いがいと長い「ゆとり教育」期間

新年度をむかえて,新入社員というひとたちが社会にでてきた.

「ゆとり世代」というと,平成14年(2002年)度から平成25年(2013年)度までつづいた「亡国教育時代」とおもっているひともおおかろう.
しかし,あにはからんや,昭和57年(1982年)に,若林俊輔・隈部直光共著「亡国への学校英語」という本が上梓されている.

著者のひとり,故若林先生は「闘う英語教師」として名を馳せた,中学校の英語教師でもあった東京外大教授である.
初版で改訂版がでることなく「絶版」となりながら,いまだ人気おとろえず「中古」で取引されている,三省堂「VISTA英和辞典」の編者である.

 

「英語嫌いのひとを英語好きにさせる」という目的の辞書だから,いまはおおくある「読む学習辞典」の最初である.
「まえがき」と「使いやすい英和辞典を目指して-この辞書で工夫したこと-」を読むだけで,一種の感動すらおぼえる.改訂版が出ないのはなぜかと,不思議におもう.

冒頭の本をながめると,文部省の教育行政がいかにずさんなものであるかが「英語科」をつうじて告発されている.
教職課程には,「教育行政学」がひつようではないかと提案があるのは,現状の教職員が行政のしくみを「知らない」ままに先生になるという指摘である.

大学の教員養成課程で,教えない,というのは,一種の愚民化であり,教育行政の立場からはたいへんなアドバンテージだ.
教えない,ことも行政側が関与しているのではないかとうたがう.
大阪の私立小学校の土地問題より,よほど重要な行政の関与ではないか?

ようは,昭和55年(1980年)度あたりから,「ゆとり教育」ははじまっているのだ.
そして,中曽根内閣による「臨教審」が,昭和57年(1982年)に「ゆとり教育」を「方針」として決定している.

ここで,わすれてはならないのは,「ゆとり教育」の嚆矢は,昭和42年(1972年)の,日教組によることだ.
すなわち,一般に「タカ派」とか「右翼的」と評価されることがおおい,中曽根康弘氏の正体はなにか?といえば,実績からするとかなり「左派」なのである.当時の帝国陸海軍軍人のおおくが「アカ」かったことの証左かもしれない.

昭和55年(1980年)に小学校にはいった子どもは,昭和48年(1973年)生まれになるから,ことし45歳になる.高校は昭和57年(1982年)度からだから,昭和41年(1966年)生まれなので,ことし52歳になる.

じつは,社会の中心的世代が,第一次「ゆとり教育」世代になっているのだ.
その世代が,「本格的」になった「ゆとり教育世代」をつめたい目でみているという構図である.
「脱ゆとり」は,小学校で平成23年(2011年)度,高校で平成25年(2013年)度からはじまる(中学校はその中間)から,小学生1年生だったひとはことし13歳の中学生,高校生1年生だったひとはことし21歳になるので,すでに社会にはいりはじめている.

中学校の数学で「統計」を復活したのは,「脱ゆとり」の平成24年(2012年)度からで,これが「30年ぶり」だから,昭和57年(1982年)の中教審による「ゆとり方針」と合致する.
すなわち,いまこの国の中心的世代になっている,第一次「ゆとり世代」は,「統計リテラシー」が基本的にないひとたちになっている.もっとも,本人たちのせいではないが,これが,むこう30年間つづくことは確実である.学校で「教えなかった」のだから,そうなる.

しかし,大人が「学校で教わらなかった」と開き直っても,「脱ゆとり」世代は教わってしまう.
30年間というひと世代分が,すっかり愚民教育を受けてしまった.
これを推進したのは,政治(与野党とも)であり行政であるから,なんのことはない,この国が民主主義国家なら,われわれ国民の選択であった.

さて,冒頭の書籍にはなしをもどすと,日本における英語教育の「成果」についても当然に解説されている.もちろん,日本人のおおくが英語を話せない.この現象を,若林先生は,「外国語教育」と位置づけていないことが主因だとしている.

英語の授業が,読解に偏ってしまい,それが「暗号解読」状態になるのは,日本語=英語にしてしまうからだとの指摘だ.なんでも「和訳」しないと気がすまない.
「暗号解読」なら,いっそのこと本物の「暗号」を科目にしたほうが,生徒の将来にやくだつだろうとも書いている.

さらに,問題提起はつづく.
そもそも,教育はだれのためか?こたえはもちろん生徒のため.
生徒の将来と人生が,明るくひらけるように準備するのが教育である.
「顧客志向」の欠如.
これが,教育行政の本質である.

その欠陥を,教師に責任転嫁し,「教師の資質の問題」にするのは,経営がかんばしくない宿事業主が従業員のせいにする体質のコピーのようだ.
さらに,生徒という顧客層の劣化をなげくなら,まさに国営事業が失敗したパターンとおなじだ.
先生は,英語という外国語を教える教師には,英語を話せる,という条件が必要だという.そのために,顧客志向の再構築なくして,教育にはならないというのは,ビジネスの世界では当然すぎる.

そうかんがえると,国家が親に子どもの教育を義務とし,子どもは教育をうける権利があるまではよしとして,国家が直接教育内容に関与するのはいかがなものか?
憲法89条の私学助成禁止を骨抜きにしたのは,私学にも国家が関与するから,という解釈である.

これで,わが国には,独自教育をほどこす「私学」は事実上存在できなくなり,独自教育を看板にするだけで実際は国家管理という無競争状態になっている.もはや,いかなる「私学」も,国からの助成金がないと経営できないからだ.

小学校で英語教育をはじめるという.
ますます,英語嫌いを拡大生産するのではないか?と英語嫌いのわたしすら心配だ.

未完の妙

世の中には「未完」がたくさんある.
あの「未完成交響曲」も,もしかしたら「未完」ゆえの「名曲」なのかもしれない.
無限の可能性すら秘めているのが「未完」である.
これは,うらがえせば「完成させたい」という欲求があるからだ.

ということは,先に「完成」のイメージがある.
そのイメージが受け手によってさまざまに想像できるほどの出来映えだから,「未完」といっても価値があるのだろう.
建築では,ガウディのサグラダファミリア教会がそれだ.

1882年に着工され,完成に300年はかかるとされてきた.
しかし,音楽では「絶筆」ゆえに「未完成」となるが,建築には「設計図」がある.
だから,工事をつづければ「いつかは完成する」.
その間は,「未完成」の建造物を「見学」しているのだ.

あまりに壮大な設計ゆえに,この建物完成には数世代もの時間がかかるから,現代の我々は完成をみることはないと思われた.ここに,ある種のロマンがあった.
しかし,報道によれば,最新の3D技術の投入で,あと十年もすれば「完成」するというから,奇妙な気分になる.

人間の一生はみじかい.
それを,宗教建造物が形にしてしめしていたから,「完成が望まれない」こともある.
現代技術の,なんと無粋なことか.

その人間を,「合理的な行動しかしない」という条件で構築されたのが「現代経済学」であった.
しかし,あんがい「合理的でない行動」を望むことがある.
あるいは,自分のなかのえも知れぬものによって突き動かされることがある.
そのとき,ひとは「損得勘定」をしてはいない.それは,ビジネスの場面であってもいえる.

人様に役立つことはなにか?
これをかんがえることが,ビジネスの成功のタネである.
そして,これをやりきると,人様から尊敬をえることになる.
そうしたひとが,人生の成功者である.

宿泊目的が「絵を描く」というひとを集めれば,「絵画の宿」になる.
ササッとスケッチを描き上げる腕前があって,それをじっくりあとで「作品」にできるひとは,たいしたものだ.
ある場所が気に入れば,そこに住んで絵に没頭する.これができるひとは,ふつうのひとではない.

だから、おおくのひと,という「マーケット」をかんがえると,未完の作品を預かるという「サービス」があってもいい.
風光明媚な場所は,たいがい不便なところだから,そこに「画材店」があってもいい.
それで,土産物をあつかう宿の売店をやめて,画材店にかえた.
店員に知識がないとこまるから,県庁所在地の画材店に研修を依頼した.

近所に画家はいないかとしらべたら,やっぱり住んでいる.
絵画目的の宿泊客に「教室」講師を恐る恐る依頼したら,一つ返事だった.
広めの部屋を,アトリエに改装しようと計画したが,そこにリーマンショックという「大津波」がやってきた.

結局,意図せざる事態にあがなえず,あえなくオーナーチェンジとなりはてて,「未完」のまま,低価格が信条の新オーナーへと引き渡された.
いまでは,「未完」どころか影かたちもなく「お得感」だけの宿になったろう.
「苦い」思い出である.

みせびらかしの消費

ひとの欲求には,動物としての生理的なものと,社会をかたちづくることからの社会的欲求という二系統がある.
貧しい時代は,生理的な欲求がおもであることは容易に想像がつく.
それで,いまのような豊かな時代になると,社会的欲求をつよめるひとびとがでてくるものだ.

ながい封建時代のあと,なぜか資本主義がおきて(なぜだかいまだ解明されていない),それが産業革命を産み,資本主義社会が急速に発達する.その過程でしょうじた社会のゆがみを批判したのがマルクスだった.
マルクスが大英図書館で「資本論」を執筆したことを,英国人は「偉大なる書物を執筆したひとへの英国人の偉大なる無関心」といった.

その無関心な英国人のひとり,元大蔵官僚のケインズが「一般論」を書くと,これを「ケインズ革命」とよんだが,ケインズ理論を実際に国家の経済政策に採用したのは,ヒトラーだった.
政府が借金をしてでも有効需要を創出すれば,経済は回転して好景気になると.
それで,当時,だれも自家用車など所有していないのに,アウトバーンをつくった.だれもが,ドイツは「巨大政府債務で経済破綻する」とおもったが,そうはならずに「独裁」による「政治破綻」でくにが滅びた.

そのケインズの有効需要のはなしには条件があって,ケインズ本人は「不況のときの政策に限定」と強調していたが,「いつでもおこなう」のは,政府の行動原理である.こうして,マルクスの革命ではなく,ケインズの革命で国家は社会主義(富の分配は国家=官僚が行う)を達成できた.

マルクスとケインズの間に,ひとりの偉大な経済学者がいたのだが,その人の名前はいまはあまり人びとの口にはでなくなった.ゾンバルトという.
有名な著作は,「恋愛と贅沢と資本主義」である.

なぜ資本主義が生まれたかを,貴族の恋愛が贅沢な贈り物文化を活発にし,その生産が資本の蓄積を呼び込んで,消費しまくった貴族は没落し,稼いだ側が勃興したという理論による解説である.
この過程で,重要なのが「みせびらかしの消費」である.
恋人にどんな贈り物をするのか?
その中身の豪華さが,贈り主の地位であり受け取る側の価値になったのだった.

だから、だれからだれに贈るのか?というのではなく,何が,という贈り物だけに関心が集中した.

ペット,とくに犬と猫は,わが国ではすでに人間の子どもの数よりおおくなった.
「インターペット2018」が今日まで,東京ビッグサイトで開催されているので初日に行ってみた.
このイベントは,ペット同伴が可能なのである.

会場で気がついたのは,皆様が連れているペット(犬)のおおくが,たいへんきっちりと躾けされていることだった.
すなわち,「訓練された犬」を連れていることが「ステータス」になっているのだ.
だから,さまざまな「物品」や「サービス」を消費する意味が高まるのだ.

「訓練された犬」への投資という,目には見えない「背景」こそが,来場者たちの条件になっていたとおもう.
つまり,街で見かける「訓練できていない犬」の飼い主たちと一線を画す飼い主の存在である.
すでに,二極化しているのだ.

また,外国の自動車メーカーの出展も興味をひく.
ペットとドライブに出かけることをアピールしているが,それは「訓練された犬」を対象としている.
たしかに,「訓練できていない犬」とのドライブなら,それは苦難しかないだろう.

「訓練された犬」を所有する.
これこそが,この分野のみせびらかしの消費の条件なのだ.

日本をパクる中国

偽ブランド品といえば,中国製という条件反射ができた.
アメリカ大統領がこれに「罰金を課す」といったら,いきなり中朝の「外交」で対抗した.
暴力的でこまった人たち,なのだが,この人たちの手本は日本ではないか?とおもったので書いておく.

明治からこの150年間,日本という国のコンセプトは,「もたざる国の悲哀をいかに克服するか?」であったのではないか?
世界で最初に産業革命をなしとげた英国は,典型的な「持てる国」だった.
おなじ島国ではあるが,このちがいは決定的である.

日本が開国したとき,英国はすでに「持てる国」だったから,こちらからみれば相手ははるか先を走っているし,相手からみればこちらはよく分からない存在だったのだろう.アーネスト・サトウを読めば,そのへんの事情がよくわかる.

産業史を働くひとの方からみると,労働組合のなりたちの日英でのちがいも,「持てる国」と「持たざる国」のちがいとなってあらわれてくる.
岩波新書にある大河内一男「戦後日本の労働運動」(1955年)をみれば,丁寧な解説がある.
ついでに,この本の出版年に注目してほしい.

このテーマを,広くみているのが片山杜秀の「未完のファシズム」(2012年)であるから,あわせてみるとよいだろう.

 

さて,ここからが中国のはなしである.
わたしはもちろん近現代史の専門家ではない.しかし,近現代史で彼の国を「中国」とよぶとわからなくなることがおおいにある.「わからなくなる」とは,主語のことである.
つまり,いったいそれは,いつの時代なのか?とか,支配者はだれだったのか?とか,地域的にはどこだったのか?とかという,基本的なことが,「中国」ではおおきすぎてわからなくなる.

日本とちがって,200もの民族がすむといわれるから,それなりの大きさや時代における区分が必要だということだ.
ありていにいえば,「日清戦争」というように,近代のはじまりにおける彼の国は「清」だった.
ところが,この国は,「満州族」という外国人による征服政権だから,自分たちの出身地ではない南方の土地にたいする執着がない.それで,アヘン戦争とよばれる「英清(清英でもよい?)戦争」で,香港を引き渡すことになってもあわてなかった.

「満州」は,いま「東北部」とよばれているが,万里の長城の東側であるから,古代以来の歴代も,直接支配したことはない.清のラストエンペラーだった,溥儀氏をおしたてて日本は「満州国」をつくり,そこの初代に溥儀氏をすえたのは,故郷にかえってきたということだった.
だから,当時の地図をみると,いまの「中華人民共和国」がやたらと膨張しているのがわかる.

辛亥革命で,清王朝が滅亡し,できたのが「中華民国」だ.それがうまくいかなくて,結局は,毛沢東の共産党と,蒋介石の「中華民国」が内戦をしたり手を結んだりして,おわってみれば「中華人民共和国」になっていた.どちらも略すと「中国」になるから,ややこしくなるのだ.それで,蒋介石が逃げ込んだのが「台湾」だから,これを「台湾」とし,大陸を「中国」とよんでいる.

日本領だった台湾の帰属問題は,いまだに放置されているが,本来はいまも日本領のはずである.
これを,李登輝元台湾総統も指摘している.台湾独立問題のそのしたの概念には,国際法的にも日本領のはずだという問題がひそんでいる.

毛沢東が国内に引きこもってくれたおかげで,日本はおおいに「輸出」で稼げた.
その毛沢東が,大陸を支配できたのは,うまく蒋介石と日本軍が戦ってくれたからだとして,日本軍に感謝の発言をしていることは,とっくに封印されている.

ところで,明治以来の「持たざる国」の日本では,いかに人件費を安くするかが国家戦略でもあり,企業戦略でもあった.資源がない,とはこれを意味する.
この大戦略は,いまもつづいている.ここをおさえないと,おおきな物語を見失う.

それで,毛沢東が死んで,改革開放になったとき,中国人は日本のシステムをパクった.
ソ連と大げんかしたなかで,じつは日本がソ連型社会主義でもっとも成功しているとみえたのではないか?

日本にかわって,「世界の工場」になったその中国の労働者対策は,労働者の国のはずなのになにもしないという政策で,支配者がふとることしかしない.
よーく観察すると,中国は日本型社会主義の国なのだ.

現代の栄養失調

半世紀前なら,青ばなをたらした「欠食児童」が典型的な栄養不足の象徴だった.
いまは,カロリー過多でありながらの栄養失調が指摘されている.
ようは「かたよった食事」で,かんじんの栄養バランスがグズグズになっているという指摘である.
推奨される料理は,洋の東西を問わず「伝統食」であるから,旅館における地域の伝統料理がそれにあたる.

ところが,その伝統的料理にも問題がみつかりはじめた.
材料となる野菜や穀類に,ほんの数十年前にはなかった変化がではじめたというのだ.
それは,おもに化学肥料による栽培で,土壌がやせてしまい,ほんらいあるはずの栄養がなくなっているらしい.

つまり,見た目のかたちは以前のママだが,なかみが薄まっているとの指摘があるのだ.
これは由々しき問題で,「栄養成分表示基準」が狂ってしまうことを意味する.
栄養士という専門家の栄養計算だけでなく,一般人もあるはずの栄養がとれない,となれば,なにをどのくらい採ればいいのかわからない.

薄まっているのなら,かつての成分量を摂取するには,当然に「量」をふやさねばならないが,それでは「過食」のすすめになってしまう.
なるほど,食事制限をともなう「ダイエット」で,栄養失調になるのはうなずける,などというばあいではない.

これは,現代人全員にあてはまる.
それに気づいた医師たちが,本流の学会からはなれて,不足している栄養を強化する医療をはじめた.
これらの医師の主張は一貫していて,がんをふくめた慢性病のおおくが栄養バランスの欠如が原因だとしている.
急性の症状には,直接「対処」することが得意な西洋医学がよい.しかし,生命・動物としての人間が,慢性的に患う原因が栄養バランスの欠如とするのは,理にかなっているようにおもう.

もっとも深刻に「欠如」している栄養素は,「ミネラル」だという.
「ミネラルウォーター」の「ミネラル」とは,中学高校でならう「元素の周期表」にあるなかで,「H(水素)」,「C(炭素)」「O(酸素)」,「N(窒素)」の四つ(有機物)をのぞいた,のこりすべて(無機質)をいう.
そして,「ミネラル」摂取が重要といわれるのは,これらの物質を体内で合成することができないからだ.
けだし,「ミネラルウォーター」だけで,欠乏している「ミネラル」がとれるというほど安易なものではない.ボトルにある成分と含有量をみれば,これも「かたよっている」のがわかるだろう.

日本では13元素をさだめているが,これは「分析可能」という基準でもある.
「必須ミネラル」は,以下のとおり.
ナトリウム,マグネシウム,リン,硫黄,塩素,カリウム,カルシウム,クロム,マンガン,鉄,コバルト,銅,亜鉛,セレン,モリブデン,ヨウ素

「周期表」から四つを除いたものすべてが「ミネラル」というのは,つまり,「地球」ではないか?
そもそも,ミネラルから除かれる四つは,「有機物」だから,これらがなければ人間としてのからだが存在できない.これに,「ミネラル」がないと「栄養失調」になるのだから,地球を食べよ,ということになる.

すなわち,なんとなくの「知識」にすぎなかった,太陽系のはじまりから「生命の誕生」を経て,われわれ人間にいたるものは,地球のなかから生まれた,という単純さに回帰しているにすぎない.

農地が痩せるのは,むりやり作物をつくるからで,そのために化学肥料が投入される.これに農薬も加わるから,土壌のなかの微量な成分はとっくにうしなわれている.
そもそも,化学肥料は植物の成長にひつようなおもな成分だけしかふくんでいないからである.
だから,形がおなじでも中身がちがう,ということになる.

もちろん,昔ながらの農法でつくるものはよいだろう.
しかし,化学肥料や農薬をつかって大量につくることも否定はできない.そうでなければ,安く大量に,すなわち便利な生活ができないからだ.
その見返りに,わたしたちは,「ミネラル」という栄養を欠乏させ,病気になっている.
なんとも因果なはなしなのだ.

だから,そう遠くない将来,「ミネラル強化」というサービスや食品が,ふつうになるにちがいない.
「ミネラル療法」は,そのさきがけなのだろう.

しかし,一方で,デカルトの動物機械論のようになると,それはそれで不気味である.
ほどほど,をかんがえなければならない.

もうすぐトランス脂肪酸が話題になる

アメリカでは,ことしの6月から,水素添加のトランス脂肪酸含有食品が禁止になる.
あと二ヶ月ほどだから,もうすぐ日本でもトランス脂肪酸が話題になるはずだ.
なお,水素添加ではない反芻動物のトランス脂肪酸は自然にできてしまうので規制の対象ではない.つまり,人工的・工業的に油脂(おおくは植物性)に,圧力をかけて水素をくわえると固まることでつくるものが対象になるということだ.
代表的なものは,マーガリンや,パンの原料になるショートニングである.
これらをつかった,あんがいすごい量があるのは,ポップコーンやドーナッツである.

ちょっとだけ化学のはなしをすると,不飽和脂肪酸の分子構造は二種類ある.
「シス型」と「トランス型」である.
シス型は,二本ある水素分子の枝がおなじ方向についているから,「SIS」といい,トランス型はこれらが対象になって「横切る」ようについているから,「TRANS」という.シス型は棒の両端からアンテナがでている格好で,トランス型はカギ状になる.

それがどうした?ということだが,トランス型は動脈硬化の原因になるという証拠がでてきた.それは,HDLコレステロールを減らしてLDLコレステロールを増やすからで,心臓疾患につながるというのだ.

それで,WHOも,カロリー摂取量の1%以内という指針をだしている.
アメリカ人は,ポップコーンやドーナッツが大好きだから,この指針をおおきくこえてしまって摂取している.それで「禁止」という最強の規制をうちだした.
この規制によって,年間4000人とかの心臓病患者数がへると期待されている.

アメリカのほかに,すでにデンマークなどで規制されているし,EUも規制の方向で検討している.豪州では「自主規制」をかけていて,効果をだしている.

で,日本は?となる.
この問題のまえに,平成14年に「健康増進法」ができて,「健康日本21」というのがあるのをご存じだろうか?
それで,「国民大会」とか「推進国民会議」などというものがおこなわれている.
これは,むかしさかんだった「国民運動」というやつだ.
だから、正式名称は,「21世紀における国民健康づくり運動(健康日本21)」となっている.

ヒトラーのナチス(‎国家社会主義ドイツ労働者党 )が,選挙によって政権与党になったのには,当時のドイツ国民から支持された人気政策があったからだ.それが,「健康推進」だった.
ナチス党員のパン屋は,お客の健康のため,黒パンしか焼かなかった.白いパンは害となるからだ.こうして,お客は白いパンをたべることができなくなったが,健康のためと自分にいいきかせた.

ついでにいえば,ヒトラーは個人的にたばこが嫌いだった.
それで,ナチスはたばこ撲滅運動を熱心にやった.
第二次大戦の戦争映画で,ドイツ軍側の登場人物がたばこを愛好していたら,それはナチスにさいごまで抵抗した国軍の意地を表現しているはずだ.
くわしくは,「健康帝国ナチス」を参照されたい.

 

それでか,「健康日本21」には,「政府が国民に押しつけるものではない」と,Q&Aにて説明している.全体主義は,「個人の自由」をとなえながら奪うものだ.
語るに落ちるとはこのことか?

神奈川県を嚆矢に「禁煙条例」ができたが,罰則をともなうその原案には「家庭内」もあって,これはすぐに削除された.しかし,東京都の「禁煙条例」では,その「家庭内」を柱とするというものになったから,そうとうの「進歩」である.
ひたひたと国家や公権力が家庭に上がり込んでくる時代になった.

この条例を通した女性知事は,「保守政治家」と分類されるらしいが,すくなくても公権力が家庭にくることを拒否する「個人主義」や「自由主義者」ではないだろうから,いったいなにを「保守」するというのか?防衛大臣を経験すると,自動的に「保守」になるのだろうか?
日本における「保守」の定義は,英国の「保守」とは正反対なのだろうから,用語に乱れがある.

というわけで,大がかりな「国民運動」が10年以上もおこなわれているのだが,トランス脂肪酸のはなしとなると,急速にトーンダウンする,というより「運動」の対象になっていない.
農林省のHPには,欧米人の摂取量より日本人の摂取量がすくないから,とくに問題なしとしているし,もしもおおく取っているとおもうひとは「自分で注意して」,国としては「留意する」としている.「留意」とは,「放置」のことだ.

つまり,WHOがいうように「危険は承知」だが,「だいじょうぶ」気にするな,ということにしているのだ.
それで「なにもしない」ときめたから,「表示義務」もしない.
明治以来の伝統的な「産業優先」という,わかりやすい態度である.

それでか,業界の一部が「自主公表」という行動をとっている.おそらく,消費者からの問合せがおおいのだろう.だから,食を提供する側は,消費者の敏感さに注意をはらう必要がある.
各社のHPをあたると,公表している企業とそうでない企業がわかる.
あんがい有名どころが公表していないから,「へぇー」とおもうものだが,「情報リテラシー」のないひとは,しらべることもできないから,気にしないで食べるのだろう.

それが,お国の方針だから,しらずに国家依存していることになる.
公表していない企業がつかう広告費がおおきいから,マスコミはもしかしたら6月になっても大々的な話題にしないかもしれない.英字紙かBBCやCNNなど英語ニュースしか扱わないのか?

さて,どうなるのか?
いろんなことを観察できそうな6月になる.

みんなで貧乏になりたい

「貧乏物語」というと,あの河上肇教授のものが有名だ.
「あの」というのは,「本物の共産主義者」であって,「あの人」近衛文麿が師事した人物だからだ.

五摂家筆頭の近衛家のお坊ちゃまが,共産主義に賛同する,というところが日本的である.
これは,戦後にもみられる現象で,「あの」連合赤軍事件でつかまった吉野雅邦の父は東京丸の内にある大企業の役員だった.

お坊ちゃまに「やさしさ」と「社会正義」がくっつくと,「活動家」になるという化学反応である.
近衛は河上肇をしたって東大から京大に移籍し,学生時代にオスカー・ワイルドの「社会主義下における人間の魂」を翻訳し、それを『新思潮』に発表している.

河上肇版にくらべると地味だが,その内容がいまでも色あせないのは,大河内一男教授の「貧乏物語」である.
さいきんの「格差もの」がいう論点の薄さがわかる.

日本に「労働市場」がない.
これはおおくのひとが気づいていない重大なポイントである.
「労働市場」とは,「市場経済」のなかの「商品市場」のはなしである.
いわゆる,ふつうの物質的「商品」ではなく,「労働」という商品をさす.

労働者はじぶんの「労働力」を売っている.雇用者は,その「労働力」を買っている.
この関係を,「労働市場」という.
労働者の人格をふくめたすべてを売り買いするというのは,「労働市場」にはなじまないから,これを,「人身売買」といって区別する.
だから、ほんらいの「就活」というのは,学生がはじめて自分の労働を売ろうとする活動をいう.

ところが,「就『職』」を,企業組織に自分を引き渡すような意味としてとらえれば,それは「人身売買」になるから,嫌がこうじると「病気」になったりみずからの命を絶ったりする.
そんな企業組織が,「反省」して「残業抑制」をしようとすると,午後10時にオフィス内の照明電源を落とすことで解決できると思い込む.

そして,それが「ニュース」になって報道されるが,だれだってそんなやり方が「残業抑制」になるとはおもわない.おもわないのに,それを命じるえらい人がいる.
きっと命じるえらい人も,「根本対策」とはおもっていない.
しかし,ほかにどうしたらよいかが思いつかないのだろう.だから,命じるしかない.
どうしたらよいかが思いつかない人が,えらい人になっている.
えらい会社である.

しかたがないから,社員は深夜喫茶にいって仕事をする.
そうでないなら,はやく帰宅して自宅で仕事をしたり,早朝に出社して仕事をする.
不思議なことに,深夜まで残業するのはいけないが,始発できて始業までの時間に仕事をするのは残業ではないらしい.

社内で「業務の棚卸し」ということをやるとそれなりの効果がある.
ところが,取引先の業務まで「棚卸し」はできないから,取引先もふくめた一斉見直しをしないといけない.
そんなことはできないから,なにもしない.
取引先との取引条件もしらべない.

もしかしたら,「市場経済」の根幹の「市場」が機能不全をおこしているかもしれない.
「市場」のルールは,「取引条件」のことである.
「取引条件」に理不尽なことがあれば,それは修正されなければならない.
だれが「修正」するかといえば,取引の当事者たちである.

しかし,当事者で「修正」できない邪魔がはいることがある.
それが,政府だ.
鳴り物入りできまった「民泊」も,さまざまな「規制」の「法制」になったから,これまで「ヤミ」(法律がないから全部「ヤミ」になる)でやっていた「業者」も,「法治」を旨とするところほど「撤退」「廃業」するはずである.
年間180日しか営業できないから,この「規制」だけでも採算がとれないだろう.

お願いだから,政府はなにもしないでください.
そうおもっていたら,大阪の私立小学校の土地問題で,ほかになにも議論しない国会になった.
これ見よがしに追求する野党も,追求されるひとびとも,もうどうにも止まらない.
えらい国に住んでいる.
お金持ちほど外国移住がさかんになった.
のこされたその他おおぜいは,みんなで貧乏になるしかない.
「希望」がないから,「希望」が「政治用語」になるわけである.
納得.

天邪鬼のススメ

「片意地をはる」とかという意味ではあるが,ここでは「他人とちがうことをする」としてはなしをはじめたい.

「他人」があつまると「マス」になる.
「マスコミ」とは,「他人の集団の意見」ことである.
ところが,ほんらいたくさんあるはずの「他人の意見」を,集約してしまっているから,あたかも「それしかない」とか「みんながそうおもっている」と勘違いをうながすことになる.
これが,「偏向報道」といわれることの原理である.

マイケル・ポーター教授の「競争の戦略」では,いかに他人とちがうか?,が重要なテーマとして語られている.ぜひエッセンシャル版ではないオリジナル版をおすすめしたい.

日本人の特性として,他人とおなじでいたい,というものがある.
不思議なもので,他人とおなじだと「安心」するのだ.
だから,「就活」の学生は,まるで「制服」のようにおなじ服装で面接にのぞむ.
さらに,世にある「面接攻略本」をかならず読んでくるから,わずかな時間で自己PRをすべき「面接」で,おなじことばをはき出すから,「面接官」には拷問のような時間になる.

もちろん,「面接官」にもしっかり勘違いしたひとがいて,「選ぶのは自分だ」とおもっている.
それで,パワハラ面接とか,圧迫面接とかいう手法も生まれているようだ.
しかし,これも「緊急事態」を演出することで,どんな反応や回答を示すのかをみる,ということをしないと,コピーのようなひとたちの評価ができないとして,正当化されているふしがある.
それこそが,「緊急事態」なのだろう.

なぜ,わたしたちは,他人とおなじであると安心するのか?
厳しいいいかただが,思考力が退化したのではないかとおもっている.
これは,オルテガのいう,「大衆の反逆」そのものではないか?

わたしたちは,人類史上かつてなかった世界最先端の「大衆社会」に生きているのではないか?
おそらく,疑問の余地はないだろうから,確定してよいだろう.

だからこそ,他人とちがうことを探すことが重要なのだ.
「コピー」として扱われるということは,消耗品になる,ということを意味する.

どうして国(文科省)も,地方(自治体)も,高等教育をしたがるのか?
「多様性」ということばをつかいながら,じつは「コピー」をつくろうとしていないか?
わたしは,これからの人口減少社会をかんがえると,義務教育は二段階に分けるとよいとおもっている.

第Ⅰ段階が,必修の初等教育である.これは,いまの小学校である.
第Ⅱ段階は,選択必修として,文字どおりの「選択」ができることが重要だ.
「進学コース」なら中学校へ.
「職業コース」なら,職人のもとに預けながら,「中学必修」を受講させる.
「職業コース」は,中学あるいは高校,大学級でも「選択」可能とする.
これは,職業人をリスペクトするような方策である.
もちろん,いったん「職業コース」を選択しても,高等教育の門戸は開いているから,相互に行き来できる.

「ローテクの最先端は実はハイテクよりずっとスゴイんです。」という本があった.

その通りである.
高等教育のひとには,高等教育なりのアイデアの創出が要求される.これが,新しい価値を産むからだ.
それをじっさいにつくろうとすると,「ローテク」は欠かせない.
「設計図どおりにものがつくれたら,倒産する工場はない」
「どうやったらこの形がつくれるのか?それが問題だ」
下町のカリスマ,岡野工業の岡野雅行氏のことばである.

すべての人間に「選択肢」をあたえないで,高等教育へ一直線で進めるという発想は危険である.
とにかく,豊富な選択肢が用意されていること.
これが,天邪鬼の発想である.
1980年(昭和55年)の大ベストセラーは,ミルトン・フリードマンの「選択の自由」だった.

この本が主張している,「自由主義」は,もはや世界の常識である.
ところが,日本で「自由主義」は,忌み嫌われている「主義」なのだ.
「みんな平等」というありもしない幻想が,最優先の価値観になってしまった.
なるほど,「就活」の学生の服装が,「人民服」にみえるのは気のせいか?

目的合理性が不明な社会

ふだんの生活で,どこまで「目的合理性」を意識しているかと尋ねられたら,ほとんどのひとが「?」とこたえるだろう.
そんなことかんがえたこともない,といわれるのがオチだ.
しあわせな社会である.

むかし経済学を学ぶものは,必読といわれたのが「ロビンソン・クルーソー」である.この本は,子ども向けからそろっているのだが,「教授」はかならず「岩波文庫で」と言ったものだ.
それで,気軽に手にしてみると,びっしりとページをうめつくした活字におどろいた.

 

無人島にひとりながれついたロビンソン・クルーソーは,どうやって生きるかをかんがえ,さらに,いかに快適にすごすかもかんがえた.
とにかく,島には一人しかいないし食料生産もまだしていないのだから,ムダにすごすと「損」をする.食料をさがすことを優先させたいが,それだけでは屋根のない状態は改善しないから,放置すれば風邪をひく.
そこで,かれは木の幹に,どちらの行動をするほうが「得」かをかんがえるために,比較表を刻みこんで熟慮するという方法をおもいつく.

「どっちが得かよくかんがえてみよう」というわけだ.
かれのこの思考を,「経済合理性」として,ロビンソン・クルーソーそのひとを,「経済人」と呼ぶことになった.
それで,「経済学」の対象は,「経済人」になった.

つまり,「経済人」とは,「経済合理性」を追求するひとのことをさす.
そして,「経済合理性の追求」には,「熟慮」がいるのだ.

以前,このブログで,日本経済について,欧米の経済学が通用しないことを書いたが,欧米の経済学の基本は,登場人物が,「経済合理性のある選択をする」という前提がある.
はたして,この前提が,現代の日本経済の前提にもなっているのか?と問うと,あんがいあやしくないか?

「熟慮」というキーワードもいけない.
いまの日本で,ものごとを「熟慮」しているひとがどのくらいいるのか?
つまり,日本人は,かなり「経済人ではない」.
むしろ,「快楽主義」にひたった「安易さ」を追求する国民なのではないか?

まさに,この世の春,である.
桜が開花し,春爛漫な今日この頃.
落語の「花見酒」を地でいく姿は,けっして「バブルのころの思い出」ではなく,いまでは日常のなかに組みこまれてしまった.

この切ない気分はどこからやってくるのか?
刹那主義の宴はつづく.

漁協レストランに行ったら

春の風にのって,たまにはどこかにでかけよう.
それで,ドライブがてら「漁協レストラン」にいってみた.
「漁協」だから、ふつうの飲食店とはおもむきがちがうのは予想どおりなのだが,ちがいすぎた.

ランチの定食を二人で食べたら,6,000円を超えた.
もちろん,味は「さすが」である.
とくに魚の味は,格別であったことはいうまでもない.

しかし,どこかがちがう.
それは,価格とサービスが一致していないことだ.
つまり,とびきりの「魚」だけが強調されてはいるが,それ以外が欠如している.
「商品」としてかんがえている姿ではない.

これは,かつての「工業」に似ている.
「いいもの」であれば「売れる」という発想そのものだ.
しかし,VHSとbe-taの闘いがそうであったように,工業の世界は,とっくに「いいもの」は「売れる」という発想を捨てざるをえなかった.

しかし,だからといって「工業」が順調なわけではなく,むしろ苦悩はつづいている.
「顧客志向」を見失ってしまったからだろう.
それは,「顧客側」の変化である.
かんたんにいえば,同じ価値観の「顧客」のおおきなかたまりが,なくなってしまったのだ.

大量生産におけるコスト・メリットに固執すると,それを消化できるおおきなかたまりが不可欠だが,国内にそんなものはもう存在しない.
では,海外はどうかといえば,現地生産など直接生産をしないと,かんじんのコストがもはや見合わない.
それで,「顧客」がだれだかわからなくなってしまった.

このレストランの「発想」も,「いい魚」をだせばよい,から抜けきれない.
その「魚」の価値があがってしまった.かつてのように「獲れない」からだ.
だから,「原価」から単純に「売価」をきめると,一人前3,000円以上の「定食」になる.
そんなにするのなら,お茶,ごはん,みそ汁,漬物といったパーツをどうするのか?
それに,案内方法,店内内装といった雰囲気作りはどうするのか?

これらが,まったく考慮されているとは思えない.
「この商売はなにか?」
いまや結果的に,上から目線になってしまっているのだ.

こうした「店」が,各地に存在する.
反面教師として,参考になる.
「漁協」ならではの店である.
しかし,「農協」も似たようなことをしているから,「漁協」だけのことではない.

個人経営だったら,おそらく存立しないビジネスモデルである.
存立しないものが存立している.
ここに,この国の「文化」がある.
残念な「文化」のひとつのである.