「職域奉公」という体質

戦中の昭和17年(1942年)にでた,橘樸「職域奉公論」によると,近衛文麿の大政翼賛会ができた当時にはやりだした用語であるという.
だから,ちょうど昭和15年(1940年)ごろにあたる.
国家総動員法ができたのは昭和13年(1938年)で,第一次近衛内閣のときだった.

すなわち,「職域奉公」とは,すべての職業が国家の戦争遂行という目的に協力することをいうから,これがわが国職業人の「道徳」になったのだった.

このころにつくられた「戦時体制」が,21世紀の今日にも連綿とつづいていることを告発したのが,野口悠紀夫「1940年体制」だった.
いまの戦後最長になりそうな総理がいう,「戦後レジームからの『脱却』」というフレーズが,じつは「戦後レジームへの『回帰』」だとわかる本だ.

もっといえば,戦後体制とはおどろいたことに,戦時体制の延長にすぎない.

 

この本は初版と増補版とがあって,初版+増補版最終章で全部読めるようになっている.最終章が差し替えられているので,増補版一冊だけでは漏れが生じるので注意したい.

さて,政府がすすめる「働きかた改革」に財界アンケートでも半数が「迷惑」と回答したのがニュースになった.
その「働きかた改革」の浅はかさとは,戦時体制としての「職域奉公」を,政府が押し進めたことを忘却しているからである.

ところが,民間は,それがすっかり道徳として「血肉」になってしまったから,両者のズレは二重らせん構造のようにからみあっている.

たとえば,わが国を代表する証券会社である野村證券の創業の精神には,「証券報国」,「職域奉公」がはっきりとうたわれている.
これを,現代風の「事業ドメイン(領域)」として解釈しているのは,必然であろう.
あえて意地悪くいえば,だからNOMURAはゴールドマンサックスのようになれない,のではないか.

ゴールドマンサックスは,その経営幹部が歴代,アメリカ連邦政府要人になるほどであるが,社が掲げるものに「証券報国」も「職域奉公」もあるはずがない.

この例からもわかるように,戦前からつづく伝統的なわが国の企業は,いちように「職域奉公」という思想をかかえたままでいる.
あたかも,それは日本人の宗教心のように,ふだんはほとんど意識することはない.しかし,ことなにかあるときに,忽然と信心深くなって,効きそうな神社仏閣にお参りするようなものだ.

組織では,「職域」が「聖域」になる.
だから,他部署の人間は,そこに足をふみいれることすら許されない.
これをパロったのが,2008年の映画「ハッピーフライト」における,航空会社の地上職が機内に入るシーンだった.

しかし,現実は,当事者間でけっして笑えない問題だ.
よしんばこれが,社内不正を調査する場面なら,おなじ社員同士が検察と容疑者のような関係になる.
だから,もし,事件が収束しても,部署間の軋轢はけっして緩むことはなく,それは個人間の恨み辛みになるものだ.

「第三者委員会」という調査機関による調査は事実上の経営放棄だとまえに書いたが,そうでもしないと上記の軋轢をマイルドにする方法がない.しかし,あくまで「マイルド」だ.
つまり,まじめな企業のまじめな部署ほど,「職域奉公」の意識が高く,自分たちの職場を「聖域化」させることで,一体感という精神の安定を得ようとするのである.

もちろん,ここにはもはや「お国のため」という意識はないだろうが,「会社のため」に変容しただけで,なにが会社の利益になるのかが不明なまま,経験と勘で「奉公」してしまう.
それででてくる職場の概念が,現状維持,なのである.
頑迷な「守旧派さがし」をしても,ピンとこないのは,こうした事情があるからだ.

むかしながらの方法を盲目的に維持する.
それがもっとも「間違いない」と信じることで,会社に貢献できると確信する.
こうして,職場の改善はすすまないから,生産性に変化はおきない.
むしろ,生産性に変化をおこさないことが,「聖域化」した職場をまもることになっている.

経営者は,それではこまる.
それで,改革に「聖域はない」といってはみるが,どうしたらよいのか打つ手がみえないから,もっともらしく「全社一律」という落としどころにおとす.
できもしないことをわかっていても命じるのが仕事と自己欺瞞して,結局できないのを部下のせいにする.

会社の利益とはどんなことで,職域奉公では達成できないとトップが説かないと,現場は理解できないことを理解できない.
しかし,そのためには,どんな仕組みが必要なのかをかんがえて,その仕組みを用意しなければならないから,現場にいうまえに経営者がやるべきことが山ほどある.

伝統的企業の従業員から昇格した経営者ほど,自身が職域奉公に染まっているのだと,最初に認識しないと,やるべきことも見えないで任期をおえるだろう.
それをまた,後任や後輩,あるいは新入社員が黙ってみているのである.

マニフェスト・デスティニー

訳せば「明白なる天命」という.
アメリカ人の西部開拓「正当化」の標語だった.
このことばで,「インディアン」の虐殺が正当化されたことは,歴史のしめすところである.
いま,「ネイティブ・アメリカン」と呼んだところで,かれらに土地を返還したことはいちどもない.

大西洋と欧州旧大陸には関与しないのが,「モンロー主義」でしられるアメリカの引きこもり政策だから,西海岸のその先における太平洋について,「モンロー主義」は対象範囲ではない.
それで,ハワイを落とし,フィリピンを落とした.

西へ西へ,とにかく西へ.
ベトナムをこえてイランからアラブ中東に向かって,アフリカのリビアにたどりついたとき,地球は丸いことに気がついたのか,ここでアメリカの西方移動の動きが止まった.
リビアの悲惨は,イタリアによる支配からはじまる.

この映画「砂漠のライオン」は,史実に基づいていて,ずいぶんと長い間イタリアで上映禁止になっていたから,観ておいて損はない.
イタリア人のなかに,ムッソリーニがどれほど残っているのかを聞いたら激怒するだろうが,戦勝国になった戦後も政治的判断が優先できる国であった証拠のひとつである.

あのカダフィー大佐がイタリア訪問したときに,史実だから主人公の写真を衣服につけ,主人公の子息を同伴したというエピソードまであるが,はたしてこの物語の主人公がカダフィーに与したかは疑問である.

そんなアメリカと正面から戦った「西方の国」は,「インディアン」をのぞけばこれまで日本だけだったが,ここにきて中華人民共和国と貿易戦争に突入している.
先月9月26日,ニューヨークにおいて安倍首相とトランプ大統領の首脳会談でだされた,7項目からなる日米共同声明の6番目には,日米が欧州も味方に巻きこんでこの貿易戦争に立ち向かうことがかいてある.

「第三国の非市場志向型の政策」というかきかたは,外交文書として直接名指しはしないものの,あきらからに国名が特定できるから,かなり踏み込んだものになっている.
過去,日米貿易戦争をしかけられたわが国からすれば,どんな方法が「痛い」のかを知っているから,今回ほぼ名指しされた国からすれば,かなり嫌な感じのはずである.

それでか,こまったときだけ擦りよる性格の彼の国が,やっぱり擦りよってきたのか,韓国済州島での国際観艦式に「旭日旗」問題で不参加としたわが国にあわせるように,理由不明なまま不参加とした.
まさかとおどろいたのは,韓国側だったろう.
あちらの外交部は,先月の日米共同声明を読んでいなかったのだろう.

弱小国として,外交の重要性は軍備以上であることは常識であるから,残念をとおりこした状態だといえるだろうが,それが「国民の要請だから」ということなら,だまって受けいれるしかない.

結局,アメリカは第二次大戦の日本との戦争理由になる,中国市場がほしいのにままならぬ,という状況がいまでも解決されないことにイラついている.
だから,その北に鎮座するロシアがじゃまで,価値感がことなる中共をいじめるのである.
この状況は,この150年間,おおきく変化していない.

変化したのは,唯一,わが国がしゃしゃり出ない,ということだ.
清国が中共になったのも変化に見えるが,軍閥という目線での変化はないからだ.
しかし,今回の共同声明では,ずる賢いことをアメリカに指南する役になったから,陰湿なわが国官僚にとっては,薄笑いと舌なめずリしたくなるようなステージが用意されたわけである.

おそらく,中国に入れ込んでいるドイツが,日米に反抗する素振りをみせるだろう.
ドイツ銀行の筆頭大株主は,中国企業だからだが,その中国企業の資金はアメリカに預けてある.
アメリカがこれの凍結をほのめかせば,ドイツは喉元のとげが抜けて万々歳なので,日米欧の連携が強化される素地はある.

これから年末にかけて,さまざまに入り組んだドラマが展開される.

デパートは本当に不要なのか?

国内だけでなく外国でも「デパート」という業態が,ネット通販におされて苦戦を強いられてひさしい.
ずいぶんまえから「斜陽産業」といわれてはきたが,ここにきて国内大手が地方都市の店舗閉鎖をあいついで発表し,「不要産業」とのレッテル化がすすんでいる.

本ブログでデパートを最初に書いたのは,昨年,旅館の売店との比較を論じたときである.
「欲しいものがない」という状態を共通とした.

それは,デパートが自分で商品を仕入れることを忘れて,売り場面積を売るという不動産業化した時点で,「デパート」というカンバンを自分たちで降ろしたことにはじまる.
これに,「消化仕入れ」という日本ローカルの商慣習が,デパートを仕入れ先支配の構図において,一方的有利な「商売」を可能にしたから,ちゃんとした競争にさらされなかった.

一時期,有利だと誰もが信じた商習慣が,市場の実態から遠ざかる原因となって,真綿のようにじっくりとやさしく時間をかけて首をしめつけられれば,確実に死ぬ,というおそろしさである.
まさに「ゆでがえる」.
デパートの凋落は,他業界の経営者に,大変貴重な教訓をあたえてくれるものだ.

国内大手の縮小均衡がどこまで続くのか?をかんがえると,意外な意思表明をしているのは最大手の「三越・伊勢丹」である.
他社が,従来のやりかたのまま縮小をつづけているのに対して,自社仕入れを増やす,という方針をあきらかにしているからだ.

これは、買い物客として期待したい.

そこで,「再生」という視点でもかんがえてみたい.
「万年赤字」という状態は,市場から遠ざかったことを意味する.
だから,経営理念というその企業の存在理由(最上位概念)にさかのぼって再考するのが「再生」のセオリーである.

なんのために百貨店は存在するのか?
生活者の豊かな生活を実現するための,物質面からの支援であったはずだ.
だから,ものがない時代,自動的にデパートは繁栄した.

それから,人々の所得がふえると,より質の高いものを「高価」という代償を負担して追求するひとと,コモディティ化した物品ですませるひととに分化して,圧倒的有利にたったのが総合スーパーだった.

ところが,高品質のものも,コモディティ化した物品も,その範囲が拡大して,ものがあふれる時代になると,「選択」という手段がとれるようになって,さらに,生活時間の拡大から,コンビニが成隆する.
ものだけでなく,時間も選択できるようになった.

そして,ネット通販という究極があらわれた.
物理的な商品展示スペースを必要とせず,あらゆるものが揃うようになったのだ.
しかし,ここにきて,その巨人であるアマゾン.コムが,リアル店舗を開店させている.
これはどういうことか?

リアル店舗での買い物とは,ネット注文である.
だから,リアルなこの空間は,人気商品の展示場なのだ.
その「人気商品」とは,ネット販売におけるデータから分析されたものだろう.
訪れた客は,現物をみて納得できれば「ポチッと」スマホから購入する.

すると,あらためて既存デパートの「自社仕入れ」とは,どうするのか?気になるところである.
もしかすると,階毎にちがう売り場になっている概念から変えるのか?
根本的見直しなら,そんなことが起きてもおかしくはない.
むしろ,生活シーンにあわせた高品質な提案があっていい.

もっとも,大型雑貨店という業態もすっかり定着しているから,その困難さをおもうとデパートの苦難はつづくだろう.

身も蓋もないはなしだが,わが家には思わぬ金額のデパート商品券があることに気づいた.
デパートがなくならないうちに,なにかと交換しなければとおもいついた.
それで,家内と何年かぶりにデパートに出かけた.

お目当てはハンディーなコーヒー・ミルである.
旅先や出張先の部屋で,くつろぎながらお気に入りのコーヒーを飲みたい,というのが当面の一致した要望だったからである.
それで,当然にネット検索し,事前知識をもって出かけたのである.

電車賃を払って,横浜を代表するデパートに向かった.
生活雑貨フロアーは,面積は広大だが種類がどこまでのバリエーションなのか?
たどり着いたコーナーには,5,6種類のコーヒー・ミルがあって,そのうちハンディーなタイプは2種類だった.

たったこれだけ?
事前知識が崩壊する.
もしかして他の場所にもあるかもしれないと,係のひとに聞いてみると,やはりこのコーナーだけだった.

結局,大型雑貨店に足が向いた.
エスカレーターからいきなり目に飛び込んだのは,ハンディーなコーヒー・ミルの納得の品揃えだった.
ここでは,デパート商品券がつかえない.しかたなく,現金での購入だ.

我が家のデパート商品券は,デパートという業態があるうちにつかいきれるのだろうか?
家内は,地下の食品売り場でつかう手があると冷静だった.

口に入るものではない.
なにかいいものはないのか?
デパートのバイヤーにエールを送りたい.

優秀な役人は火事場太りする

静岡県の銀行がしでかした「不正融資」問題に,金融庁というお役所が「(一部の業務に対して)業務停止命令」をだした.
「不正」をしていたやからが,創業家をふくめ多数排除されたものの,不正ができた土壌をキレイにするまで,不正に関係した仕事をしては「いけない」,と犬に命令するようなことがおきている.

たしかに,監督官庁の「行政」として,当然のことのようにみえる.
しかし,これとて釈然としないのは,不正をして「損をしたのは誰か?」ということをかんがえると,貸したカネが回収できなくなった銀行と,甘い見通し(ここにも不正がある)で借りたカネで事業をやって儲からなかったひとではないか?
銀行の損は預金者と株主という出資者に対してどう責任をとるのか?という問題であって,一方,不正で借りたひとの損は自分でなんとかするのが「おとなの社会の掟」である.

だから,銀行の損はやらかしたやからたちが,私財をもってその損害を賠償するのが筋だ.
つまりこれは,「民事事件」である.
それで,銀行という会社組織に対しての「不正行為」そのものは,「刑事事件」として罰するのが筋だ.
釈然としないのは,この「民事」と「刑事」がいまだに曖昧なままだからだ.

それに,当然だが、企業としての銀行に対する社会的責任も問われる.
一部の経済誌では,金融庁に廃業命令をだすように期待する記事まであるが,まったく見当違いもはなはだしい.
どうして,国家に依存するのか?

こういう記事が書ける記者の脳内構造が,政府を「御上」とみる前近代の価値感に犯されていると自己分析すべきだ.
預金者が預金を別の銀行に移したり,株主が株を売却したり,別の銀行が借入をしている取引先に営業をかけたりして,結果的に立ちゆかなくなって「破綻」すれば,それまでのはなしである.
自由主義における「市場」からの「制裁」,という機能を機能させずに,国家が制裁機能をもつほうが異常である.

つまり,利用者が自由に判断すればよくて,国家が決めることではない.
よしんば,この銀行だけに取付け騒ぎがおきても,それがわが国の金融システムに決定的ダメージをあたえることはない.
むしろ,こんなことで役人に万能な廃業の権限をあたえることが,わが国金融システムの健全性にきずをつけるだろう.

こんな「依存体質」が国民にあるから,金融庁という役人集団(長官も政治家ではなく役人である)が,やけに張り切って,この夏に代わったばかりの長官が,本件の「反省」の弁を述べた.
それはそうだろう,このひとの昇格まえは「検査局長」だったのだから,事前に「内部告発」が役所にもたらせれていたのにこれを活かせなったのは直接的な「落ち度」にちがいないからだ.

この銀行の不正が発覚したのは,ことしの年初だった.現長官にとって,アリバイはない.
マスコミはここにツッコミを入れて,いつもの「責任問題」にするのかとおもったら,あんがい「冷静」で,きもちが悪い.
長官を「泳がせ」て,より強力な金融機関支配をやらせようというのだろうか?

10月9日の報道によると長官の発言は,

何が金融庁に欠けていたのか,改めて体制を構築する.
第三者の目で取締役会の議論を確認し,経営者の目指す理念や戦略が営業の現場で生かされているかも検証していく.

である.

まさに余計なお世話だ,というよりも,企業のガバナンスそのものを信用しないという態度は,まったく資本主義の制度の無視ではないか.
金融庁のどこに,こんなことができる権限があるのか?
「欠けていた」ものが問題なのではなく,「有り余る権限」が問題なのだ.

株主から委嘱された個々の取締役と,その取締役で構成される取締役会の決定事項が,社内に浸透するかしないかは,取締役およびそれをささえる各種役職者の業務そのものである.
これでは,まるで「ゲシュタポ」ではないか?

  

金融は経済の要である.
これを自由に民間が経営するのが,資本主義の基本中の基本だが,国家がこれに介入し,役人が経営責任をとる仕組みもないまま,勝手に監視し,命令をくだすのが許されるというのは,資本主義の放棄である.

その証拠が,金融庁が銀行の監督官庁なのに,不正をみつけられず(ちゃんとタレコミがあったのに握りつぶして),その責任を一切とらないばかりか、担当責任者が昇格するのである。
まさに火事場の焼け太りではないか。
そして,責任回避のために企業を痛めつける構図は,原発事故の始末とまったくおなじである.

そして、資本主義を憎み、国家転覆による社会主義化・共産主義化をもくろむ左翼マスコミがこのお先棒をかつぐ姿は、絵にかいたようなグロテスクである。

内閣どころか、国の自由経済体制がひっくりかえるような無謀な論に、だれも反対しないのか?

こんな原理原則が平然と蹂躙されて、なにが景気対策で、なにが消費税問題なのか?
とうとう、政府が役人によってむき出しの社会主義(全体主義)経済体制への舵をきってしまった。
じつはこれとて,いまにはじまったことではない.

平成時代とは、将来、日本国が資本主義の矛盾という歴史的必然によって、流血革命をせずに「維新」という民族の歴史的知恵をもって社会主義を選択した、人類史上画期的な偉業をなしとげた、と絶賛されるのだろう。

ほんとうは、担保価値しか融資の判断にできない前資本の「質屋」を、近代的資本主義下の「銀行」と呼んでごまかしていたところに、マイナス金利という人類史上初めての「厄災」と呼んでもいい事態打破のために、無駄に貸し付けることを選択しただけのお粗末を、資本主義の矛盾、といって熱狂する奇人たちのファンタジーである。

そして、もちろん,わが国の金融機関を近代的銀行ではなく,「質屋」のまま進化させず固定させる方策を推進したのがノーパンしゃぶしゃぶにうつつをぬかした旧大蔵省銀行局であって,金融監督庁から今につづく金融庁そのものである.

この根底に,役人からみた愚かな国民がいるのである.能力がないから質屋のままでいろ.あとは,なんとかしてやるから,という発想だ.
だから,マスコミがいう,「護送船団方式」は放棄された,ことはなく,役人が面倒をみれなくなったら廃業させて,関与した役人たちに責任という被害がおよばないようにしただけである.

しかし、こんな歴史解釈もないままに、日本経済は二度と復活しない社会主義(全体主義)経済を選択してしまった。
どん底まで落ちて、その後,東欧自由革命のような変革が起きればいいが、その保証もいまはない。

陛下が退位をご希望されたのは、こんなこともあったのではないかと、畏れ多くも拝察するしかない。
次の時代の困難は,かつて経験のない過酷なものになるだろうことだけは確実性がたかまっている.

黒字企業には赤字がわからない

ちょっと贅沢なはなしだが,しっかり黒字をだしつづけている企業には,どうしたら会社が赤字になるのかわからない,ということがある.
赤字続きで,いつ資金が尽きるかの心配ばかりしている企業には,そんな黒字企業の「わからない」が,わからないにちがいない.

黒字企業にあるものが,赤字企業にはほとんどなく,赤字企業にあるものが黒字企業にはほとんどないから,どちらも相手が理解できないのである.

安定した黒字が続いていて,経営者の頭脳もクリアさが維持されているなら,なにをどうしたら赤字になるのか?見当もつかないだろう.
逆に,なにをしても儲かってしまう,とかんがえるにちがいないし,そんなことをウズウズとかんがえたら,もっと儲かる方法を思いつくだろう.

それは,ビジネスモデルがしっかり確立しているからでもあり,だからこそ,問題になりそうな点に早く気づき,予防の手当をたえずおこなうことが習慣になっているからである.
結論は,優れた経営者の存在,ではあるが,こういうひとたちは,アンテナが高く自社の内外の情報取得に長けていることに特徴がある.

では,なぜに自社の内外の情報取得が早く,中身も正確なのか?といえば,あたりまえだが,本人の人間性が良質だから,そして,目的をもって内外のひとと接しているからである.

外にあっては異業種交流の場でもある商工会をたとえにすれば,商工会のなかでの役職や活動にはあまり興味がなく,さまざまなひとたちからの「ためになる情報」をもとめて参加している姿がある.

内にあっては,従業員を大切にするのは文字どおりで,目標設定をおこたらないし,そのための教育研修もあたりまえとしているから信頼が厚い.こうして,現場の従業員からの提案などがふつうにあるから,正しい情報を早く得ることができて,悪い情報ほど,いち早く届くのはこのためである.

こうしてみると,めったなことで失敗しないようになっている.
いや,失敗しないように自社組織を造り込んでいる.
だから,どうやったら赤字になるのかわからないのである.

この真逆をいくのが万年赤字企業である.
ところが,鏡のように正反対ではない.
万年赤字企業の目標は,万年黒字企業になること,ではないからである.

では,どんな目標なのか?
第一が,存続.
第二が,黒字化(単年度)
である.

だから,黒字企業がやっている様々な「黒字の原因」になる行動や施策に深い興味がない.
「存続」という低いハードルで汲々としているから,そのはるか上のハードルが目に入らないのだ.
むしろ,走り高跳びと棒高跳びのような,別の競技に見えるだろう.

それで,黒字企業の姿には,投資した設備の違い,が目立って見えてしまって,あきらめる理由づくりに邁進するのだ.
従業員の評価まで,あちらは優秀,こちらは凡庸と決めつける.
経営者が凡庸なら,従業員も凡庸になる原理の存在をしらない.

夢も希望もないことをあえていえば,赤字企業の経営者には,真剣味や追いつめられているというリアル感が決定的に不足している.
だから,金融機関に呼ばれて「突然」融資の打ち切りを告げられて,はじめて気づくか,それが「突然」だとして,金融機関を逆恨みするかのどちらかになる.

しかし,テレビドラマではない現実世界では,はじめて気づこうが逆恨みしようが,会社が生き残れないことは確かである.
まさに,この期に及んで,ということになる.

これを,黒字企業の目からすれば,どうして「突然」なのかすら理解できないだろう.前兆となる数値は,いくらでも事前にあったはずである.
そうした警報に,なんの対処もしなかった,とすれば,もはや理解の外である.
ゲームのルールばかりか,ゲームのやり方すらしらないで人生をかけたゲームをやっている姿に,驚愕するしかない.

人口減少と,それにともなう人手不足は,こんご深刻になることはあっても軽減することはない.
だから,人手をぜったいに必要とする人的サービス業こそ,採用の応募がある会社にしなければ,時間の問題という運命がまっている.

そのためにも,第一目標が「存続」では,もはや存続を放棄したとみられてもしかたない.
「永続」という原点にたって練り直す必要があるのだが,すでに理解できないのかもしれない.
家族経営のばあい,これは一家で破綻することになるから,結末は悲惨につきる.

せめて,血縁者を別の職業につけるなどして,リスク分散をするのが得策というものだ.

「本質論」を軽視する安易さ

問題の本質を知ったところで何になるんだ?
やるべきは,とにかくいまここにある問題をなくすことだ.

よく耳にする話であって,論法でもある.
どこで耳にするのかといえば,破綻懸念先や破綻した企業のトップないし幹部の言動である.

不思議なことに,こうした企業では,その部下たちも,「おっしゃるとおり」とかんがえることである.
それは安易な発想ではありませんか?と質問すると,たいがいの従業員はキョトンとする.
それで,「えっ,どうしてですか?」というひとと,「やっぱり,へんだなとはおもいますけど,,,」というひととに分かれる.

「やっぱり,へんだなとはおもいますけど,,,」というひとがおおければ,現場中心で再生の可能性はある.
しかし,「えっ,どうしてですか?」というひとがおおいと,かなり手を焼くことが予想できるので,コンサルとしては引き受けに躊躇したくなる案件である.

問題の「根っこ」が,「本質」の本質である.
だから,根こそぎ治さないと,いつでも再発の可能性を意識しなければならず,再生プログラムにとって,おおきな「手戻り」が発生する原因にもなるのだ.

ひとは納得して行動したい,という欲求がつねにある動物で,強制を好まない.
納得がない,あまりに性急な行動を組織に強いると,「パワハラ」と指摘されかねないし,そうでなくても当初予定の結果がでにくい.
また,「卒業」して,外部コンサルがいなくなってから生じる,かずかずのトラブルに,「本質」から責めることが定着していないと,またおなじ結果になりかねない.

だから,「本質」をかんがえ,それから対処する,という手順の定着こそが,事業再生の最も重要な「本質」だといえる.
つまり,「根治」だ.

「目先の問題」とは,おおくは「問題の根」からでた「枝葉」にすぎない.
つまり,目先の問題をとにかくなくす努力とは,植木屋の刈り込み作業を意味する.
しかし,その枝葉が枯れていたり変色していれば,根や土に問題があると理解するのはプロの植木屋として当然のことである.

すなわち,目先の問題を刈り込み「だけ」で解決する努力とは,植木屋としても中途半端なはなしになるから,組織経営として成り立つものではない.
にもかかわらず,「本質」を軽視するのはどうしたことか?

ひとつは,解決までの時間と手間がかかると勝手に思い込んでしまうことだろう.
こうした発想をするひとは,過去の職業人生で,「本質的な解決」を経験したことがないか,その経験がすくない,あるいは,本質を見誤って見当違いをした不幸な経験を,いまだに「本質」からのアプローチだと信じてしまっていることがある.

「本質」をはやく見きわめて,解決策をさぐるという方法を,若いうちからやらされる企業組織で育つと,手戻りがないから根本治療なのに早く済むことをしる.
そして,同様の問題は発生しないから,組織の健全性も確保できるという,おおきなメリットをえる満足感も得ることができる.

このふたつを比較すれば,「本質論」を軽視する安易さとは,個人の資質のほかに,組織風土もおおきく関係することがわかる.
つまり,安易な組織には安易な発想をするひとが増殖するのである.
これは大切で重要な視点である.

だから,いまようのベンチャー企業を立ち上げる,正しく貪欲な経営者は,その年齢に関係なく「本質論」を重視する.
いい会社とそうでない会社を検討すれば,たちまちにこのポイントがあらわれるからである.
儲かる会社にするには,本質論を起業の最初から取り入れるから,業界でいえばIT企業の企業内研修が,本質の「抽出方法」に重点をおいているのは「ITだから」ではないことがわかる.

一方,宿泊業などの人的サービス業では,「接客」がとにかく重視される傾向が伝統としてあるから,「本質」よりも「その場の解決」が必要なのは理解できることだ.
しかし,「その場の解決」が無事終了した後に,「本質」がめったに議論されない.
こうして,受身だけの姿勢を貫いた結果,「本質」についての議論の方法すら不明になってしまうことがある.

とはいえ,それでも営業はできるから,「本質」を忘れたツケは,忘れたころにやってくる.
これが,「安易」でいられる理由である.
そして,問題の本質を追究せずに,世の中や景気のせい,あるいは意識的な訓練などさせたことがないほぼ素人の従業員たちのせいに「安易に」するのである.

バブル崩壊いらい競合会社のおおくが退場したから,いまなんとかなっている.
しかし,これからの人口減少による人手不足が巻き起こす,人件費増の必然に対応することは困難だ.
優秀な人材ほど,この問題の本質に安易な経営者より先に気づくから,けっして選ばれない職場になるだろう.

人手不足倒産とは,もはや他人事ではない.

旅館業後継者は理系が望ましい

「サービス工学」という学問分野がある.
文字どおり,サービスについて「工学」する学問であるから,実務の参考になる.

 

研究者ではなく,実務者としての「経験」をかんがえれば,従来,旅館業の後継者は大手ホテルへ率先して就職したものだ.
ところが,この作戦には落とし穴があって,分業化された大手ホテルでは,配属される部署によっては,将来の経営者としての経験としては不足になってしまうことがある.

もちろん,その大手ホテルすら,「経営者」不足に悩まされているから,社内昇格という日本的システムが十分機能しているとはいえない.
つまり,経営のプロを育てる,という意志と環境が脆弱なのではないかと疑われても仕方ないのが実態であろう.

問題は,修行の場としての就職先を選ぶまえに,「理系」であることが重要ではないかとかんがえる.
すなわち,「工学的」に発想する訓練の有無が,決定的に重要ではないかとおもうからだ.

むかし,生命保険と損害保険の壁が撤廃された直後のころ,巨大な契約をもっている生保に対して,損保のひとたちは畏れをもっていた.
ところが,誤解をおそれずにいえば,その感覚はあっという間に崩壊した.
「相互交流」とかいう流れで,生保のひとは損保を,損保のひとは生保を売る,という業務経験が原因だ.

おなじ「保険」ではあるが,テクニカルな分野での決定的ちがいがある.
それは,損保にある「事故査定」業務である.
いうまでもなく,交通事故や火災での「査定」は,保険金支払いに対しての根拠になる最重要事項である.

簡単にいえば,生保勧誘員の「保険のおばちゃん」に,これができないことが判明したのだ.
くわしくいえば,勉強についてこれないひとがおおかったのは,主婦兼業の限界といわれた.
また,生保のばあい,加入者の健康状態や,保険金支払いにかんしての実際の病状や死因について,医師という専門家がかならずかかわるため,自分で「査定」することはない.

それで,すっかり損保側が生保側をバカにしだしたのだ.
なぜ,いままで,生保と損保には「壁」があったのか?をかんがえると,「保険」という二文字は共通するが,「本質」という二文字がことなっていた.
もちろん,生保の業務が「ちょろい」といいたいのではないので念のため.

外食業界で,イタリアンレストランを全国展開している大手企業は,大卒新入社員の採用にあたって「理系」しか対象にしていない.
「大卒」という学歴のもつ「幹部候補」の意味合いが,はっきりしているから,けっして「兵隊」として社歴を積んでもらおうという意思もないだろう.

つまり,幹部ないしその候補者が,全員「理系」ということの意味をかんがえれば,自社ビジネスモデルの改善をふくめた業務の評価を,日常的に「数字」をつかっておこなっていると予想させるのだ.
そこには,「工学的アプローチ」があるとかんがえるのは自然である.

日本のホテル業界で,本格的に海外進出を果たしているのは,大手高級ホテルでは数社・数カ国という実績状態で,さいきん大手ビジネスホテルが積極的展開をはじめている.
これは,ビジネスモデルが比較的単純なため,「工学的アプローチ」にも余裕があるからだとかんがえられる.

「単純なビジネスモデル」は,重要な要素だ.
広く浅くに対して,狭く深く,が可能になる.
消費者がとっくに「本物志向」になっているから,広く浅くが通じにくくなった.
これが,国内高級ホテル苦戦の原因だとおもう.

従業員の「広く浅く」を,「本物」というキーワードで「狭く深く」させなければならないが,幹部ないしその候補者が,「広く浅く」だったから,なかなか変換ができないのだとかんがえられる.
このブログでも複数回指摘している,個人の価値感と企業組織のあるべき要請が混同されている証拠でもある.

こうした「転換」の困難にあえぐ高級ホテルに,旅館業の後継者を就職させる意味は薄いばかりか,本人の人生目標にたいして時間のムダでもある.
しかし,その前に,高校段階で「理系」を選択する素質がもとめられるという認識が重要だろう.
つまり,中学がことのほか重いということだ.

すると,間に合う間にあわないをこえて,いまの幹部ないしその候補者にたいする「再教育」という点で,「理系的発想」の訓練は必須であることに気づくだろう.
「理系的発想」とは,「ロジカル・シンキング」をいう.

「後継者」からみれば「先代」にあたる,いまの経営者が,自社内に理系的発想の「下地をつくる」ということが,未来の収穫をえるための条件になるのである.

「2円」のために失う「自由」

「仰天するニュース」というのは,天変地異いがいめったにあるものではないが,消費税率を10%にしたばあいの「軽減税率」適用のために,コンビニなどのイートインコーナーを廃止せよという命令を国がするという記事をみた.
目を疑うとはこのことだ.

100円の飲料なら,いまは8%の消費税率だから,「108円」.
10%になっても,飲食料品には軽減税率が適用されて,いまの「8%」がそのまま据え置かれることになってる「はず」とおもっていたら,「飲食する場所」によって税率がちがうという「珍奇」なことを政府が本気でやるという.
差額は「2円」である.

つまり,店内のイートインコーナーで飲食したら,軽減税率の適用はしない,というお国の嫌がらせである.
どこの誰が思いついたかしらないが,精神を病んでいるひとの仕業としかおもえない.
レストランとの違いを「区別できない」というのは,ふつうではない.

こんな馬鹿げたことを想定した問答集を,国税庁がちかくだすというから,わが国の生産性が上がらないのである.
国税庁職員の業務のムダに,イートインコーナーのスペースのムダ.
もし,このスペースを改修するなら,店舗を一時閉鎖しなければならない可能性もふくめてのムダもある.工事費と工事中の売上機会損失である.

しかし,そんなことよりも,あきらかに大問題なのは,レジをとおして支払が済んだものは,購入者に絶対の所有権があるはずで,それをどこでどう処分(この場合は飲食)しようが,所有者の勝手である.

もちろん,他者の迷惑をかえりみないような「処分」ではいけないが,それが店内であろうがなかろうが,所有者の自由であることにかわりはない.
ましてや,この議論の対象は,飲食スペースとしてすでに店が用意したイートインコーナーなのである.

なんのどんな権限で,営業の自由ともいえる範囲に命じることができるのか?
たとえ税を徴収するという,崇高な目的であっても,自由の侵害が許されるものなのか?
そんなことはありえないだろう.

ふだん,国防上のことで意見がかまびすしい「憲法学者」は,どんな見解なのかうかがいたい.
本件は,他国からの侵略や自衛についてかたる以前の,「国民の自由」にたいして国家権力の介入そのものではないか.
日本国が保障する「基本的人権」が,風前の灯火状態になっている.
まさに,あってはならない暴挙である.

弁護士資格を有する野党第一党の党首は,「景気悪化懸念」を第一の理由にして消費税率の引上げに反対すると発言しているが,とんちんかんも甚だしい.
ちゃんと法律の勉強をして,本当に司法試験に合格したのか?を問いたい.
あんたの専門は経済じゃなくて,法律だろうが.

人権について熱心な,日弁連もどういう見解なのか?あらためてうかがいたい.
イートインコーナーの廃止命令は,あきらかに人権問題ではないか?
社会的弱者や,不法移民の擁護が対象ではなく,一律,日本国に住む「人間の自由」の蹂躙である.

消費者は負けてはいけない.
バカにするな,と.
「2円」を惜しむ貧乏人は店外で食え.
イートインコーナーは,レストランか?日本から「豊かさ」がうばわれてゆく.

食品は,生活必需品のトップである.
150年前の日本なら,8割以上の国民が農民だったから,食べ物は自分でつくっていた.
いまは,たったの5%が一次産業従事者である.
だから,どこかで購入しないと,生活が成り立たない.「食っていけない」とは,食品を買うことができないという意味になった.つまり,生活ができない.

そんな食品だけは特別にしよう.
これが,「軽減税率」の趣旨だったはずだ.
繰り返す.
購入した食品は,購入者本人の自由処分の対象である.
それを,どこでならよくて,どこでならダメだと,役人が決めて命令するはなしでは絶対にない.

これを「馬鹿げている」と阻止しない国会議員は,自由を憎む全体主義者である.
まさに,本件以上の「踏み絵」はない.
なにがあっても,反対しない議員は,次の選挙で落選させなければならない.
日和った者も同罪である.

こんなことが許されるなら,「蟻の一穴」となって,わが国は地獄に落ちてしまう.
なんと恐ろしいことか.

とうとうこの国は,政府によって基本的人権が犯されるまでに追いつめられた.

政権は,憲法改正を「悲願」というが,いったいどこをみているのか?
民主主義・主権在民の憲法とは,「『国民から』国家・政府への『命令書』」なのである.
これをもって,憲法を「最高法規」という.
だから,憲法を守らなければならないのは,唯一「公務中の公務員」だ.

命令書をだした主権者たる国民は,公務中の公務員の仕事を監視する役目を最高裁判所にあたえた.

このままでは,この国は,「三権分立」してはいないことがバレてしまう.
すなわち,「近代国家」ですらない,ということだ.

わたしたちは,とんでもない国に住んでいる,かもしれない.

360億円のヨット

報道によると,ロシアの富豪が所有する全長119m,5959トン,乗組員50人のモーターヨットが,台風25号を避けるため,天橋立がある京都宮津に寄港した.家族は,内部にあるクルーザーに乗り換えて上陸し,丹後の海の幸を楽しんでいるという.

ありがたいことである.
外国の「超お金持ち」が,わが国を訪れることはめったにないから,こうしたニュースにもなる.
訪日客の「人数」ばかりを,なぜか「目標」にしている観光行政にかかわる役所の存在価値がいかにないかの示唆でもある.

日本の沿岸には,2866の漁港があるが,「漁港」なので,プレジャーボートの入港はできない,と思いがちだが,水産庁はこれを否定しているし,公益社団法人全国漁港漁場協会で「フィッシュアリーナ」という漁港をレクリエーションの場にしようという試みがおこなわれている.

しかし,以上のはなしは建前で,個別の漁港では,漁協が事実上の管理をしていて,つまり,裏を返せば役所が管理を漁協に丸投げしていて,おいそれと利用できないのが実態のようである.
事前に申し込めば,根拠不明な利用料が請求され,入港時に「現金での支払い」をその場で要求されて,領収書もくれない,などということがあるそうだ.

税金でつくったコンクリートのかたまりである堤防をふくめた漁港は,いったい誰のものであるのか?をかんがえると,占有者が所有者になる,という鎌倉時代の習慣がそのまま残っている.

また,高圧的態度で接するから,楽しいはずの入港がだいなしになるとも聞く.
一方,漁協の言い分にも一理あって,ボートオーナーの我が物顔での横柄な態度や,業務に差し障る場所への勝手な立ち入りなどがあるというから,ある意味どっちもどっちであるが,ボートオーナーの全員が対象者にはなるまい.

それで,これを「分離」するための,「フィッシュアリーナ」ということなのだろうが,これも例によって例の如く,建設予算がつくから,「事前の利用ルール確立」による,紳士的でおだやかな利用をいたしましょう,というお金をかけない「おとな」の発想がない.
さすがは「子どもの国 ニッポン」である.

だから,特定の漁港しか利用できないように仕向けているのは,役所の方になる.
水産庁のHPは,自己矛盾も甚だしい.
こういうのを「マッチポンプ」というのだ.

入国のための交通手段で,主たるモノが航空機になってひさしいが,そのなかでも贅沢なのは「プライベートジェット」といわれる,小型のジェット旅客機だ.
ホンダジェットが,販売開始してすぐに100機の注文があったというのは有名なニュースなったが,どんなひとが注文したのかの突っ込みがない.

一機3億円以上する「自家用機」だから,陸を走る超高級車が10台以上買えるお値段である.
しかし,自動車のガレージは自宅にも持てるが,飛行機の格納庫を自宅に用意できるひとは,すくなくても日本ではいないだろう.飛行機だから,動かすには飛行場が必要だ.
だから,結局どこかの飛行場に用意しないといけない.

すると,駐車場ならぬ駐機のための費用もばかにならず,運転免許ならぬ操縦免許だって,取得するには大変な訓練を受けなければならないし,そもそも,オーナーはプライベートジェットの客室に乗ることを想定するから,運転士ならぬ操縦士を雇わなければならない.
ビックリするほどの維持費がかかるのが,プライベートジェットだから,高級車のオーナーがちいさく見えるのも納得できる.

外国人の成功したビジネスマンは,「見せびらかしの消費」のために,こぞってプライベートジェットを購入するという.

 

ところが,スピードでは亜音速の最新大型ジェット旅客機にぜんぜんかなわないから,太平洋を横断して日本に来るには,それ相応の割増時間をかけてやってくる.

それでも,たとえファーストクラスをつかっても,一般人扱いされる入国審査とはちがって,プライベートジェットには国賓向けの特別室の利用もできるから,この「特別感」がたまらないのだという.用意した自動車が玄関に待機しているから,人目につかずにすばらしく快適な入国,および出国ができるというのは,たしかに特権である.

ところが,羽田や成田の駐機場がいっぱいで,なおかつ駐機料がこれまた「日本特別価格」で高いから,さすがのオーナーもひるむそうだ.
そこで,東京に用事があるオーナーが降りると,機体は「富士山静岡空港」にむかうという流れができた.

この飛行場も県知事の鳴り物入りでつくられたものだが,定期便がほとんどこないので,格納庫に空きがあったのだ.
いまでは,プライベートジェット用の格納庫があるというから,収入という「カネ」は重い腰のはずの行政だってかんたんにうごかすのだ.

あるとき,オーナーが機長に,どこに「駐車」しにいくんだ?と質問して,「SIZUOKA」とこたえたら.「Where is(Izu) SIZUOKA?」となって,地図をみた.
地元にくわしくなった機長が,「ONSEN」があると言ったから,たちまちオーナーがくらいついた.

伊豆半島の修善寺には,むかし修善寺町営の有名な「菖蒲園」があったが,菖蒲が咲く季節だけでは勝負にならないと,第三セクターという破滅的な組織で「修善寺虹の郷」というテーマが不明のテーマパークをつくった.

先に「修善寺町」が合併で行政地域として消滅したが,ふつうの「町名」になって残った.
パークの方はいじらしく,いまも営業している.
それで,第二駐車場をヘリポートにして,静岡空港からの連絡便を飛ばしたのは正解だった.

こうして,修善寺の高級温泉旅館は,プライベートジェットのオーナーが常連客になったので,一般客をとらなくなった.
超お金持ちの「一組」に全力をかけて接遇すれば,一晩で十組以上の売上よりも得るものがおおきいからだ.
正しく,楽して儲ける,とはこれをいう.

これが,生産性革命になる,ということを政府は絶対にみとめない.
たくさんの数を,いかに「効率的」にさばくかが「生産性向上」だと,高度成長期の製造業(大量生産大量消費)しか頭にない.
その製造業はとっくに,多品種少量生産に移行したのをしらないのか?

半世紀前の製造業の成功を,サービス業でやらせようと躍起になっている姿は,じつにお気軽で,しかも邪魔である.
その政府の介入を受け入れようと努力する「業界」も,どうかしているとおもうがいかに?

仕様なのか?バグなのか?

うまくいかない,どうしよう?
とかんがえたとき,その理由を追求するのがふつうで,犯人さがしは感心しない.
それは,犯人を排除すれば問題が解決する,という問題ならば,それは「バグ」であるだろうけど,おおくの場合,「バグ」の排除だけですむことなどめったにないからである.

たとえば,組織で「不正」があって,それを実行していた「犯人」がいるとして,その犯人を排除すればもう不正がなくなって問題が解決する,にはならないことでわかる.
不正を可能にした「仕組み」を,できない仕組みに改善しなければならない.

仕組みとは「仕様」にふくまれる.
そうなると,やっぱり重要なのは「仕様」だと気づく.

ひとりで事業をやっているなら,「仕様」は経営者のあたまのなかにあればいい.
ところが,二人以上の「組織」になると,経営者のあたまのなかにあるものを形にしないと,だれにも理解できなくなる.
それで最初につくるのが「経営理念」の表示になるのがふつうだ.

だんだん従業員のかずがふえてくれば,就業規則や退職金規程などのルールを書いたものがほしくなる.
いらぬトラブルを避けるためだし,賞罰のかなめになる.

経営者としては,初期のころには思いつきでよかった「賞」も,だんだん公平を期すようにしようとすれば,やっぱりルールが必要になって,たとえ経営トップでも,これらルールを曲げるわけにはいかなくなる.

だから,規模拡大の「踊り場」あたりで,じっくり考え直したくなるのは人情というものだし,組織の要請でもある.
こうして,経営の構造と仕様がセットになって再構築され,その後も何度か見直しの対象になるのは,実態とシンクロさせる必要があるからだ.

こうした進化の過程をへた企業組織は「強い」.
めったなことで「負けない」からである.

では,これらのことを「やる」エンジンはなんだろう?
それは,組織を公平に維持し,結果,業績の向上をしたい,という「意志」である.
つまり,端的にいえば「儲けたい」という欲望にいきつく.
すなわち,しっかり儲けつづける「強い」組織は,内部的にはちゃんと仕様が設計されて,その仕様どおりちゃんと動く仕組みができている.

だから,こうした組織を真似れば,即席にできるかといえば,そんなものではない.
むしろ,慎重につくられたことがわかればわかるほど,簡単ではないことに気づく.
そんな気づきがあればこそ,時間をかけてでもやらなければという「意志」が重要なのだ.

にもかかわらず,おおくの企業組織が病んだままでいるのがいまの日本になってしまった.
「儲けたい」という意志が弱いのではないか?
あるいは,むき出しの「儲け主義」と見分けがつかなくなってしまって,自社の「儲けたい」を隠そうとしていないか?そんな態度が,いっそう意志薄弱にみせるのだろう.これを「草食系」というかもしれないが,本物の食欲旺盛な草食動物に失礼だろう.

むき出しの儲け主義の特徴は,「バグ」を排除すればそれで済ませるという意志がみてとれることである.
しかし,この方法では,短期間で業績をあげることができても,長期間ではかならず無理が生じる.

社内に,「排除」の論理という文化が根づくからである.
すると,かならず人間関係がギスギスしだして,内部崩壊をおこしかねない.
まるで,巨星が自分の膨張圧力と重力のバランスが崩れて大爆発をおこすようなものだ.
つまり,それは「物理法則」であって,「運」ではない.

だから,短期で稼げる,と判断できたら,こういう組織にいる意味もあるが,それはふつう「処世術」の習得というもので,トップではなく部下としての生き方の選択の問題だ.
未来永劫,組織の繁栄を意図するトップであれば,残念だが愚かな方法である.
自分の組織を内部崩壊させた人物に,次のチャンスはめったにこない.

さて,さいきんは,自社の根幹に関わる業務を「委託」する企業が役所も含めて続出している.
この国は人手不足という慢性病をかかえてしまったが,他社に委託すれば人員募集の手間が省けるという考えがあるというからおどろいた.
つまり,「人手不足」という実態がある大問題をなんと,「バグ」だとみているお気軽があるのだ.

人手不足による人件費上昇圧力は,時間とともに高くなるだろうと予想できるのは,出生率からも想像できる.「バグ」であるはずがない問題だ.
そこで,これを「仕様」として考えるなら,ポイントは二つあることに気づくだろう.

1.上昇する人件費を吸収する売上をどうするか?
2.おなじ人件費で,結果をだすひとと,だせないひとの区別をどうするか?

1.は,欧米先進国が経験済みで,販売単価を上げる,ことに徹することになるが,過当ともいわれる競争下で,自社だけ値上げはできない.だから,品質向上による単価増しかない.
2.は,結果をだせないひとを「バグ」扱いするのか?という問いに,「排除」の論理がつかえるのか?という二重の問題がある.排除した欠員を募集しても応募があると期待できないなら,いっそ結果をだすひと,になってもらうしかない.そうすれば,上記1.と連結する.

もはや,人材育成のための「仕様」が,絶対に必要になっているのである.
かんたんに真似はできないが,せめて,以下の書籍を参考に,かんがえ方だけでも,日本一世界一の会社から学んでみてはいかがだろう?
それは,自社の「生き残り戦略」そのものである.