タクシーはどうなっている?

ポーランドの公共交通機関のはなしを先日のブログで書いた(「むかしの方が便利だったこともある」).しりあいから「タクシーはどうなっている?」と質問された.せっかくなので,記述しておこう.

「組合」経営だった

ポーランドのタクシーは,個人事業主が集合した「組合が会社」になっている.ドライバーライセンスは認可制だ.そこで,個々のドライバーは,自分のキャリアを示して,好きな会社に応募することからスタートする.おもに採用審査では,その人物の「評判」をみるそうだ.とくに重要なのは,お客様からの「評価」で,会社ごとに管理されている情報が,業界内には「公表」されるという.

社会主義体制からの転換期の社会混乱は,この業界にも影響して,メーターを無視したり,遠回りをしたり,脅迫まがいの行為があったりと,安心して利用できない時期があったという.それで,売上が激減し,業界として存続の危機におちいった.

困り果てたまじめなドライバーたちが集まって,組合をつくり,会社のようにした.電話予約の窓口を一本化して,同じデザインのマークを車両に表示した.なによりも,利用客からのコメント情報を収集して,クレームやトラブルをデータ・ベース化したのが効いた.これによって,評判の悪いドライバーが特定できたから,組合除名という制裁が可能になった.はじめは,ある組合を除名された不良ドライバーも,別の組合に移籍することでタクシー運転手として仕事を継続できたが,だんだんと,組合間の競争がはげしくなってくると,不良ドライバーの所業が組合会社全体の「信用」に影響がでるから,業界として不良ドライバー追放キャンペーンがおこなわれるようになった.当然だが,これに利用者が賛同して,それまで以上の情報が寄せられるようになり,とうとう不良ドライバーは業界から追放されつくして皆無になった.内部では,はげしい罵倒のやりとりがあったという.

このような仕組みができたので,タクシー・ドライバーは同じ地域内なら,ほとんど「転職」の必要性がなくなった.組合内部の会議では,常にサービス向上が議論されていて,どうやったら自分たちの「組合」がお客様から指名されるようになるかを追求しているという.これぞ,正しい「競争」である.

完全出来高制になった

社会主義時代のタクシーは,当然に国家が統制していた.競争がないかわりに,賃金も低かった.サービスという概念が希薄で,乗車地点から目的地まで行く,だけだから,急ぎの用がないなら一般人はめったに利用しなかったときく.

これが,個人事業主の集合体になったから,収入は出来高制である.無線配車係が気を配るのも,公平性の維持だという.お客様がリクエストした地点にもっとも近い車がGPSでわかるようになって,だいぶ楽になった.また,運転手は降車精算のさいに「車番」記載のカードをくれる.自分を指名してください,という意味だ.忘れ物やクレームにも使えるから,自信のカードでもある.指名があっても,営業中のばあいは別の運転手が配車される.事務所に帰ると「今日,あなたのお客さんを乗せたよ」と情報交換するのも仲間の礼儀だ.

チップがいらない

ポーランドのタクシー料金には,「サービス料」が含まれている.だからチップがいらない.おどろいたのは,チップを拒否されたときだ.「表示料金どおりですよ」と笑顔でいわれたときには,一瞬わからなくなった.それで,「カード」を要求したら,「次回も待ってます」といって渡してくれた.この街で,タクシーに乗るならこの運転手さんに決めた.

「おもてなし」を「仕組み」に換えたよい例だ.

アイデアを企画にする

居酒屋での「うちの会社は」談義のおおくはアイデアであって,企画ではない.企画には,目的と予算がつきものだ.予算とは,売上と経費の両方である.だから、企画業務とは,アイデアを企画に昇華させて,それを変換して具体化するプロセスを指す.

企画のタネはアイデアなのだが

どの企業の企画担当者も,アイデア出し,で苦労する.企画への出発点だから,当然といえば当然である.ところが,いざ具体化すると「いい企画がない」とか,「やってみたけどピンと来ない」とかの失敗例が並ぶことがある.

「目的」をうっかり忘れると,うまくいかない.そんなことあるかと思うむきもあろうが,考えすぎて「視野狭窄」におちいることがある.ここでいう「目的」には二種類あることも忘れてはならない.もっとも深いベースとして存在する「目的」とは,企業の「事業目的」である.これをふつう「経営理念」と呼ぶ.「もっとも深いベース」にあるのだが,これを裏返すと,「最上位概念」になる.どんな「企画」も,「最上位概念」からズレると,成功の見通しはつかない.A社でうまくいったのに,B社では浮いた感じになる,という事例のおおくは,最上位概念からのズレが原因だ.

もう一つの「目的」は,その「企画」の目的である.結果的に「視野狭窄」症状におちいってしまうのは,この「目的」すら忘れて「自己目的化」したときに発症するが,その「企画の目的」自体が「経営理念」と矛盾しないことや,一貫性があることが「必要」なのである.「必要」であって「重要」なのではない.

だから、アイデア出しの段階から,「経営理念」がすり込まれていないと,方向が狂ってしまう.

「経営理念」がおかしい

じつは,あり得る大問題である.「経営理念」は「不磨の大典」ではない.だから、変更してよいものだ.もちろん,めったに変えるものではないのだが,それは,企業の事業目的がめったに変わるものではないからである.もう一つが,詰めの甘い経営理念がある.きれいごとが記述してあるだけで,その企業の「顔」がみえない文章を「経営理念」にしてしまっているばあいである.

詰めの甘い経営理念であるばあいは,早急に「煮詰める」ことが重要だ.自社の「顔」となる,事業の特徴はなにか?ということを「哲学」する.この場面でも,アイデア出しというプロセスが必要になる.おそらく,この作業をつうじても,なにをすべきかの「企画」がうっすら浮かぶことがある.それは,上述のメカニズムが働きだすからだ.最上位概念がはっきりすれば,行動の方向性の見え方まで変わる.

事業目的が変わってしまったのに,それに気づかない,ということはあるのか?答は「ある」だ.これを,「灯台もと暗し」ともいう.とかく企業内部にずっぽり浸かってしまうと,大きな変化に気づかないでいることがある.よくあるケースが,業容の拡大をはかって過去に多角化経営をはじめたばあいだ.「専業」だった分野から「周辺」事業にも進出したり,「専業」のなかでも「分化」した事業をはじめたばあいなどがあたる.

「専業」時代につくられた「経営理念」が,多角化によって事業分野が拡大したのに,「不磨の大典」として変更できないと信じているか,単純に放置されているかにかかわらず,現状と見合わない,ことにはかわりはない.だから,このような企業のばあいは,「専業」にかんする「企画」はまわるが,多角化事業については,「企画立案」段階,すなわち「アイデア」もでないことがある.その理由は,古い経営理念が,新しい多角化事業をカバーしていないからである.

いわゆる,「本社」の経営理念が,「子会社」の事業を想定していないばあい,子会社の「行動原理」として,子会社の経営理念も策定できない状態になる.子会社設立時に,資本の出資方法や割合,あるいは会社設立登記については,会計士や税理士,弁護士や司法書士がアドバイスしてくれるが,そのとき,経営理念についてこれら「士業」の専門家は「専門外」になるからコメントもないだろう.そもそも,会社登記でいう,事業の「目的」は「経営理念」を記入するものはでない.

つまり,「本社」の経営者自身が気づかなければならないことなのだ.この「うっかり」は,未必の故意ではないかと疑いたくなるほど,大きなマイナスの影響を子会社経営にあたえることになる.要は,グループ経営とは何か?という命題への取り組みがないことの証拠なのだ.このような状態のなか,子会社で「不都合」な何かが生じたとき,責任をとらされるのが子会社の経営者だけとなるなら,「本社」経営者の完全犯罪が成立する.おそろしい世の中である.

アイデア出しは経営者から

アイデアをうながす方法やツールは,アナログであれデジタルであれ,たくさんある.KJ法という,世界が認めるアイデア出しとそのまとめ方ノウハウは,川喜多二郎が1967年に『発想法』(中公新書)で発表したものだが,いまでも十分に活用できる.近年では,トニー・ブザンが開発した「マインドマップ」が有名だ.

スマートフォンやタブレットといったモバイル端末で,これらのツールが使える時代になった.ひとりでも,ネットでつなげばグループでも「アイデア出し」が手軽にできる.大企業経営者なら社用車の中で,誰気兼ねなくいじれるものだ.企画担当の平社員たちは,とっくに活用しているにちがいない.本来は,人員がすくない中小・零細企業にこそ必要だろう.「アイデアすら出せない」とすくない従業員を呪うまえに,経営理念のチェックを経営者はすべきである.従業員は鏡の中の経営者の写し姿なのだ.

経営者目線でのアイデアを企画にしてほしい.

「ゆでがえる」状態からの脱出はできるか?

こどもは残酷なことをして,学習することもある.こどもが「自然とたわむれる」というのは,だいたい昆虫や小動物を捕獲して,最後は殺してしまうことをいう.カブトムシ,クワガタ,セミ,バッタ,コオロギ,スズムシを捕獲しても,幼虫から育て成虫までにすることはほとんどない.これらの昆虫は,標本キットでピン留めし,保存するのがせいぜいだろう.コンクリートばかりの都会では,ずいぶん前から珍しくなったのはカエルだ.アマガエルやトノサマガエルは,昔のこどもの身近にいた小動物のひとつだ.

カエルにたばこを吸わせると,息を吐くことをせずにどんどんお腹がふくらんでいき,最後は破裂してしまう.そして,煙がもっこり立ち上がるのがおもしろいと,つぎつぎにカエルを捕まえては「実験」する.これが高じると,つぎは「ゆでがえる」実験となる.熱湯の鍋にカエルを放り込むと,ものすごい筋力で飛び上がって逃げてゆく.ところが,水の状態から鍋に入れて火をつけると,途中,じつに心地よさそうに顔も手足も弛緩するのだ.まるで笑顔で,「いい湯だな」を彷彿とさせるほどの無気力状態になる.そして,このままの姿でゆであがってしまう.ちなみに,以上の実験はすべて屋外でのことだ.

企業組織のゆでがえる状態とは

いわゆる弛緩した組織を指す.そして,こうした組織は居心地がいい.なんとなく仕事をしているから,残業がおおい.けれど,残業代がもらえるから,はやく帰るよりずっといい.弛緩しているのは筋肉だけでなく精神もだから,自己研鑽のための勉強をする気もない.では,管理職はどうかというと,職場間のすりあわせに時間がそがれる.「調整」することが仕事であって,「新しいこと」はできるだけやらない.「調整」がよりハードになるから,それはとにかく面倒くさい.仕事のやり方や人員に関することになると,労働組合との交渉まである.一番お気軽なのは役員である.誰もいない執務室で,たとえマンガをながめていても,もはや誰からもおとがめはない.部長職以下の部下が面倒な相談を持ち込んでも,それっぽいことを言えばそれですむ.プロジェクト会議の席で「失敗は許されない」とむずかしい顔をしてすごみを効かせれば,全員がごもっともとうなずくばかりである.そして,上級職の役員にだけ気をつかえばよい.自分の「上」にはあと何人いる,と指折り勘定する毎日だ.

社内でなにが起きているかに興味がない

組織の中枢がそんなわけだから,末梢は退化する.それはまるで糖尿病の合併症のように,毒によって組織の末端神経が消滅するにひとしい.だから,「現場」では,ときに通常ではあり得ないようなトラブルが発生する.それは,企業の命運を左右するような事態にまで発展することがある.

報告を受けた中枢部は,きっと「何をやっているんだ!」と叫ぶだろう.そして,その事象が発生した部署の担当役員以下による「犯人捜し」がはじまるのだ.「原因」追求ではないことに注意したい.あくまでも,特定人物を探索するのである.もし末端の犯人が特定できなければ,その上司が処分の対象になるから,必ず犯人をみつけだす.そして,その人物は組織から追放され,一件落着である.すなわち,本質的になにが問題なのか?ということに最初から興味がないのだ.あるのは,「秩序の維持」という名分にかくされた「支配の維持」である.

以上は,かつてソ連・東欧圏で日常的に起きていたことだ.まさか,読者は,最近の「日本企業のことかな?」と感じたかも知れない.そう,日本企業は企業ごと社会主義国化しているのだ.すると,これら企業を「指導・監督」する役所は,差し詰め「コミンテルン」ということになる.

第三者委員会とは,経営の放棄である

不祥事が発生すると,いつの頃からか日本企業は「第三者委員会」という組織を立ち上げて,「原因調査」することになった.よくこんなことで株主が納得するものかと,そちらにも呆れる.「第三者委員会」に招集される,全国的知名度の有名弁護士や,経済学者,評論家は,無料で調査してくれるのだろうか?この委員会の活動そのものが,経営ではないか?すると,株主は二重にコスト負担しているのだ.すでに株主は企業のオーナーではなく,単なる株価相場の変動による利益を得るだけの存在になった.「経営責任」を追求する振りをしているのは,その企業とは関係のない,まさに「第三者」であるマスコミである.ただし,このときの「第三者」とは権限のない「外野」のことである.

だれが経営しているのか?

日本の大企業を経営しているのは,「廊下トンビ」をしている中間管理職である.彼らが決裁書を作成して,ハンコをもらってあるく.国の官僚機構とそっくりなのだ.大企業では,「決裁書」がなければ意志決定ができない.すべては「決裁書」に集約されるから,どんな内容を書くのかで決まってしまう.役員会はとっくに「閣議」とおなじく形骸化してしまった.それで,「社外役員」というアイデアをおもいついた.社内昇格者ばかりだから,外の風にも触れようという魂胆だった.しかし,企業を実質的に経営しているのは,中間管理職だから,外部から数人を呼んだところで何も変わらない.

「規制強化」の意味

日本国を実質的に経営しているのは官僚という役人だ.不祥事を起こした企業にはそれなりの危機感はあろうが,役人に危機感を期待すること自体がムリというものだ.古今東西,役人が危機感をもつと,国民には悲劇的な結末が待っている.役人の危機感とは,現状がこわれることのみである.つまり,役人が言う「改革」とは,現状強化の意味であるから,民間人がかんがえる「改革」の意味とは真逆だということを意識的に覚えなくてはならない.そこで,不祥事が発生した場合の予防対応として役人がでてくると,かならず「火事場ぶとり」となって,負担するのは国民になる.すこし前なら,汚染米偽装事件がそうだった.流通する米の伝票をチェックする,という壮大な予防策に,いったいいくらの予算と人員がついたことか.このとき増員された人員は,潜在的失業者とかんがえてよい.このコストを,国民は米価で負担させられている.しかし,役人は「受益者負担」とうそぶくのだ.

自動車会社によるひと世代以上前からの,「完成検査の不正問題」は,輸出において問題になっていない.欧米諸国が訴追を含めて制裁しようとしているのは,素材メーカーによる製品品質データの改ざん問題の方である.かくも長期にわたって,自動車の完成検査「不正」に気づかなかった役所の怠慢をほおかぶりして,これ見よがしに騒ぎ立て,リコールまでさせたのだ.このリコールによる数百億円にわたる損害も,最終的には消費者が負担するしかないものだ.それなのに,今後の対応としてきちんと検査をさせるための方策を実行するとは,狂気の沙汰だ.国内の消費者だけが,ムダな費用を永久に負担させられる.輸出向けは,相手国が完成検査など要求しないのでその分安くなるだろう.これで「ダンピング」呼ばわりされたら,メーカーは立つ瀬ない.国交省は検査をさせて,経産省がやめさせるのか?マッチ・ポンプとはこのことだ.いったい,誰のための役所なのか?まさに,役人の都合でいかようにもなる事例である.こんなはなしを,「大臣」が胸を張って発表するさまは,愚かさを絵に描いたような姿である.自分がこないだの選挙で当選したことも忘れてしまっているのだろう.有権者は,次回の選挙での投票行動を考えなおさなければならないが,どうも怪しい.こうして,ゆでがえるの有権者がゆでがえるの代議士を産む.

国も,企業も,中間管理職に犯されている.それを阻止する,政治家も経営者もいない.

国民も,自分がゆでがえる状態であることに気づいていない.

むかしの方が便利だったこともある

日々世の中は進歩している,とかんがえるひとは多いのだろうが,どっこいそうでもないことがある.

都心部で自家用車を持っていないひとはおおい.地方ならひとが住める金額でも,月契約の駐車場代に足らないからだ.それにカーシェアリングもすすんできだ.そもそも,都心部はどこに行くにでも交通の便がいい.最近では,低床の路面電車が見直されて,地方都市の顔としての新設も議論されている.

トロリーバスの絶滅

わたしが棲む横浜には,路面電車もトロリーバスもあった.東京には,荒川線が残っているから路面電車はあるが,トロリーバスはなくなった.黒四ダム観光の足だったトロリーバスも廃止されるというから,この国からトロリーバスは絶滅する.

ハイブリット車や水素自動車,さらにEVと,「環境にやさしい」とされる乗り物がもてはやされる時代に,どうしてトロリーバスは絶滅するのだろうか?一昨年訪問した,ブルガリアやルーマニアといった,かつての社会主義圏の国では,いまだ運行はしていたが,それでも廃止路線が多いようで,ずいぶんトロリー架線が撤去されずに放置されていた.一部では,切れた架線が道路に垂れ下がっていたが,電気はきていないのだろう.その横で,街路樹の枝も垂れ下がっていたから,整備予算が枯渇したと考えられる.

将来ディーゼル車の販売ができなくなるというヨーロッパで,トロリーバスはどういった位置づけなのか興味深い.本当は,「環境にやさしい」ということが優先ではなく,単純に「産業優先」なのではないかと疑いたくなる.もっとも,電気をつくるのに主に石油やガスを燃やしているから,電気が「完全にクリーン」であると考えるわけにはいかない.まして.原子力は「クリーン」どころではなかった.しかし,ハイブリッドや水素を用いる方法よりは,「環境にやさしい」のではないか.EVも,しょせんは発電所の電気を必要とする.

何年も前のことだが,ギリシャのアテネには何度か行ったことがある.いまでもこの街にはトロリーバスが走っている.路面電車もそうだが,「電車」に分類されるトロリーバスは,はじめて訪れる観光客にもやさしい乗り物だ.路線や停留所を間違えても,終点までいけば必ず戻ってくるはずだし,循環路線もある.地上を走るから,車窓からの景色も楽しめる.

横浜のトロリーバスは,開業が1959年,廃止が1972年だったから,わずか13年足らずの営業運転だった.東京オリンピックによる三ツ沢競技場への足という設置理由が,懐かしくもあり新しくもあり.廃止理由は,市電の廃止による変電設備の撤去と,バス車体交換の購入値段が,ふつうのバスの三倍程度もするということだった.ふしぎなもので,トロリーバスばかりに乗っていたわたしには,ふつうのバスが珍しかった.

市内の交通量増大で,渋滞のもとになったとの判断も廃止理由だ.市電が渋滞のもと,ならまだわかるが,「バス」でもあるトロリーバスが,渋滞のもとだという指摘は子どもにも解せない説明だった.それに,市電の利用者にとっては,渋滞していても,電車が接近すると自動車の方が線路をよけて走ったので,バスよりはやく移動できたから,自動車の増大をにくんだ.だから,これらはそれらしい廃止説明ではあるが,開業前に気づかなかったのか?と今さらにして思うことだ.「オリンピック」という特異なイベントによる大盤振る舞いだとすれば,それから60年たってもおなじことをしているから,残念ながら当時を嗤うことはできない.

むかし市内交通は一体だった

「横浜市営」という経営形態が望ましいかの議論はおいて,路面電車,トロリーバス,ふつうのバス路線は,「乗り換え券」をもらうとその日何度でも乗り換えて,目的地に最初の料金だけで行けた.民間のバス会社でも,自社路線であれば「乗り換え」ができたと思う.これができたのは,車掌さんがいたからだ.おおきながま口カバンに,路線図の切符があって,それに特殊なハサミで穴をあけてくれるのが楽しかった.ワンマン運転になって車掌が廃止されると,「乗り換え」ができなくなった.交通量の増大で路面電車やトロリーバスが廃止されることよりも,「乗り換え」廃止が不評だった.乗り継ぎ乗り継ぎで目的地に行っていたひとには,路線毎のその都度料金支払制度への変更は,ものすごい負担増だったからだ.ぼったくりのような料金変更に絶望したひとを,マイカー所有へ追い込んだ.それで,また自動車の数が増えた.これは.都市交通政策としていかがなものだったのか?まるで,自動車会社のためにしたような政策である.料金支払が電子化されたいまの時代に,これができないのはなぜか?

いまでも市内交通を一体に運用している国

「時間料金」というやり方がある.ポーランドでは,市内交通は時間制の料金だ.20分,60分,半日,一日,と四種類の切符が売られている.券売機は停留所や駅(窓口でも買える)にあり,支払方法は現金,デビットカード,クレジットカードで,接触方式,非接触方式,どちらも利用可能のすぐれものだ.購入した切符は,車内に打刻機があって,これに差し込むと「チン」という音がして日付と時刻が刻印される.20分券なら,この時点から20分間有効となる.検札係に切符なしや時間オーバーがばれると,容赦なく4,000円ほどの罰則金をはらわなければならない.印刷が読めなくなるから,二重打刻も禁止である.制服着用の長距離列車とちがって,市内交通の検札係は私服にバッジをつけて身分をあらわすから,遠目ではだれだかわからない.だから,それなりの緊張感があって「不正」は少ないそうだ.発車寸前に打刻する人がいたのは人情というものだ.ちなみに,降車時の手続きはないから,無事時間切れとなった切符は,そのまま捨てればよい.購入しても,打刻さえしなければ切符はずっと有効なので,ふつうはまとめ買いして財布にいれるようだ.ハイテク機械を乗り物に一台ずつ設置するより,アナログな打刻機の方を設置するのは合理的だ.

遅延したらどうするのだ?という日本人なら気になる議論もあまりないようだ.鉄道が遅延するのは,長距離幹線がおおい.都市近郊路線の電車は,案外しっかりしており,せいぜい数分程度の誤差がふつうだから,目くじらを立てるほどではない.バスなら渋滞によっての遅れは運転手がわかっているから,時間オーバーの対象ではない.よい意味でアバウトなのだ.これがコストをさげている.別の意味で,人間を信じるシステムになっている.

便利だから利用するという原理

日本の都市部にかぎらず,伝統ある国のもともとの都市計画はモータリゼーションを想定しなかったから,どこも渋滞や駐車場の不足に悩んでいる.それで,公共施設には公共交通機関をつかうように案内される.日本では異様な人数の案内係が配置されるが,なんのためにここにいるのかわからないことがある.このひとたちの人件費も,知らないところで負担させられている.近年では,工事現場の案内も過剰である.

ひとは便利だから利用するのだ.近距離の都市交通システムは,わかりやすくてリーズナブルな料金であることが重要で,さらにいえば,だれのためのものかということが最も重要だ.

目的合理性について考えると,外国のやり方が参考になることも,むかしのやり方が参考になることもある.

論理の訓練

日本人は論理的思考よりも情緒的思考をするといわれる.どちらの思考もメリット・デメリットがあるから,いちがいに批判はできないとおもうが,ことビジネスにおいては主軸に論理的思考を優先させて,補助的に情緒的思考を使いたい.

「言えない」風土

おおくは経営者のキャラクターによるが,業績がおもわしくない企業・組織の特徴に,「言えない」風土がある.「言論統制」というと恐怖政治を連想させるとおり,隠れパワハラ状態ともいえるし,慢性パワハラなのかもしれない.そして,こうした組織では,そんな状態をトップが認識していないのも特徴だ.では,トップはどう思っているのかというと,「うちの従業員はおとなしい」とか,「うちの従業員は意見も言えない無能ばかり」とかであろう.当然であるが,この裏返しとして,従業員側は,「うちの社長ははなしを聞いてくれない」と訴えてくるし,「言ってもムダ」となって,そのうち「わたしには関係ない」となるのが定道である.

ビジネス上の情報を知っている従業員が,「わたしには関係ない」となると,ことは深刻である.人的サービス業のばあい,直接お客様と接するのは,パートさんやアルバイトさんであることも多い.したがって,雇用形態における責任の範囲の軽重から,「わたしはパートですから」と謙遜しながら,「わたしには関係ない」を貫く事例が多々ある.

では,パートさんやアルバイトさんが主に接客をしている企業はみなこのような状態か?といえば,そんなことはない.むしろ,積極的に事業参加をうながしている優良企業も存在する.

ということは,やはり「経営」のちがい,に問題が集約されるのだ.

自信過剰か自信がないのだが

決定的に欠けていると思われるのが,「論理的思考」なのである.

自社の主たる事業が人的サービス業であれば,従業員が業務上で得る情報は,たいへん貴重な資源である.経営資源は,「ヒト,モノ,カネ」というが,「情報」をくわえなくて現代の事業は成り立たない.だから,従業員からの気づきの情報は,業務改善ばかりか新商品開発にいたるまで重要なのは誰にもわかるし,クレーム情報であれば緊急を要するだろう.

すると,これに気づかぬ経営者とは何ものなのか?ということになる.じつは,「情報」という「字」にヒントがある.「情」に「報いる」と書くのだ.インフォメーションを情報と訳した先人の知恵の偉大さにおどろくばかりだ.ひとの感情にちゃんと報いることをしないと,相手にされなくなるのだ.つまり,「情緒的思考」がここにある.これは,「人間力」のことだ.企業組織をうごかすモノは,人間である.経営者も人間,従業員も人間,お客様も人間なのだ.

さて,以上を通読してお気づきだろう.上述のはなしは,論理で貫いている.だから,問題ある経営者とは,自己を第三者的な論理で見ることができないひとなのだ.

ロジカル・シンキングの訓練

本来は従業員と共通の場で議論するものである.しかし,「論理的思考」ができない・苦手な経営者には,あらかじめ予習的な訓練が必要である.その訓練を経て,従業員との共通の場をつくるという手順だ.

一方,従業員たちには「訓練」を強調しておく必要がある.「訓練」だから「本番ではない」という前提がないと,自由に語ることはない.議事進行役を変更しながら回を重ねると,だんだんと調子がでてくる.その場にいる経営者にも,「訓練」だからなにを発言してもいい,と最初にルールを語ってもらうとよい.

だいたいの目安だが,半年くらいでずいぶんと変わってくる.一年もすると,まるでちがう「風土」になっているはずである.そして,氷解の具合に比例して,業績が改善することも実感するだろう.

「訓練」は未来に続く.

寂しい商店街はダメ商店ばかりか?

昔から知っている近所の商店街が,ずいぶん寂れてきた.「商店街振興策」として,道路整備事業をやったら,もっと寂れた感じがする.路面は一般住宅とシャッターばかりで,たまに開けているお店も,なにを売っているのかわからないような状態をのぞき見ることがある.しらない土地を歩いていても,直線道路のはるか向こうまで,週末のアーケード街なのに数人の歩行者を遠くに確認するにとどまる商店街がたくさんある.

目的地になっている店がある

そんな商店街だが,ふと入店してみたら,どこからこんなにひとが湧き出たのかと思うほどの繁盛店がある.お客さんはそれぞれ,三三五五やってきてはいなくなるをくり返しているから,道路はまばらなままなのだ.つまり,その店内に「滞留」しているにすぎない.まるで,広大な真空の宇宙空間に,突然その店の空間だけに物質があるような風景だ.

「商店街」という形態ではあるのだが,ひとびとはまさに「一店」集中.他店には目もくれず,完全なる「目的地」になっている.では,とそのクオリティを拝見すれば,すぐに納得できるのだ.飲食店であれ,物販店であれ,「ここしかない」と感じさせるモノがある.それを「独自性(オリジナリティ)」という.

大型ショッピングセンターにはない

不思議なことに,寂しい商店街で「目的地」化したすごいお店ほど,近隣の大型ショッピングセンターに出店していない.地方・地域もちがう,業態もちがう商店主に話を聞いたことがある.すると,呼応したようにかんがえ方がとても似ていた.

大型ショッピングセンターに出店する「余力」がない,というのだ.そして,寂れた商店街のことはあまり気にせず,「自分のお店」を大切にしていたのだ.それは,お店にやってくるお客様を大切にしている,という意味である.「いやー,身体は二つありませんからね」というのも共通している.自分の店のお客様は,自分が接客したい,自分が目を配っていたいという.だから,他店舗展開は,はなから考えていないのだ.

しかし,それはこれらのお店のクオリティを思いだせば納得できる.そこで,どうやってこのクオリティを作り上げて,どうして維持できるのかを聞いてみた.

ゴールイメージから演繹していた

こうしたい,ああしたい,という想いというものは誰にもあるものだが,なるほど,と思ったのは,「ああはなりたくない」という想いがベースにあった.「厭だ嫌だ,ああはなりたくない」から,どうすればいいのかを考えたという.そこでたどり着くのが,お客様の観察だった.あのお客様は,どうして笑顔なんだろう?愚直な疑問である.そこで,思い切って質問したという.

お客様の利用目的が,自分の考えとちがっていた.

ある飲食店のばあい,主人は「うまいもの」だと思っていた.ところが,お客様は「この土地らしく,昼も夜も間違いない店」だった.ある物販店のばあい,主人は「高級進物用」だと思っていた.ところが,お客様は「送った相手からの感謝が嬉しい」だった.それで,「ゴール」を修正したのだ.

お店の目的とは存在価値でもある.存在価値の達成を「ゴール」とすれば,その実現方法は「ゴール」からの逆算である.これを「演繹」という.ふつうは,「一歩一歩確実に階段を登る」と考えるのだが,これでは「ゴール」が見えなくなるかもしれない.これを「帰納」という.

独自性(オリジナリティ)は演繹で追求せよ

お客様から選ばれ,さらに「選ばれつづける」ことができなくては,商売は成り立たない.初回に選ばれたのは,偶然かも知れない.しかし,二度目からは偶然ではなかろう.選ばれているのだ.三回目,四回目と,お客様の利用回数が増えることは,お客様の「利用体験」も積み重なる.お客様にとっては,回数はどうでもよく,記憶に残るのは「体験」だけだ.そして,お客様が「ファン」になってくれることを,「『ブランド』になった」という.これが,ご指名購入のメカニズムである.

物やサービスがあふれている現代,お客様から選ばれつづけて,「ブランド」になるのはたやすいことではない.しかし,どんな有名ブランドも,最初は誰もしらない商品だったのだ.

お客様の利用目的を質問して確認することは,たいへん重要なことだ.そこから,特有の「ゴール」をイメージして,ビジネスとして演繹することができるか,できないかが分かれ道である.

「一泊二食」というプロジェクト

BABYMETALがとまらない.昨年,あの坂本九の「スキヤキ・ソング」から53年ぶりにアメリカ・ビルボード誌の総合アルバムチャートで39位(40位以内)に入った.また,同年のロンドンの名門「ウェンブリー・アリーナ」で開催した公演は,日本人アーティスト初のワンマン公演だった.

世界的ギタリストのマーティ・フリードマン氏は,「(アイドルグループではなく)バンドやスタッフを含めたひとつの『プロジェクト』として見ているんです」と発言している.

プロとしてのプロジェクト・チーム

日本よりも,外国での活躍が目立つアーティストが何組か生まれてきたのは,たいへんよいことだ.この分野では,一日の長がある外国で認められるには,ステージでの実力だけでなく,それを支えるスタッフをふくめた総合力も問われる.BABYMETALというチームは,神がかったテクニックを持つバックバンド(メンバーが入れ替わる)と,天使の声をもつという女性ボーカル,それに,彼女を両脇から合いの手とダンスで支える「天使役」の二人の女の子でできている.しかし,振り付け,作詞・作曲,プロモーションまで,チームとして一つの「ストーリー世界」を一貫してつくりあげる活動をしているのだ.これをプロデュースしている人物が「KOBAMETAL」(小林氏)と呼ばれている.おどろくことに,プロデューサーの小林氏は,芸能プロの経営者ではなく社員なのだ.

いわば,「各職場」がそれぞれの職場の本分を受け持ち,まっとうしているのだ.まさに,宿泊業のあるべき姿との相似形である.

舞台でお客様の目に触れるメンバーは,一流のスキルである.天使役の女の子たちのダンスを侮ってはいけない.彼女らは,これをライブで何曲も続けてやるのだ.おそるべき体力と気力である.観客からは見えない存在のスタッフも,このステージを支えるためにどんな仕事をしているのか?と想像させるにたるプロたちだろう.

圧倒的なプロに出会うとひとは言いなりになる

わたしの棲む横浜には,東京にはない老舗が何軒かのこっている.開港して約160年,横浜が外国文化の受け入れと国内発信をしていた時代は,飛行機よりも船旅がふつうだったおそらく1960年代までだったろう.それでも,元町界隈には老舗があるのは嬉しいことだ.

その元町の老舗の一軒に,ジャケットを買いに出かけたことがある.店に入ると「いらっしゃいませ」という声とともに,主人が近寄ると,いきなり「ジャケットでございますね」という.そして,わたしの体型を一瞥すると,数あるジャケットのなかから一着を選んだ.その間,わたしは上着を脱いでいたので,あたかも着替えるようにそのジャケットに腕をとおした.ぴったりである.「よくお似合いですよ」と主人.わたしは,「これください」と言って,わずか数十秒で買いものを終えた.以来,ちゃんとしたものはこの店と決めている.この店の取り扱う品々のセンス,さりげない提案が,わたしの希望と一致するからだ.だから,わたしは安心して,主人の言いなりになっている.

宿はお客様を言いなりにさせているか?

ラテン語の「HOSPTIUM(ホスピチウム)」が英語の「HOSPITALITY(ホスピタリティ)」や「HOSPITAL(ホスピタル)」あるいは「HOTEL(ホテル)」になったという.だから、病院とホテルは言語上では兄弟である.いまや,病院では「電子カルテ」があたりまえになったが,いぜんから医療現場では手書きでも「カルテ」は必須の情報源である.それは当然だろう.自分の病歴や症状が記入されているから,カルテの情報がなければ事故になりかねない.ところが,案外,宿泊業,なかでも日本旅館で,カルテに匹敵する顧客情報を利用している施設は少ない.だから,これを電子化した利器を活用している旅館も少ないのだ.かつての「団体」主体だった時代の名残である.

情報不足はリテラシー(活用能力)の欠如から生まれる.「団体」からとっくに「個人」に変化した市場にたいして,いまだに「待ちぼうけ」のごとく,たまにやってくる団体を心待ちにしている間,個人客ファンを作らなければならないという業務上の使命を忘れ,個人顧客情報の収集もしないから,活用などできる環境にない.つまり,「カルテを作らない医者」のようになってしまったから,だれも怖くて近寄らなくなる.

こんな宿でも「アレルギー情報だけ」は,収集していると胸を張ることがある.当然である.アレルギーを申告したお客様の命に関わる情報だ.これが,個人顧客情報のすべてと言われると,言われたほうが呆然とする.

存在意義から問わねばならぬ

お客様から圧倒的な信頼を得るには,なにをしなければならないのか?BABYMETALというチームから,プロジェクトとして学ぶ必要がある.

覚悟なき観光振興

観光地の整備のことを、「観光振興」という。
道や看板、はたまた「会館」や「センター」を建設し、地元の物品販売をすることになっている。最近では、ネットを通じた地元情報の提供のためのサイトへの投資もある。これらの投資が,「民」ではなく「官」が主体であるのも特徴だ.
残念ながら、これらの投資が集客に大成功したという話は、寡聞にして聞かない。

「掠奪産業」を助長するのか?

18世紀にイギリスで資本主義が生まれる前の時代,人類は資本主義を知らなかった.つまり,原始時代から古代四大文明を通じて,ローマ帝国もモンゴル帝国も,オスマン帝国も,資本主義ではなかった.では,なんだったのか?「前資本」とか「前期資本」という.

世界初の先物市場として有名な大阪堂島米会所が,幕府から公認されたのは1730年だ.でも,江戸時代の日本は資本主義経済ではなかった.日本が資本主義を導入するのは,明治になってからである.その明治期におけるめざましい経済発展は,日清戦争(明治27年~28年)でもわかるように,維新後30年足らずで外国との近代戦争ができるまでになったことでもわかる.

さて,「前資本」の時代の経済における常識とは,儲けるための仕組みが,単純であった.「安く仕入れて高く売る」である.なんだ,いまとかわらないではないか?と感じたかも知れない.ところが,価値観が異なるのだ.「安く仕入れる」というのは,たとえば「詐欺」や「掠奪」がふくまれる.「高く売る」には,「冒険」や「押し売り」がふくまれて,これらの行為がとくに問題にならないどころか,むしろ,一般的であったのだ.対象客の絞り込みと、製品設計やサービス設計などという概念がないのだ。

多くの観光地における観光業は掠奪産業ではないか?

地元に存在する「観光資源」を見にきたひと,すなわち「観光客」から,「法外な料金を提示して金銭を得る」なら,それは「掠奪産業」ではないのか?そんな状態で,税金を投じる「観光振興」は,掠奪産業を助長する自殺行為である.

昔の修学旅行生が狙われた

世間を知らない小中学生の修学旅行.お土産になにを買おうかと,いろいろ物色した経験は,おおくのひとにあるだろう.一昔二昔前なら,親からだけでなく,祖父母や親戚からも「選別」をもらったから,「お返し」をしなければならなかった.学校がお小遣いに上限を設けても,もらったものはもらったものである.だから,帰りの荷物はそれなりの大きさと重さになった.

子どもたちが買ったお土産を,「なんだこれ?いくらした?」と大人からからかわれた経験をもつひとも少なくないだろう.大観光地のお土産物屋さんで,よかれと買った物が,大人からみれば値段に見合わないガラクタに大層な値段がついていた.この経験から,中学生になると,品物をより吟味しようという気になる.昔の修学旅行は,たいがい毎年おなじ目的地だったから,中学生には「先輩」という情報源が有効だった.もちろん,「先輩」とて失敗の買い物をしたものだが,帰宅して失敗とわかれば,それを「後輩」に伝えたのだ.

こうして,徐々に観光地の土産物屋は,子どもから見放されていき,それが物資が豊富な時代とともに,大きく衰退した.このころの土産物屋は,二つのことを見誤ったのである.一つは,豊かな暮らしにおける観光土産とはなにか?ということ.もう一つは,子どもから「奪う」ことに鈍感だったことだ.おそらく,当時は,毎年やってくる大量の生徒たちが尽きることはないと思えただろう.しばらくすると,行き先が外国にも拡大した.このとき,「危機感」をもったひとも,「掠奪」された経験をもつ,これらの子どもたちが大人になって親になることに気づかなかった.まさに,「前資本」時代の「掠奪産業」だ.

「観光振興」とは「観光客」の「満足」がなけれなならない

いまだに日本の観光地のおおくは,ふつうの商売ならあたりまえの「営業コンセプト」が決まっていないのである。営業コンセプトを決めるためには、中心となる想定顧客層の設定と、そのひとたちが求めるだろう価値と提供する価値のすりあわせ作業をしなければならない。「多様化」した消費者に対応するには欠かせない常識である。

「多様化」がはじまって半世紀

日本で、「多様化」といわれ始めたのは、1970年代だ。すなわち、高度成長を背景に、「大阪万博」で象徴されるような時期だ。全共闘やヒッピーなどが若者文化として出てきたし、マクドナルドの開業は71年だった。
つまり、半世紀前から消費者はとっくに多様化しているのに、観光産業では、あいかわらずお客様は「(一様な)マス」のままなのだ。このことの方が驚きである。

外国人観光客は「救世主」か?

地元の日本人観光客が気づいた「不満足」を,欧米の「観光大国」からやってくる高単価外国人観光客が見すごすと,本気でおもっているのだろうか?また,その「観光大国」は,なんの努力もせずに勝手に「観光大国」になったと,本気でおもっているのだろうか?

日本の「リピーター」ではあるが,地元に「リピーター」はいるか?と問えば,かつての小中学生修学旅行と似ていることに気づくだろう.外国人観光客のなかでも「高単価層」のリピーターは,どんどん地方都市に「新しさ」を求めて分け入っている.この「新しさ」とは,彼らにとっての「新鮮さ」であって,そこに「古い」日本があれば尚更よいという感覚だ.

70年代の「列島改造論」の価値観は間違いである

地方色のまったくない「駅舎」や「駅前風景」などに代表される,東京になりたい症候群という「病気」が,都市圏に住む観光客の目には「痴呆」の「地方」という,お笑いぐさにみえるのだ.ダサくて不便にしろ,と言っているのではない.その地方独自の文化や歴史を,一切忘れて,ガラスと鉄骨でつくる,ポスト・モダンの建造物が「おらが街の自慢」という感覚を嗤うのだ.

ぜひとも一度,「廃県置藩」を哲学してもらいたい.

ベンチャー企業が「実績」を問われる

ベンチャー企業というのは,これなら世の中に役立つかもしれない,といった技術やサービスを主軸にした,新しい事業コンセプトの企業だ.だれだって,そんな会社を新規に立ち上げたら,「実績」などない.

審美眼ならぬ審ビ眼

日本の大企業のおおくは,ベンチャー企業が売り込みにいっても,ほぼ相手にされない.そもそもどの部署に連絡すればよいのかすら不明である.これは,大企業の側も,自分たちがどんなことを必要としているかをまとめていないから,内部でもわからない.それにくわえ,そんなこまったことを大企業の内部で「内製」すべきなのか,外からの「購入」をすべきなのかが決まっていない.解決のためのスピードとコストを天秤にかけたとき,おおむねコストを重視するのだ.これは,「時は金なり」という資本主義の基本概念が希薄であることを示している.こんなことを何十年もやってきたから,社内の人材で「審ビ眼」を鍛えたことがなくなる.「審ビ眼」の「ビ」とは,ビジネスのことだ.

外資系が「審ビ眼」を重視する背景

「いいものはいい」という目で見ることは,あたりまえのことだ.ここで,外資系をベタ褒めするつもりはないが,「審ビ眼」をつかって判断するということには,それなりの「リスク」を伴う.じつは,この「リスク」への根本的な思想が日本企業と外資はことなる.

日本が高度成長していた時代の映像作品といえば,底抜けに明るいクレージー・キャッツの「無責任シリーズ」だろう.その前の,森繁久彌の「社長シリーズ」でもよい.「笑いの中に真実がある」といったのは,アリストテレスといわれているが,まさにこれら「喜劇」のなかの日本企業は「リスク」をあまり気にしていない.それが,低成長時代になると「リスク」をおそれるようになった.いつの間にか,日本企業の常識は,「リスクは避けるモノ」となってしまった.

外資系ではよく,ボーナス査定の基準として以下のようにいわれている.「このままでは,今期の業績が悪化するかもしれない,という状況で」1.果敢に挑戦し,業績を良好に改善できた,2.果敢に挑戦し,業績を前年並みにできた,3.果敢に挑戦したが,業績は予想よりかなり悪化した,4.これまでどおりとして,業績は予想どおり悪化した.

4.番以外は全員ボーナス支給の対象になる.3.番は,業績を予想より悪化させてしまったのだから,日本企業的には「余計なことをした」としてバツである.しかし,外資では,「果敢に挑戦した」ことを評価するのだ.逆に,4.番は,日本企業的には「仕方ない」として,評価するだろう.もっといえば,そんな部署の責任者になった「不運」を哀れみ,自分でなくてよかっとも考える.前任者や前々任者(すでに昇格している先輩や同僚)がやってきたやり方を変えたら,先輩たちへの当てつけになって失礼になると考えるのだ.ところが,外資では「解雇」の対象になる.「これまでどおり」のことしかしないなら,そのひとの存在理由がないからだ.つまり,「これまでどおり」に対する評価が,真逆になるのだ.

リスクをどうするか?が左右する

「リスクは避けるモノ」から,「リスクは『何があっても』避けるモノ」という,絶対化がおきている日本企業は,なんでも「純化」させてしまう日本人のDNAからきている発想方法だろう.これにたいして外資は「リスクはコントロールするモノ」という発想だ.これは,ある意味「アバウト」なかんがえ方だ.

人生に「正解」がないのは,やり直しがきかないから,時間をもどして,選択肢ごとに試してから「正解」を確認することができない.だから,つねにその場その場においての「最適」を選択するしかない.ところが,このときの「最適」が,経済学者がいう「(金額で示される)効用の最適」とはかぎらない.ひとの生活における「効用」には,「他利(他人のためになる利益)」をあえて選択することによる「信用を得る」という「効用」があるからだ.これは,企業活動においても同じである.いかなる企業といえども,「正解」に近づくことしかできないが,その「正解」が那辺に存在するのかさえ,じつは誰にもわからない.

だから、いま「リスク」に見えることが,じつは「セーフティ」なのかもしれない.すると,「リスクはとるモノ」となり,コントロールの対象となる.こうした,企業の思想的転換があってベンチャーが生きる基盤ができる.これを忘れて,「ベンチャー企業支援」という補助をしても,お金のムダであるばかりか,「政府に依存」させてベンチャー起業家の人生を翻弄させてしまうだろう.日本は冷酷な国である.

「生産性向上」とはいうけれど

人口が減るから生産性向上なのか?

日本の人口の減り方は尋常ではない.人類史上はじめての経験,ともいわれてひさしい.一方で,歴史的な出来事の最中に生きているひとには,それが日常なので,変化に気づきにくい,といわれる.だからか,わが家のご近所さんとの雑談で,「人口減少」を言うと驚くひとがまだたくさんいる.その驚きかたに,こちらが驚いてしまうほどだ.はじまったばかり,だから仕方がないのかも知れないが,生活実感として,それほどでもないということなのか.

ところが,企業経営者は,まず「人手不足」という困り事から,「労働人口の減少」を実感している.かつての「花形」職種でさえも,欠員ができるほどだ.そこで,新聞をみれば,やっぱり記事も「労働人口の減少」を書きたてているし,政府も「対策」を急ぐらしい.しかし,対策といっても,政府が子どもを産むわけではないから,おのずと議論は二つの問題になる.一つは,政府は子どもを産まないかわりに外国人を連れてくる「移民受け入れ」であり,一つは,人間の数が少なくても多くの生産ができるようにする「生産性の向上」である.

「移民受け入れ」は,文化の問題以前に,「移民も年をとる」ということと,「移民も子を産む」ことが問題で,なかなかはなしがまとまらない.一方,生産性の向上は,政府が直接やってできることではないから,やれやれと民間の尻をたたくことぐらいしかない.そもそも,「生産性」をあれこれと,「生産性」の意識などまるでない政府から言われる筋合いではないのだが,財界は喜んでいるようだ.まったく不思議な光景である.経産省や厚労省官僚の残業時間を聞いてみたいものだ.もっとも,インプット(投入資源)に対するアウトプット(効果)という観点からすれば,これらの役所の存在自体が問題になるだろう.ただし,彼らの価値観では,「複数年次に,できれば永続的に,多額の予算を投入して,世の中の役に立たない事業」を提案できてこそ出世条件になるということも国民は理解しなければならないが.

「人手不足」という尻に火がついたから,「生産性の向上」が必要なのではなく,もともとはいつでも「生産性の向上」は必要なのだ.それは,企業には「極限の利益追求」という使命があるからだ.

「極限の利益追求」をしない日本企業

日本企業の行動原理は,「極限の利益追求」ではない.もちろん,決算発表にあたって,だれも「当社は極限の利益追求をしておりません」とは言わないし言えない.しかも,社内の予算策定で,役員のだれも「極限の利益追求はしなくてよい」とは言わないし,むしろ,「もっとよい数字にしろ」と指示するはずである.

では,どうして「極限の利益追求」をしないと言えるのか?

日本企業の経営者は社員である

経営者が「経営していない」ことは,二社の子会社が,不正を知りながら出荷していた問題で,三菱マテリアル本社の社長の発言,「承知していない」という事例や,これまでの神戸製鋼,日産,スバルの事例からもあきらかである.要は,「現場丸投げ」なのだ.

「現場こそ当社の命」という経営者で,現場に詳しいひとがどのくらいいるのかわからないが,「現場丸投げ」の裏返しかもしれないと疑っていいだろう.このことについて,アメリカの経済学者でノーベル賞も受賞したガルブレイスが,1968年の『新しい産業国家』で証明している.

大企業は,「テクノストラクチュア」といわれる社内の専門家たちに「簒奪され,支配される」とある.これは,組織をあげてヨコの繋がりをもつ「テクノストラクチュア」が,「自分たちの安全」を優先させて行動するという原理だと説明している.だから,彼らは「極限の利益追求」をしない.自分たちの安全とは,安楽でもある.会社には成長は必要だが,会社が存続できる程度の利益があればよい,という発想になるのだ.

ボトムアップ型の日本企業は,大なり小なり「テクノストラクチュア」に支配されている.

安楽な会社では「生産性の向上」はできない

「テクノストラクチュア」の考え方を変えさせなければ,「生産性の向上」はできない.90年代の日本が「絶頂」を迎えたときも,生産性ではG7国のブービー(ビリは英国)だった.その前後は,一貫して「ビリ」なのだ.つまり,わが国は,生産性という視点で見れば,万年ビリの二流国であり続けていた.これは,忙しそうに働く振りをする天才たちによる「一流の幻想」でもある.その天才たちこそ,「テクノストラクチュア」だ.

本物の経営者と本物の労働者が必要

本物の経営者とは,企業の将来像を示せるばかりでなく,「テクノストラクチュア」から実権を奪い返す気力と知力をもった人物である.また,本物の労働者とは,自分の労働の価値を知っている人物である.労働者は人身売買の対象ではない.労働力を売っている人物のことである.この感覚があって,はじめて「プロフェッショナル」への入口に立つことができるのだ.

銀行から排出される人材の再教育が肝心である

日本のメガバンクが,大規模な人員削減をおこなうと発表された.この人材をいかに有効利用できるのか?そのための再教育をどうするのか?経済界は政府に依存するのではなく,「プロフェッショナルへの改造」をみずからおこなうべきである.