勘違いのアルファベット

英語として「AからZ」までのアルファベットを習うまえに、国語の50音図にあてはめた「ローマ字」を習ってしまう。
「AIUEO」は、「あいうえお」という母音で、「K」という子音を組み合わせると「KA=か、KI=き、KU=く、KE=け、KO=こ」になる。

国語の子音は、50音図なら「K=か行」「S=さ行」「T=た行」「N=な行」「H=は行」「M=ま行」「Y=や行」「R=ら行」「W=わ行」そして、「N=ん」と配列されている。
小学生は、ひらがな、カタカナ、そして、ローマ字という三種類の文字で50音図を暗記するのである。

これらは、あくまでも「国語表記」だ。
もちろん、日本語としてこうした表記がつかわれているから、文句のいいようがないし、細かくいえば「ヘボン式」表記まであって、パスポートには正式にこちらで名前が表記されるから、ローマ字の綴りすら二種類の記述方法があり、ヘボン式をしらないと自分の名前や住所が書けないことにもなりかねない。

だから、ローマ字はちゃんと習うし、脱落者がすくないのは、世界の言語で発音が母音と子音のマトリックスな組合せでなりたつという「日本語」が「特異な言語」であるからだ。

しかし、小学生は、日本語が世界的にめずらしい発音の構造になっていることをしらないし、先生も特段おしえない。
もしも、それが、日本語の優位性とか、さらに日本人の優秀性なんてことになると、戦前回帰してまた戦争をするかもしれないと発想するからである。

そんなわけで、文字がおなじなのに、ローマ字とアルファベットがちがう発音をするから、いざ英語を習うとなると、いきなりややこしいことになる。

ところが、そのややこしさがさらにややこしいのが、英語のアルファベット自体に問題があるからだ。
日本語にはありえない、「文字の名前」という概念があることである。

日本語なら、「あ」は「あ」であって、「あ」という文字に「あ」という名前があるとはかんがえない。
もちろん、「あ」はローマ字で「A」や「a」と書いて「あ」と発音する。

しかし、英語では「A」や「a」には「エー」とか「エイ」という名前があるが、発音は「ア」ただしくは「æ」なのだ。
いわゆる「ABCの歌」でいう「エービーシーディーイーエフジー♪」とは、ぜんぶ「文字の名前」をさしている。

だから、「B」「O」「X」と書いて、「ビー」「オー」「エックス」とは読まずに「ボックス」になるのは、文字の名前と発音がちがうからだし、そもそも上記のカタカナでの記述がただしい発音ではない。

文字を習いはじめた英語圏の幼児たちは、「B」「O」「X」と書いて、「ビー」「オー」「エックス」と読む。
さいしょに文字の名前を学ぶからである。それから、ただしい発音と文字の綴り方を習うのだ。

文盲が存在するのは、彼の国では発音と文字の綴り方のルールを「習わないといけない」のに対し、日本語は50音表と漢字を「覚えなければならない」ということで、文盲の原因も異なるのだ。
マーク・トウェイン『王子と乞食』に、綴り方の勉強についての既述がある。

これがアラビア語になると、新聞や雑誌など、文字で書かれた「文語」は西暦600年代のことばが基準なのに対して、文字にしない「話し言葉」は現代の言語であるというちがいから、先進国における文盲率とは比較にならないほど高水準にある。

しかし、これを日本にあてはめると、同時期の「大和言葉」で書かれた文章(新聞記事や雑誌)を現代日本人がスラスラと読めるか?といったことにあたるから、バカにできないどころか、ほとんどのひとが困り果てることになるだろう。

明治の言文一致運動がつくった功罪がある。
1966年に放送されたアニメ「魔法使いサリー」では、登場人物の女子小学生たちが樋口一葉の『たけくらべ』にあこがれて、魔法で物語のなかに入りこむ話があった。
この当時の子どもは、『たけくらべ』を原文のまま読めたが、いまはいかがか?
「退化」している可能性がたかい。

さて以上から、英語がネイティブの外国人が、ローマ字で書いた日本語をヘンテコな発音で読んでしまう理由がわかるだろう。
これは、ローマ字で書いた日本語をヘンテコな発音で読むことができず、スラスラと日本語の発音で読めてしまう日本人にとっては、衝撃的なことである。

つまり、英語の発音ルールでローマ字を読めないのだ。
裏返せば、英語をローマ字で読んでしまう。

これが、日本人にとって英語が絶望的に苦手な原因のひとつなのである。
「読めない」ものは「話せない」になるし、「読めない」文字は「記憶もできない」からである。

知の巨人といわれひろく尊敬された梅棹忠夫氏は、なぜか日本語表記の「ローマ字」推進論者だった。
これだけはいただけない、というおもいがある。

表意文字でもある漢字との組合せがあって、はじめて文脈がつうじるのが日本語だから、すべてローマ字で書いたら、同音異義語がわからなくなる。文脈からの理解で可能だ、とはならないのは、文脈からの理解ができるのは漢字表記をしっているという前提があるからで、それをしらないと意味不明になる。

ハングル文字は発音記号からできている文字体系で、音の組合せという点では日本語よりもゆたかなのは朝鮮語である。日本語では発音しない音がたくさんあるから、日本人に朝鮮語の発音はむずかしい。

そのハングルだけに表記を限定した(1970年)ら、漢字を混ぜている北と議論しても勝てなくなった。
朝鮮語にも、漢語からとった単語が多数のこっているから、全部をローマ字にしたのと同様、同音異義語が不明になるのは避けられない。

すなわち、高度な思考体系の文章をローマ字だけの日本語、ハングルだけの朝鮮語では表現できないのだ。

韓国の没落は漢字使用の禁止にあるという説がある。
高度な思考を構成することが困難だから、「思考の単純化」がひつようになって、それがポピュリズムと合体しやすくなってしまう。
けだし、韓国における漢字の復活はもはや不可能だろう。漢字使用の禁止を半世紀にわたってつづけたから、教えられるひとが絶えたのだ。
気の毒なことである。

人間は言語で思考するから、言語のちがいが文化のちがいを生みだすのは当然だ。
日本における漢字教育の簡略化という問題は、韓国を他山の石とすべきだ。

しかしそれにしても、日本のエリートは、ローマ字とアルファベットの名前と発音のちがいをわざと教えないにちがいないから、日本人から英語能力もうばう努力をしているといえる。

漢字を覚えるのは子どもには負担だからやさしくしましょう。
英語とローマ字の関係もややこしいので教えるのはやめましょう。

この倒錯した「やさしさ」が、国民を不幸へと導くのである。

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