがまちがっていれば、論理的に展開させればさせるほど、結論となるこたえはあさっての方向になる。

そこで、出発点をただしく設定する能力こそ、ただしき「情緒」ということなのだ。
数学者のことばから「情緒」というと、わたしは岡潔『情緒と日本人』、『情緒と創造』をおもいだす。

 

「情緒」の源泉はなにか?と問えば、言語、とくに母国語になる。
日本人なら日本語が情緒のみなもとである。
人間は思考する動物であるが、この思考を支配するのが「ことば」だからである。

だから、ただしい日本語がただしい人格を形成するのだ、という教育論になる。
70年代にいわれた、「ことばのみだれ」は、すなわち「社会のみだれ」という論理の出発点だ。
それで、小中学校における「国語」教育の重要性が訴求される理由になっている。

日本語の話者、すなわち日本人が、世界的にみて外国語習得が不得手な集団であることは、言わずもがなではあるけれど、それが「国語教育」に原因があるという説がある。
小中学校でまなぶ、国語文法の目的は、高校でまなぶ古典理解のための基礎、という位置づけであるということから、これを「学校文法」とよんでいる。

外国人の日本語学習者がつかう教科書は、「日本語文法」と表記されていて、「国語文法」と書かないのは、日本語が外国人には「国語」ではないから、という理由ではなく、「日本語文法」と「国語文法=学校文法」がまったくの「別物」だからである。
さいきんは、「国語」のことを「日本語」とわざわざ言い換えて、このちがいを混同しているひとがいるのは、「情緒」の問題なのだろうか?

そのちがいとは、「日本語文法」は諸国語と比較できるように整理されている文法で、日本語を外国語とおなじ位置づけにしているが、「学校文法」は日本語の独自世界にとどまっているということなのだ。

国語教師は「国文科」卒、英語教師は「英文科」卒がふつうだから、このクロスオーバーは、ない。
だから、国語教師は英語との比較をおしえないし、英語教師も国語との比較をおしえることができない。

「日本語文法」を外国語をまなぶ直前の時点で学習することが、じつは修得の秘訣なのだと、外国人向け日本語教育の専門家が耳打ちしてくれた。
反グローバル化、はこんなところにもある。

さてそれで、藤原先生の主張は、価値論へとつづく。
それは、次回に書こうとおもう。

帽子をかぶらない有名コックたち

ずいぶん前から違和感があった。
テレビの「ご長寿有名料理番組」がはじまりだった記憶がある。
講師役のシェフが、帽子をかぶっていなかった。
いや、むしろ、帽子をかぶっていないプロの料理人をはじめて観た、といったほうがよい。

これが放送局へどのくらいの苦情電話になったのか?わたしには知る由もない。
放送局は、苦情電話などの報告番組をうそいつわりなく定期的に放送すべきだ。

むかし、帝国ホテルの総料理長だった村上信夫氏が講師をしていたとき、料理の途中で味見をするのに、鍋に直接指を入れてそれを舐め、満面の笑みで「グッドですね!」といって指でOKマークをつくったら、とてつもない数の苦情があった。
味見は小皿をつかってするものだ、と。

それから、テレビ出演だけでなく、ホテルの調理場でも、味見には小皿をかならずつかっていたのを目撃したことがある。
謙虚さが、この偉大な料理人にはあったのだ。
帽子をかぶらない姿をみるのは出退勤時と事務所だけで、現場ではかならずかぶっていた。

だから、帽子を料理人がかぶらないで、テレビに出演するのにたいへんな違和感があったのだ。
インタビュー番組なら、帽子をとってよこにおいてもいい。
しかし、料理をしてみせる、という行為でこれをしないのはどういう魂胆なのか?
また、それをよしとした放送局は、もしや演出として要求したのか?

それからだとおもうが、帽子をかぶらない料理人がふえた。
それは、本場フランスでもそうで、コック服は着ていてもコック帽をかぶらないで撮影に応じ、じっさいに料理をしている場面がふつうになってきた。

こういうことは、伝染するのか、見習いでも帽子をかぶらないでいるから、職場全体に蔓延しているのも画像でわかる。
それを、国を超えてわれわれも観ているのだから、これを気にもしないシェフとはなにものか?

なぜ料理人が帽子をかぶるのか?は、日本人だったら給食当番をやるから小学生でもしっている。
髪の毛その他が、混入しないようにするためである。
その他には、ゴミや汗などがふくまれる。

火をあつかう厨房内はあたりまえに気温が高いだけでなく、蒸気によって湿度も高い。現場のコックは厳しい環境下での重労働をしているのだ。
それで、厨房全体にエアコンをきかせるのは効率がわるいから、煙突のようなパイプで、とくに過酷な場所をスポットで冷房する方法がとられているのが一般的だ。
だから、じっさいにエアコンは、ほとんど気休め程度でしかないのである。

とある会社からレストラン事業の委託をうけて、料理人とサービス要員を配置した。
建物が、当初の設計上、そこに調理場を想定していなかったので、配管をするために床を上げることになった。
すると、身長があるシェフの長い帽子が天井にあたる。

このため、そのひとは、ひとり帽子をしないで仕事をしていた。
それで、事情を確認して、食品工場のように、野球帽の形をしていて、耳までカバーするタイプの帽子を着用するようにお願いした。
店内にでてお客様に挨拶をするときには、シェフ用の長い帽子をかぶるようにした。

このシェフも一瞬身を固めた。
あとで、帽子をかぶらない自分は特別なのだ、という感情があったときいた。
しかし、プロを標榜するなら、他人に見えない厨房という職場で、食品工場として頭部を完全にカバーする業務用の帽子が望ましいとして、これを職場全体のユニフォームにした。

衛生環境も料理とおなじで、つくるもの、なのだ。
こうして、ふつうより不格好にみえるかもしれないが、これが日常になるとだれも気にしないばかりか、他に衛生上の問題はないかと気にかかるようになる。
このレストランは、表向きも高級店だったが、それは料理だけでなく、店舗の裏の厨房の衛生も高級だった。

星がいくつあるかで価値をきめるなら、それはそれで個人の自由である。
フランスの有名タイヤメーカーが、レストランのガイドをつくったのは、そこまで自動車で移動してくれればタイヤが減って、交換需要があると見込んだからである。
だから、本来はドライブガイドだった。

それがレストランガイドとして独立して発展したのだ。
けれども、ほんらいの「タイヤが減る」ことを望んでいることはまちがいない。
タイヤメーカーだから、利害関係はうすい、として厳密な評価なのだという評判も、この会社が「つくった」ものだ。

コック帽には形こそいろいろあるのは、料理がいろいろあるからだ。
イギリスパンのような中華料理のコック帽、日本料理なら俳人がかぶる形で白い生地をつかう。
日本の家庭なら、三角巾。
髪の毛があって、汗をかくから、人類共通の機能性帽子になったのだ。

そういうわけで、わたしは、コック帽をかぶらないでテレビにでてくるようなひとの店にはいかない。
さいきん、パリのレストランの荒廃ぶりがつたわってきているのは、カット野菜や冷凍食材のつかいすぎということの前に、コック帽をかぶらなくてよい、という心の脇の甘さが原因ではないかとうたがっている。

プロとして、なにを優先させるのか?ができていないなら、料理の味にあらわれて当然なのである。

不気味なマスクの着用

風邪のシーズンだ。
インフルエンザは空気感染する伝染病だが、いわゆるふつうの風邪はじっさいに治す薬はない。
どちらも、ウイルスが原因の病気であるが、それぞれ種類がちがっている。
風邪ウイルスは、種類が豊富なのが特徴らしい。

ウイルスというのは,生物なのか生物ではないのか?
この議論は、生物の定義とはなにか?につながる。
つまり、生きていること、の定義だから、裏返せば、死んでいること、の定義にもなる。

ベストセラーになった、福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書、2007年)は、まさに「生命の神秘」が語られていた。
しかし、はなしはつづいて、中屋敷均『ウイルスは生きている』(講談社現代新書、2016年)がさらに奥深くわけいっている。

 

発表当初、噴飯物といわれた、「インフルエンザ・ウイルス宇宙飛来説」も、いまでは最先端で注目される研究分野になっている。
吉田たかよし『宇宙生物学で読み解く「人体」の不思議』(講談社現代新書、2013年)がある。

インフルエンザ・ウイルス宇宙飛来説は、シベリアにたくさんいる渡り鳥に入りこんで、それが「渡り」によって南にはこばれ、飛来した渡り鳥→鶏、鶏→豚、豚→人間という経路なのではないか?というはなしだった。
それで、パンデミックだった「スペイン風邪」も、温かい地方からはじまる、という説と一致する。

だったらスペインやラテン系の国々で、防御のためのマスク着用が風習になりそうなものだが、ぜんぜんなっていない。
ましてや、世界の常識からすれば、マスク着用という風習そのものがほとんどない。

話題のPM2.5という汚染物質によって、東アジアではマスク着用がはじまっている。
しかし、ちゃんと防御しようとしたら、簡易型のものでは効果がうすい。
マスクにも、基準となる規格があって、最高レベルは外科手術用になる。

しかし、マスクには、それ以外の効果があって、どちらかというとこちらの方が着用のインセンティブになっているのではないかとおもわれるのは、吐息からの湿度を得て喉を潤わせること、さらに、化粧なしのスッピンをカバーできることだ。

すなわち、じぶんの顔を隠すことができる、文字どおり「マスク」という機能がでてくる。

マスクを着用すると、別人格になれる。
あるいは、正体不明、になる.
それで、ヒーローたちもマスクをつけるのだ。

日本なら、「能」から郷土芸能まで、戦後は、「月光仮面」や「仮面の忍者 赤影」など、別人格になったり、「異能」さを仮面の着用が象徴する。
お祭りの夜店にある仮面も、「祭り」という非日常の境界に入りこむためのアイテムだったのではないか。

先日、男性の「髭」にかんする裁判での判決が大阪地裁であった。
かんたんにいえば、無精髭はいただけないが、現代的に整えている髭であれば自由、ということだ。
現代的とは、歴史上の武将や明治の元勲たちのようなデザインではない、ということ。

使用者が労働者に、「業務上の身だしなみ規定」を提示してこれを守らせることは合法である。
しかし、ベースには「個人の自由」があるということを失念してはいけない。
社会通念上のマナーやエチケットに合致していれば、命令やそれを理由とした本人に不利な人事評価をしてはならない、とかんがえればよい。

だから、身だしなみ規定を守らないひとには、早期に勧告して納得してもらうことが重要になる。
それで、もっとも効果があるのが、「採用条件」とする方法である。
採用決定前に、本人の了承を得るのである。
雇用契約の条件の一部にする。

わが国は一般的に、マスク着用が「異常」とはされない社会になっているが、だからといって、採用面接でマスク着用をしたまま、では不採用になってもしかたがない。

第一に、面接官という初対面のひとに自分を買ってもらうのが目的だから、自分をみせなくてはならないという目的に合致しない。
顔をださない、というのは、顔を隠す、ということだからである。
もちろん、挨拶としても、初対面でマスクを着用したままなら、マナー違反になる。

ということは、面接官側がマスクを着用したまま、というのもありえない。
面接者という応募者に、会社を代表して面接されるのも面接官だからである。
将来、もしかしたら同僚になるかもしれない面接官の顔が見えない会社に、就職をきめるのは勇気がいる。

およそ接客業で、マスク着用したまま、というのがゆるされるものか?など、ちょっと前ならかんがえる必要もなかっただろうが、いまはちゃんとかんがえておかないといけない。
医療機関や食品衛生では別だが、接客の最前線でのマスク着用は、ナンセンスなのである。
公共の交通機関の職員に、マスク着用を散見するが、「髭」よりよほど深刻な問題だ。

ウイルス対策なのであれば、会社はマスク着用を容認するより、機能性が認められている製品を支給してマスクにかえるべきである。

マスク着用の習慣がないおおくの国で、マスクを着用したまま、ホテルにチェックインしようとしたら、断られる可能性がふつうにある。場合によっては強制退去させられても文句はいえない。
理由はふたつ。
・顔を隠しているのは、「犯罪者」をうたがわれるからである。
・衛生のためならば、本人が「伝染病に罹患」しているとうたがわれるからである。

どちらも、日本の旅館業法でも数少ない宿泊拒否理由として合法だ。

よほどの事情がないかいかぎり、公共の場にマスク着用をしたままで出かけるのは、「不気味」なことなのだ、と認識したい。
外国人をあいてにする接客業なら、これは「基本」である。

接客サービス研修はムダである

新入社員や初心者ならまだしも,経験者に向けて「接客サービス研修」をおこなうのはムダである.

まず,あいてが経験者なら,「接客サービス研修の『やり方』」という研修でなければならないはずだ.
そして,その研修をする理由と効果を,あらかじめ決めておかなければならない.

「プロとして」なにもしらない新人や初心者を、「プロにする」のが接客サービス研修である。
だから、何時間でプロにする、という「きまり」がなければならない。
「する」のであって、「なる」のではない。
「なる」のは本人だが、「する」のは会社であるからだ。

ここが理解できていないサービス業の会社がなんとおおいことか。
新人や初心者をまともな研修もなく、いきなり現場配置して、いつまでたっても一人前にならないと嘆くのは、本人だけが努力さえすれば勝手に「プロになる」と決めているからである。
第三者からすれば、それは「筋違い」だといわれてもしかたがない。

何時間でプロにする、ということができる職場は、プロ意識で成立している。
どんなひとでも、ある一定の時間内でプロにする、とは、いったいどんな方法なのか?
合理的に組み立てられた「教育プログラム」が、事前にあってこそなのだ。
そして、それにしたがった教育指導をするひとが「いる」状態でなければできない。

コンビニや牛丼チェーンなどに、外国人労働者をよくみるようになった。
すでにこれらの業界では、外国人労働者なくして営業できない状態にまでなっている。
では、これらの業界に外国人労働者がおおい理由はなにか?
「単純労働だから」だけが理由ではない。

上述した教育プログラムと教育指導をするひとがいるからである。
ふつう、研修期間中の時給は最低額の設定であるから、はやく一人前になって時給が上がるのは、「稼ぎたい」外国人労働者の要求と合致する。
そして、現場をまかされるレベルになれば、深夜手当のつく勤務シフトにもはいれるのだ。

それに、コンビニや牛丼チェーンなどではたらくと、日本人の生活文化を垣間見ることができるのだ。
世界一といわれる日本のコンビニのサービスは、日本人には日常だが彼らには過剰だ。
しかし,「そこまでやる」を理解してはじめて、日本の生活文化が吸収できる。

そういうわけで、コンビニでのアルバイトは、外国人留学生にはとくに魅力的なのだ。
もちろん、就学ビザで入国した留学生が、アルバイトして生活費を稼げる、という国はめったにないから、制度としての問題はべつである。
おおくの国では、勉学だけしか入国目的にないから、就労の事実が発覚すれば国外退去処分になるのがふつうである。

これに、外国人労働者のかんがえる「労働の対価」とは、「職『務』給」のことだから、コンビニや牛丼チェーンの業務と報酬制度は、かれらのイメージに馴染めるのである。
日本的「職『能』給」は、かれらが理解しにくいから、給与体系の合理的説明をもとめられることになるが、この説明がこまったことに困難なのである。

人手不足を外国人労働者で埋め合わせようとしても、上述のポイントが満たされないと募集をしても応募がないか、採用後にトラブルことだろう。

外国人労働者を募集しなくても、サービスレベルをあげるためにおこなう「接客研修」のおおくはムダである。
サービスレベルをあげる、というのは、なにを指すのか不明なことがおおい。
しかも、対象者は新人や初心者ではなく、ベテランになる。

驚くべきことに、こうした研修をやりたがる企業ほど、自社の「事業コンセプト」をあらわしたものをもっていない。
だから、はなしがミクロに徹するしかない。
こうして、女将やらが要求する「あたらしいサービス」がくわわって、現場負担がふえるのだ。

そのふえた負担によって、単価はあがるのか?利益はふえるのか?それとも、従業員の賃金がふえるのか?
これらは、さいしょから意識されていないことがおおい。

こうなると、新人の研修もできず、ベテランの業務の目的も自己目的化して、とにかく「こなす」ことに集中する。
それで、「貧乏暇なし」のスパイラルに落ち込むのだ。

いったい、業界はいつまでこれをつづけるつもりなのか?

よろこんでムダをおこなって、業績があがるなら、だれも苦労はしない。
苦労の方向と方法がまちがっているのである。

外部経営環境の巨大さ

自社の経営戦略を構築するうえで必須の現状分析の手法のなかに、「外部経営環境」と「内部経営資源」の分析がある。

このうちの「外部経営環境」は、自社の一存ではどうにもならないけれど、自社の経営に影響があるとかんがえられる社会事象を抽出して、それにどう対応するのかをかんがえるための題材にするものだ。

残念だがこれが、巨大化している.

交通や通信がいまのように発達していない時代でも、その時代ごとに「最先端」があった。
江戸時代なら飛脚制度がそれだし、特別料金で「早飛躍」という特急便もあった。
当時は、政治の江戸と経済の大阪という二極があったから、どれほどの飛脚需要があったかは、かんたんに想像できる。

ましてや、経済の中心価値は年貢から得る「米」という物資の価値に依存していた。
幕府も大名も、非力といわれた公家も、さらに寺社も、領地からの年貢収入がなけれな生存できない。
その価格は「米相場」できまったから、相場の情報は東西どころか全国を飛び交ったはずである。

それが、明治になってわずか5年で、郵便と電信ができる。
わずかな金額で全国どこにでも配達される郵便は、いまならインターネットの出現のようだったろう。
電信にいたっては、仕組みが理解できなくても、時空を飛び越えた驚異の通信だったにちがいない。

しかし、これらはおもに国内のことだったから、国内の事情が経営に影響した。
それが、だんだんグローバル化すると、ヨーロッパやアメリカの事情が影響するようになる。
けれども、ずいぶん時間差があったから、考慮のための時間もあった。

いまは、とてつもないスピードで変化をキャッチできる。
これらは、もっと早くなることはあっても、遅くなることはない。
それで、地球上の異変が自社の経営におもわぬ影響をおよぼすことになってきた。

だから、「外部経営環境」が自社に影響するとかんがえることは、「想定」すること、と言い換えられる。
つまり、「想定外」とは、かんがえていなかった、という意味になるので、ときと場合によっては、第三者に恥をさらすことになる。

組織運営上、最悪のシナリオ、をつくる意味はここにある。
ところが,あんがいどちらさまも「本当の」最悪のシナリオをつくっていない。

企業における最悪とは、倒産だ。
どうしたら自社が「倒産するのか?」を研究していない。
おおくの経営者は、倒産したら意味がないから研究の価値もない、とかんがえている。

そうではないだろう。
「倒産」といっても、きれいな倒産だってある。
きれいな倒産とは、事業資産をちゃんと配分できて、他人に迷惑をかけずにおわることだ。
これぞ、究極の経営責任である。

もうひとつ、倒産シナリオの研究には、取引先の研究が不可欠になる。
これが役に立つのだ。
「産業連関」的な目線である。
それは、一種の「回路図」のようなイメージである。

巨大な事象が発生して、日本経済全体が不調におちいったなら、自社だけが生きのこることはできないから、しょうがないじゃないか。
しかし、察知する能力をたかめておけば、ちがう状況になる可能性がある。
そして、そうした察知能力が、各社にあれば、天変地異以外の人間がおこなう行為から発生する各種危機を、回避することすら可能ではないか?

たとえば、海洋航行の自由が特定の国の軍事力によって妨げられるとどうなるのか?
東南アジアの海域でおきたら、中東からの石油が止まる可能性がたかまる。
それは、太平洋側の三角波が危険だから、それを避けるための台湾海峡のばあいも同然である。

こうしたわかりきった想定でさえ、民間企業がこぞって政府にはたらきかけることがないのは、どういう意味なのか?
力のある外国が、阻止せんと行動することを、評価せずに批判するのもどういう意味なのか?

こうした事象が、「外部経営環境」になっている。
これは、ネット用語でいえば日本経済の「巨大な脆弱性」である。
ふつう、こうした「脆弱性」がみつかれば、ソフトウェアの手当をする。
あるいは、別の新規ソフトを提供して、古くなって危険なソフトの使用を中止する。

それがだれにでもわかるかたちで放置されているのだが、だれも声をおおきくしない。
すなわち、「放置」=「無責任」という「巨大な外部経営環境」が存在している。

しかし、これはほんとうに自社の一存ではどうにもならない社会事象なのだろうか?
責任ある経営者なら、声をあげなくてどうするのだろう。

なにもしなくても、日本経済は発展をつづける、というかんがえこそ、思考停止だ。

自社最大の危機の想定から、自社の生きのこり戦略がみえてくる。

政府機能停止のメリット

アメリカ合衆国という現代を代表する文明国で、一部とはいえ連邦政府機能が一ヶ月も停止している。
理由はなんであれ、わが国だったらかんがえられない事態であるが、大混乱にいたっていないのはどうしたことか?

「日本国籍」があって、日本国に「居住」していて、「日本語」を話せば、定義として日本人になる。
ここに特定の宗教が「ない」のが、むしろ日本的でもある。

真逆はユダヤ人の定義だ。
ユダヤ教徒という宗教「だけ」で、「ユダヤ人」と呼ぶから、国籍も人種も関係ない。

その日本では、日本人はふつう日本語しかできない。
かくも外国語が不得意で、近代文明を享受している国民は他に類がない。

さいきんはネットで投稿動画がかんたんに視聴できる。
そこで、日本好きのアメリカ人とオーストラリア人コンビが、日本語でさまざまなレポートを配信している。
ある動画では、東京の焼き肉店で料理を注文するのに、日本語のメニューで苦労しているのだが、店員がもってきた英語のメニューの「英語がわからない!」といっていた。

「あんた、なにいってんの?英語だよ!わかるじゃん」
「あゝ、ヨコ文字みるときもちわるくなるから読みたくない」
「それはわかるね、よくこんなの読んでいるわ」

日本に慣れた瞬間はなにか?という外国人ネタの定番は、外国人が日本ではじめて会う外国人に、何語ではなせばよいのかわからなくなったとき、という回答がある。
もっと慣れると、道で見知らぬ外国人にすれ違うと、「あっガイジンだ」とおもって、なるべく声をかけられないようにする、という回答もおおい。

どうやら外国人が、かなり日本人化する、なにかがこの国にはあるようだ。
それで、日本語のニュースしかしらない日本人と、情報という面でも一体化できるのだろう。
アメリカ連邦政府が止まって、こんなことになっているというニュースが、ネットでも目立たないのである.

ちらりと出た記事に、「連邦政府職員80万人」とあった。
日本における国家公務員数が引き合いに出されないけど、わが国の一般職公務員はざっと64万人の5:4、すなわち1.25:1である。
それで、人口はアメリカが31千万人、日本が12千万人だから、2.6:1になる。

単純に、わが国の公務員数はおおすぎる。
人口比なら、30万人程度でよいことになってしまう。
もちろん、あちらは「州」という実質「国家」があつまっている「連邦」だから、単純比較は乱暴だ。

対して、OECDの調査では、日本は世界最低レベルの公務員数なのだ。
どうやら、国際比較における公務員の「定義」に問題がありそうだし、業界支配を考慮するのは困難だ。

一方で、教育社会学者の舞田敏彦氏による2016年10月5日『ニューズウィーク日本語版』によれば、日本の公務員の収入レベルは世界的に突出している。
その安定した「身分」も考慮すれば、よくある「役人天国」という指摘とあいまって納得できるものだ。

国際比較における定義の問題では、公務員に軍人をいれることや社会保障事業の取扱がある。
とくに日本では、介護事業者などのあつかいを公務員とはしないだろう。
また業界支配では、自由に参入ができない事業分野や、自主的に料金を決定できないタクシー事業なども、わが国では公務員とはいわない伝統がある。

連邦政府の機能がとまるとどうなるのか?ということは、国民に「もし連邦政府なかりせば」ということの重要さも、不要さもあきらかにされる。
じっさいにいま、アメリカ合衆国でおきていることは、たっぷりウオッチされていることだろう。

日本だったらどうなるのか?
これは十分に興味深いテーマである。
なにが必要で、なにが重要で、なにがどうでもよく、なにが不要なのか?
念のため、ここでは「誰が」ではなく、「業務」であることに注意したい。

いろんな「業務」がとまって、こまるひとは「誰か」は、とまってみないとわからない。
じつは、予想外にこまるひとはいないかもしれない。
かえって、自由競争が促進されれば、誰が日本経済を停滞させていたかが明確にもなる。

かつて、わが国で政府機能がマヒしたといえるのは、70年前の敗戦直後しかなかった。
安定した政府の存在は、ふつう国民にとって望ましいことではあるが、支配力が強くて安定した政府は、国民にとって望ましくない。

そういう意味では,たまには政府機能がとまるのは、国民にとってわるいことばかりではない。
しかし、残念だが実験ができない。
だから、思考実験という方法しかない。

かんがえる、ということだ。

心理サスペンスをオペラで

今シーズンのメトロポリタンオペラ・ライブビューイングでの楽しみに、「新作」があることだ。
それも現代劇で、しかも、ヒッチコック監督が映画化した「マーニー」なのだ。

よくしる作品の「新演出」も興味深いが、「新作・初演」はこれからの歴史を一層かんじることができる。
当然だが作曲家も演出家も生きている。

主演のメゾソプラノ、イザベル・レナードは、美貌と美声、それに舞踏出身というキャリアがくわわって、演技もすばらしいをこえて「凄み」すらある。
こころに傷をもつ、おそろしいまでの美人が、連続窃盗犯で、しかも、その現場を目撃した人物から脅迫され結婚する。

登場人物たちがだれも真実をかたらない、ものすごく異常な設定の物語なのだが、嘘のなかから真実があらわれる。

演出も物語の中断とならないように、流れるような「場」をつくる。
歌舞伎の「黒衣」と「後見」をかねるひとたちが、タキシード姿で存在しているのにおどろいた。
主人公は歌舞伎の「狐」に対抗する早変わりで変装すること15回。
「七変化」の倍以上をやってのけるのは、みごとな研究成果である。

二幕の狐狩りのシーンでは、彼らが「馬」になって駈け抜ける表現を、まるでモーリス・ベジャールの舞踏のように表現したのは圧巻である。
壁を飛び越えるのに失敗した馬と、それにまたがる主人公が宙を舞って落馬する表現は、まさに「歌舞伎」そのもののスローモーションであった。

なんというダイナミックな表現なのだろう。
これは本家の歌舞伎でも逆輸入すべきではないか?
しかも、演じているのは、オペラ歌手、なのである。

ふと、このシリーズを多忙とはいえ、配給元とおなじ松竹に所属する歌舞伎役者たちが観ていないとしたら、これはとんだお粗末であるとおもってしまった。
現代の歌舞伎役者には、時代のアバンギャルドとして、おおいに「かぶいて」ほしいのだ。

主人公の母親役を演じた、当代一の「カルメン」役デニース・グレイヴスへの幕間インタビューでは、彼女が卒業した芸術高校に、このライブビューイングを鑑賞できる施設が完成したとあった。

「若いときに、世界トップレベルの芸術を観るのはとても大切なこと」、と彼女はあっさりいったが、そんな高校は日本のどこにあるのだろうか?
芸術大学にも、ないのではないか?

箱物としての視聴覚室があっても、上映することがなければ宝の持ち腐れであるから、彼女がいう完成した施設とは、箱物のことではない。
生徒たちが鑑賞できるようになったことが重要なのだ。

METをささえる財団からの援助ではなく、卒業生たちや地域からの寄付があるにちがいない。
すくなくても、国家予算や地方予算に依存などしていないはずだ。

ちゃんとした学校には寄付があつまって、成績がかわらないなら寄付がおおい家の子を優先的に入学させても、文句をいわれる筋合いはない。
日本の平等主義はこれを否定するが、「機会の平等」と「結果の平等」とをとりちがえ、結果の平等を重視するから停滞するのである。

どのみち学歴ではなく、芸術は才能と実力の世界なのだ。
世界の舞台芸術は、オーディション漬けになるのが常識で、どの芸術大学を卒業したか?は審査の主たる対象ではない。
端役でも観ているひとは評価をちゃんとするから、キャリアを積めるようになっている。

若いがすでに有名な英国人作曲家のミューリー氏は、少年時代は国教会の音楽活動にふかくかかわった経験があるといっていた。
これも、何気ないインタビューでの一言だったが、なるほど、終盤、主人公の母の葬儀の場面で、その言葉の意味がわかった。

キリスト教的なら、どこでもなんでもおなじ、と日本人はスルーしてしまいそうだが、英国国教会のスタイルを音楽にもとりいれて、当地を舞台とする物語に齟齬がないようになっている。
このあたりは、ほんとうに「呼吸」したことがなければ、なかなか読み取れない。
インタビューにも、観客に理解をうながす仕掛けがある。

今シーズンは、イザベル・レナードが主演する作品がもう一本ある。
『カルメル会修道女の対話』という「史実」の物語である。
予告編では修道女になったイザベル・レナードの美貌が光るが、どうやらこちらも複雑で理不尽なフランス革命末期のはなしのようだ。

「カルメル会」とはどんな派なのか?や、フランス革命のながれをしらないと理解が難しそうだから、またいろんなことを知りえるだろう。
「史実」だから、従来の娯楽としてのオペラにはない迫力も期待できる。

かつて、2011年のシーズンで、ゲーテの『ファウスト』(第一部)をオペラ化したグノーの作品を観た。
超有名なソプラノ歌手が、演出内容をきらって降りてしまったため、代役としてマリーナ・ポプラフスカヤが演じ、絶賛された。

ファウストによって妊娠し、生まれた子をみずから始末するマルグリートの狂気を、恐ろしいまでに表現したのがわすれられない。
「眼がイッていた」のだ。
これは、劇場の座席からどう見えたのだろうか?

ライブビューイングという映画だからこその「アップ」で、狂気にかられる人物を目の当たりにできた。
歌いながらの、狂気である。

だが、エンディングでの爆発的拍手がわすれられない。
劇場の観客には、狂気のオーラが観えたのだろう。
これで、彼女はこの作品の「第一人者」に認定された。

世の中にはすごいひとたちがいるものだと、感心するしかない。
どういった教育と訓練とを受け、それをこなしてきたのか?
その感心のために、また劇場に足をはこぶのである。