ゲスの勘ぐりですが,なにか?

先日,阿波おどりのはなしを書いた.
全国的に有名な「お祭り」だから話題になる,というのはもっともなのだが,わたしの興味は,ふつうは行政と一心同体の「観光協会」は,ほとんど役に立たない存在なのであるが,この例では「ふつうではない」ことである.

また,わたしは,「テレビ東京オンデマンド」の会員になっていて,やっぱりネットで視聴している.今週は,久しぶりに「バター シリーズ」を放送したが,なにに興味があるかといえば,批判の対象になっている「農協」の幹部のみなさんの「(悪役としての)態度」が,とにかく番組主旨に沿っていることの不思議だ.

たまたまテーマがちがう事柄ではあるが,本質的にたいへんよく似ているので「ゲスの勘ぐり」ではあるが,書いておこうとおもう.

ワイドショーは観たことがほとんどない.
しかし,いまは「YouTube」という便利な手段ができて,各局のこの話題だけを比較して観ることができる.
一連の「放送」で,もっとも詳細に「週刊現代」の取材内容をトレースしていたのは,「フジテレビ バイキング」であった.

それで,渦中の徳島市長が15日(徳島阿波おどりの最終日),「反論」のために緊急生出演をした.
詳しい経緯は前回書いたから繰り返さないが,破産した旧観光協会が取り組みをはじめた「自主改革」が,「利権」の根幹に触れたために「早期破産」という措置でこの世から消え,この「自主改革」を支援した有名連が加盟する「阿波おどり振興協会」潰しという構図になっているのが放送内容であった.

潰す側の市長が出演したのは,冒頭「全国放送で『利権構造』という間違った印象をながされことをただすため」であると述べたのは当然である.しかし,同時に出演した週刊現代記者との掛け合いは,まるで餅つきの相の手のごとくで,残念ながら市長の主張より記者の発言のほうが筋がとおっているから,視聴者はさらなる「確信」を得たのではないかとおもう.

結局,最初の放送で自身と徳島新聞への批判がおさまらず,祭り最終日に実行委員長本人が上京して「出ざるをえなくなった」というのが本当のところだろう.
市長一人を針のむしろに座らせる徳島新聞の凄みすらかんじる.系列の四国放送のアナウンサー部長だった現市長は,明瞭な声で発言はするものの,残念ながら,中身が薄くて原稿を読むのとははなしがちがうから「反論」はみごとに不発だった.と同時に,市長の頭も空っぽだとばれてしまった.

市長=実行委員長が「総おどり」中止を強くもとめた理由に「安全確保」があった.
最終日のこの日,台風十五号の影響で徳島市には「大雨警報」が発令されていたが,実行委員会は「決行」とした.従来の観光協会主催なら,雨天はチケットの返金をともなう中止決定をしていたはずだから,「安全」より「返金しない」を優先させたというオマケもついた.

この市長の発言からゲスの勘ぐりをすれば,「自己保身」ということの「執着」がどこまであるのか?がこれからのポイントになるだろう.すなわち,徳島新聞への「裏切り」はあるのか?に興味がうつる.
過去最低の集客だったことに強権的実行委員長としての責任問題はかならず起こるが,どこまでも徳島新聞を守ろうとすれば,自身への信頼が破綻するから,なかなかピエロに徹するのも辛い.
この神経戦に,市長が負ければ,鉄板だった「利権」の崩壊はあっけないかもしれない.

そうなれば一方の徳島新聞は,国家総動員法以来の「一県一紙体制」では生き残れない状態になるはずだ.いや,むしろとっくに生き残れないとしっているから「イベント利権」にしがみついているのだろう.似たような例は全国にあるはずだ.
おなじく国家総動員法以来すでに壊れてしまって起きた「地銀の統合」のような他県新聞社との統合を模索するようになる可能性があるから,こちらもウオッチしていきたい.

「バター」のはなしは日本の「食」をかんがえるうえで,ひとつのパターンをつくっているから,どうなるのかは興味深い.
しかし,本稿冒頭に書いたように,テレビ取材にたいしての「幹部」のみなさんの対応が,おそろしく「稚拙」なのでこちらをゲスの勘ぐりの対象としたい.

番組名を明かすと途端に態度が豹変する映像が,これもパターン化して対象が誰でもおなじになって放送されている.これは,「恐怖心」のあらわれではないか?まるで玄関チャイムで吠える「犬」とおなじである.
従来,農協は農水省と一体で,さらに「族議員」に保護されてきたから,このような「敵対的」なことにどうしたらよいか分からず,自己防衛から「強権的態度」になるのだろう.
日本の農協体制は,ソ連型コルホーズのガラパゴス化だとやはり「確信」したくなる.

「広報」という立場からすれば,そんな映像や音声が流れることがどんなに不利かは分かるものの,わからない幹部が「諾」としないのだろうか?それとも,「広報」もわからないのか?どうも不明なのだ.
その証拠が,弁護士による取材側への素っ気ない「回答書」を送りつける感覚である.法的にはわかるが,テレビ番組という特性を考慮しているとはおもえないこうした回答書を起案する法律事務所の実力にも疑問符がつく.

つまり,批判される農協側の関係者全員の「脇の甘さ」が,やけに目立つから始末が悪い.
視聴している一般人は,その誠意のない対応に,またまた「確信」的な感覚をうえつけられるだけである.
だから,自由な取り引きをもとめる側のひとたちへ,いっそうの応援をしたくなるようになるから,「稚拙」だけですむのだろうか?
農水省は農協を裏切って,自由な取り引きを要求する会社にも農協と同じ「指定団体」として早々に逃げているし,公取までが動いているのは役人のアリバイづくりではないかと勘ぐりたくなる.

おそらく,巨大ゆえに,組織のなかのフィルターをとおしてでしか世間をみることができない,成長不良なおとなたちの集団なのだろう.いわば,年をとっただけの子どもである.そのひとたちが権力をもっている.権力におもねれば,有能な弁護士をしてみちをあやめさせるから,おそろしい.
これは,阿波おどりの例と共通する.

おとなのなりをした子どもが仕切っている悲劇.
いつも損をするのは子羊のように抵抗をしらない一般国民である.

観光庁作成・外客利便性向上ガイドラインの愚

暇人がなにかをしたことにしようとすると,かならずアリバイづくりをするものだが,その暇人が役人になると,たんなる言い訳のためのアリバイだったものが「命令」になるから始末が悪いどころが社会に害悪をまき散らす.
この「愚」に,政治の「愚」が掛け算されるから,にっちもさっちもいかなくなって,業界は粛々と「命令」に従うしかなくなる.

結局は出国税の使途である.このブログでは「出国税A」のことだ.
その発想の前提が,「観光先進国として」である.
これを自画自賛という.

いったいわが国のどこが「観光先進国」なのか?
それで,トイレの洋式化をせよと国家が命じるのをおかしいと思わないのか?
つまり,出国税で得たお金をばらまく項目を挙げているにすぎないのだが,これらはかならず「補助金」という形式をとるから,事業者も自腹を切ることになる.

対象は「公共交通事業者等」である.例によって「等」がある.これはなにかがわからない.
書いた役人にもわからないのではないか?
つまり,「等」としておけば,あとからどうにでもなるからだ.
これに,交通結節点に密接に関わる「関係者など」と,「など」も登場する.こちらの方は「例」として観光案内所を運営する地方自治体,経路検索情報を提供する事業者,「手ぶら観光」サービスを提供する運送事業者,とやけに具体的である.

それで,「多言語対応」がでてくるが,これは「英語」だという.
通常案内だけでなく「異常時」もやれと命じている.
当然これらには,デジタル情報がからむから,公衆無線LANサービスやSIMカードの販売も拠点を設けろという.

しかし,もっと基本的な問題は,電波法の緩和で「日本の技適マークがない端末」でも,外国人観光客なら日本国内でつかえる,ということがどういうことなのか?という問題だ.
もちろん,外国人が自国で購入した端末なら,日本の技適マークがついているはずがない.しかし,これは,日本の電波環境に適していない端末を持ち込んでいる,という認識を本人がもたないと,とんだトラブルにもなりかねない.つまり「通じにくい」と.

それに,SIMカードといっても,現状で国際空港でも販売されているものは「データSIM」だけで,通話ができない.通話にはインターネット電話を使っているのが現状だろう.
また,その価格も高価である.
これらは,日本国内の通信がまるごとガラパゴス化しているからである.これを推進したのも政府であった.

それでWI-FI環境をなんとかしろというのだろう.
公衆無線LANサービスの安全性不安は,どうにも解決ができない.
だからわたしは海外旅行にも無線ルータは必需品としている.ただし,SIMカードは現地調達だ.ヨーロッパだと,日本の1/10以上も安価で手に入る.また,音声SIMも,購入時にパスポート番号を登録される仕組みで,駅のキオスクのレジが対応している.二週間の滞在で800円ほどで間に合った.この内外価格差をどうするのか?は,そもそも国民サービスのほうに重みがあろう.

このほかの命令は,上述した洋式トイレの設置から,クレジットカード対応券売機,交通系ICカード対応,車両内の荷物置き場の確保,乗車券・指定席券・企画乗車券のネット予約環境の提供があり,「義務とはしない」もので,多言語対応の券売機,周遊パスの造成,観光案内所の設置,荷物を持たないで旅行できる環境,サイクリストへの対応があげられている.

これらをみて思うのは,事業者とは利益をえる活動をしているから,お客様からよろこばれて収益があがるなら,設備投資にかんして別に国家から命令されるいわれはない,ということである.
愚にもつかぬアイデアで,民間の自由な経営を制約するだけではないのか?
対象となる事業者団体が,われわれは乞食ではないという矜持をもってもらいたいものだが,残念ながら補助金をもらえる方法に努力の方向がいくのだろう.

決済手段については,国際標準になったNFCに対して,その上の高速処理ができるFeliCaがやはりガラパゴス化しているから,結局クレジットカード対応になってしまう.
荷物を持たないで旅行できる環境やサイクリストへの対応は,なにも外国人観光客向けだけのことではない.

外国人観光客が日本の交通手段でおどろくのが,なんといってもその高額な運賃である.
たとえば,東京・京都を新幹線で往復すれば,28,000円はする.
LCCならどこまで行けるのか?をかんがえると,強烈な値段だ.これはなにも新幹線にかぎったはなしではない.

どうやら,オリンピックと外国人観光客が,打ち出の小槌になっただけだ.
しかし,税収からの投資を必要とするものはどれなのだろう?

ムダに肥大化した政府を縮める手だてがない.
出国税Aは,出国する外国人観光客と日本国民から徴収するものだから,日本国民の負担だけではなく外国人観光客も受益者負担をするというのだろうが,国民の富を奪って外国人観光客へ差し出すのが使途としてあきらかである.つまり,所得移転させるものだ.

政府の開発独裁はいつまでたっても止まらない.
こうした役所は百害あって一利なしだから,はやく廃止にすべきであろう.

玉音放送の現代語訳

毎年放送されることと,毎年放送されないことがある.
「玉音放送」とは,正式に「大東亜戦争終結ニ関スル詔勅」という.
ほんものの天皇が肉声で直接読み上げて国民にしらしめたのは,建国史上初のできごとだった.
紙に書いた「勅語」をうばいあって血を流した歴史があるのだから,いかに画期的であったかは表現できないほどだ.
この録音盤争奪をめぐって,宮中警護のはずの近衛部隊があやしいうごきをしたのも,「紙」の時代とおなじ発想からである.

あの戦争を美化しようが怨もうが,当時国内公文書の最高峰にあたる「勅語」の内容を,ほとんどの国民がしらずに,「戦争の反省をする」という立場は,論理的に破たんしていないか?すくなくても丁寧さを重んじれば,その意味をしらずして放置はできない.
昭和天皇は,肉声をもってなにを訴えたのだろう.
くり返し放送されているのは,ほんの一部,「耐え難きを耐え忍び難きを忍び」というフレーズだけである.

なにが耐え難きことで,なにが忍び難きことだったのかが,これだけではわからないものを,解説すらしない.
だから,放送としてこれ以上不親切な「たれ流し」はないのだが,これをいうひとがいないのもどういうわけか?

歴史的大戦争の終結=敗北を宣言した,まごうことなき当時の国家元首にして大元帥陛下の「勅語」に,かくもいい加減な扱いをしていられる神経こそが,諸外国(といっても一部だが)からグズグズいわれる根源であろう.

1945年8月15日は,日本では「終戦記念日」としているが,国際法では停戦であって日本軍の武装解除が命じられた日である.
相手のアメリカは降伏文書に調印した9月2日をもって「終結」としているから,感覚の違いは否めない.まさに,国際法にのっとればアメリカのほうがただしい.

ただし,戦争の「名前」にかんしては,詔勅の題にある「大東亜戦争」であって,「太平洋戦争」ではない.
GHQの主導権をにぎったアメリカが「指定」して戦勝の手柄を独り占めにした用語のひとつである.
おなじGHQを構成するイギリスもオランダも日本軍と太平洋で戦ってはいない.ましてや主たる陸戦地もユーラシア大陸だ.日本海軍の作戦行動はインド洋の先,紅海にまでおよんでいた.したがって,あきらかに「大東亜(おおきな東アジア)」が正しい.

ふつう,ポツダム宣言の受諾をもって「無条件降伏」というが,これは「軍」に対してであって「政府」に対してではないから,占領下にあっても日本政府は機能したのである.
8月15日は無条件降伏した軍の武装解除,9月2日が国家として終結した日と理解すればよい.
日本軍の最高司令官は大元帥たる天皇である.だから「終戦の詔勅」なのだ.こんな重要なこともマスコミは報じず,ただ「無条件降伏」を繰り返すから,国民は以下のことにも気づかない.

1945年5月7日にドイツ「軍」は無条件降伏したが,ヒトラーの死亡以降,政権の正統な継承が不明になったため,連合軍は6月5日「ベルリン宣言」をもって,中央政府が存在しない国としてドイツが滅亡したと正式に認定した.だから,国を失ったドイツ占領と国が残った日本占領とはまったく意味がちがう.戦後の「東西ドイツ」は,白紙からつくられた国である.

「ホロコースト」による謝罪は「人道的」に西ドイツだけがたっぷりユダヤ人におこなったが,占領した近隣諸国への謝罪は今日まで「なにもしていない」のが白紙からうまれた「ドイツ」の常識である.滅亡した政権の行いは,白紙スタートでは関係ないという論理があるからである.それでいまでも周辺諸国はドイツとロシアの動向に敏感=大嫌いなのだ.

その意味でも,この詔勅で,天皇は「同盟諸国」にたいし「遺憾の意」を表しているから,日本という国の愚直ともいえる性格がわかる.ただし,この「同盟諸国」に朝鮮・台湾が含まれるとはおもわないのは,これらの地域が「日本」だったからである.反日の朝鮮と親日の台湾がどのように分岐したのかは「戦後」のことである.

ちなみに,三国同盟で同盟国だったイタリアは,政権交代で戦争末期に独日へ宣戦布告しているから,日本が戦後結んだサンフランシスコ講和条約にイタリアもちゃっかり入って戦勝国側にいる.
相手国は全部で48カ国(ソ連,チェコスロバキア,ポーランド,インド,ビルマ,中華民国除く)であった.中華人民共和国は,1949年(昭和24年)建国なので話の外になる.

なお,この相手国の多さの理由は,同盟国ドイツが戦った国も自動的に「敵」になったからである.「同盟」とはそういうものである.だから,日米同盟の今,「集団的自衛権」が云々と議論するのは,国際法的に同盟の本質を無視した不毛の議論になるが,このタイプの議論が大好きなひとたちがこの国には不思議とおおぜいいる.終戦の決断ができなかった「国体論」とおなじに気づかない.

ここに『別冊正論』24号「再認識『終戦』」より現代語訳を転載する.

 朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以て時局を収拾しようと思い、ここに忠良なる汝(なんじ)ら帝国国民に告ぐ。
 朕は帝国政府をして米英支ソ四国に対し、その共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させたのである。
 そもそも帝国国民の健全を図り、万邦共栄の楽しみを共にするは、天照大神、神武天皇はじめ歴代天皇が遺された範であり、朕は常々心掛けている。先に米英二国に宣戦した理由もまた、実に帝国の自存と東亜の安定とを切に願うことから出たもので、他国の主権を否定して領土を侵すようなことはもとより朕の志にあらず。しかるに交戦すでに四年を経ており、朕が陸海将兵の勇戦、朕が官僚官吏の精勤、朕が一億国民の奉公、それぞれ最善を尽くすにかかわらず、戦局は必ずしも好転せず世界の大勢もまた我に有利ではない。こればかりか、敵は新たに残虐な爆弾を使用して、多くの罪なき民を殺傷しており、惨害どこまで及ぶかは実に測り知れない事態となった。しかもなお交戦を続けるというのか。それは我が民族の滅亡をきたすのみならず、ひいては人類の文明をも破滅させるはずである。そうなってしまえば朕はどのようにして一億国民の子孫を保ち、皇祖・皇宗の神霊に詫びるのか。これが帝国政府をして共同宣言に応じさせるに至ったゆえんである。

朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力した同盟諸国に対し、遺憾の意を表せざるを得ない。帝国国民には戦陣に散り、職場に殉じ、戦災に斃れた者及びその遺族に想いを致せば、それだけで五内(ごだい)(玉音は「ごない」。五臓)引き裂かれる。且つまた戦傷を負い、戦災を被り、家も仕事も失ってしまった者へどう手を差し伸べるかに至っては、朕が深く心痛むところである。思慮するに、帝国が今後受けなくてはならない苦難は当然のこと尋常ではない。汝ら国民の衷心も朕はよく理解している。しかしながら朕は時運がこうなったからには堪えがたきを堪え忍びがたきを忍び、子々孫々のために太平を拓くことを願う。

 朕は今、国としての日本を護持することができ、忠良な汝ら国民のひたすらなる誠意に信拠し、常に汝ら国民と共にいる。もし感情の激するままみだりに事を起こし、あるいは同胞を陥れて互いに時局を乱し、ために大道を踏み誤り、世界に対し信義を失うことは、朕が最も戒めるところである。よろしく国を挙げて一家となり皆で子孫をつなぎ、固く神州日本の不滅を信じ、担う使命は重く進む道程の遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、道義を大切に志操堅固にして、日本の光栄なる真髄を発揚し、世界の進歩発展に後れぬよう心に期すべし。汝ら国民よ、朕が真意をよく汲み全身全霊で受け止めよ。

御署名(裕仁) 御印(天皇御璽)

ネットにはこのほかいくつもの「訳」があるから,ご興味のあるかたは検索されることをお勧めする.

「耐え難き」とは過去のことで,第一には「敗戦」という事実であろう.
すると,「忍び難き」とは,これから起きる「占領」の屈辱をいうのであろう.
しかし,最後は未来志向のすさまじき決意である.
全文を読めばスッキリする.

これを一部のフレーズだけしか放送せず,解説もないのは,やっぱり不思議におもう.
政府と軍をそれぞれに背負う唯一の人物の言葉なのだ.
いまは,内閣総理大臣がこの責を負う.

近代史をおしえない「学校の歴史授業」で,これを読んで解説することなどはありえないであろう現状をおもうと,果たしてそれで,「国際人」養成のための小学校からの「英語」教育とは,まことに浅はかの誹りを免れないのではないか.

「文部省唱歌」の「故郷(ふるさと)」の歌詞が難しいからと,学校でおしえなくなったのは「退化」だという議論もあるが,「玉音放送」を聞いてその場で涙したひとびとの教養たるや,現代人のはるか上をいく.「よくわからなかった」という話になぜかホッとするのは,「訳文」をみないとわからないからだ.
そのうち,この「訳文」すら「よくわからない」になるのだろう.

年に一回ぐらい,この文章をかみしめてこそとおもう.

反逆の阿波おどりのゆくえ

昨夜,徳島の阿波おどりで,市長が中止を強く要請した「総おどり」が強行された.
市役所職員や警察による妨害もなく,「静観していた」というからまずまずだろう.
しかしこれは,地元の「祭り」が行政に乗っ取られた一例になった.

報道によると,阿波おどりの主催者は,チケット販売や広告などを担当する地元徳島新聞社と,会計を担当する徳島市観光協会の二者だった.
この観光協会に累積赤字が4億円あまりもあって,ずさんな経理が問題となり,補助金と協会の赤字補填のための金融機関からの融資保証(6億円まで)をしていた市が,これを取りやめて協会は破産処理とし,あらたな祭り運営組織を立ち上げることになった.
それで,一方の主催者だった新聞社が3億円を寄付して基金とし,市と新聞社による「阿波おどり実行委員会」がつくられた.今年は,新体制で最初の「祭り」になった.

一見なんの変哲もないはなしである.
どこに揉める要素があるのか?ややふつうでないのは,役所と一心同体のはずの観光協会が,どうしてこうなったのか?くらいである.

深く調べたのは週刊誌の記者で,破産処理をされる前年の観光協会は3千万円弱の単年度黒字に転換していたのをつきとめた.ならば何故に「破産」処理を急がなければならなかったのか?
あたかも原因は「4億円以上の赤字の『発覚』」というけれど,6億円までの債務保証をしていた市側が,発覚まで知らなかったはずがないし,なぜ4億ではなくて6億の保証だったのか?
融資した金融機関からの厳しい取り立てで破産したのではなく,市が金融機関から債権を買い取って破産させているから,「強引」なイメージがある.

市の調査団による観光協会の監査では,随意契約ばかり,しかも契約書もなく請求書すらみあたらないことがあると厳しく指摘され,これが「そのまま」公表された.どうしようもない観光協会,というストーリーである.徳島新聞社もこの論に同調していて,共催者として道義的責任はあると「反省」文を公表している.

ところが,記者の取材でわかったのは,観光協会の取り引きの相手先が,一方の主催者である新聞社のグループ企業ばかりだったのだ.
この点に関して徳島新聞は公表した「反省」文に,一切触れていないから,確信犯的でかえって構図をわかりやすくしている.また,報道機関でありながら観光協会の不届きを突っ込んで取材しなかったと「反省」する厚顔無恥ぶりで,なかなかの悪質ぶりを自供している.

まさに,自作自演ではないか.
本来は市役所と観光協会が一緒に損害賠償請求をしてもいいくらいで,司直が公金横領で捜査しないのも不思議だ.
前に書いた映画「原子力戦争」と構図がそっくりである.

徳島新聞のHPによると,朝刊世帯普及率71.92%(2018年1月現在)ですごいのだが,人口減少で近年の購読数の下落に歯止めがかからず,発行部数は朝刊222,159/夕刊27,188(2018年1月現在)となっている.
朝刊の購読料が2864円/月だから,年にして76億円というのが単純計算である.
会社HPには,90億6600万円(2017年3月末)従業員数 285人とある.ちなにみこの新聞社は「一般社団法人」で,出資金は「10万円」という珍しさだ.
失礼ながら,新聞事業では将来がない,という経営環境なのはなにも徳島にかぎらないが,だからといって「祭り」で甘い汁を吸いすぎていないか.

当時の観光協会の担当者は,証拠書類を要求しても相手にしてくれなかったと証言している.また,有料席のチケットも発売10万枚のうち上席ばかり2・3万枚が新聞社の販売とされ,一般人は実質購入不可の状態だった.しかも,開演1時間前になって売れ残ったチケットを協会に引き取り要請されたというから,観光協会は新聞社にとって便利な「機関」だった.
徳島市民は,新聞購読者ならただで配付されるのが常識らしい.

そういうわけで,協会側は「独自に改革案」を作成したが,新聞社と市長にかえって反発されたようで,それが急いだ破産処理の理由だとすれば合理性がうまれる.
この独自改革案とは,もちろん「徳島新聞離れ」にほかならない.
それで,すこし実行したら黒字になったのである.ゼロサムだから,新聞社の利益が減ったはずである.

ここで,あまり報道されていないが,地裁の破産決定に観光協会は即時抗告しているから,以上の構図が垣間見えるというものだ.
破産決定は高裁によるものだが,ここでもおかしなことがある.
自主改革に乗り出した観光協会を破産させまいと,踊り子たちでつくる「阿波おどり振興協会」が個人から寄付を募って,なんと協会の残存資産とあわせ累積赤字分を供出しているのだ.この供出金を,高裁は「借入金」としてはねつけ破産決定している.残念だがこの詳細はわからない.うわさでは,地元選出の有力衆議院議員の存在がうたがわれているが,定かではない.

こうして今回の騒動のややこしい下地ができた.
阿波おどりのメインイベントといえば,「総踊り」.
これを新主催者の実行委員会が独断で「中止」を決めた.
実行委員長は市長である.

市長は元四国放送のアナウンサーだ.
四国放送は徳島新聞系列で,主に日本テレビ系の局である.だから,関東にいながら局によってのワイドショーでの取扱いのちがいも楽しめるようになっている.
「総おどり」は,観光協会救済の供出金を用意した「阿波おどり振興協会」の所属団体で行われるものだった.意趣返しを地でゆく展開は,かつての勧善懲悪もの時代劇を観ているようである.

かつては役所と一体だったはずの観光協会だから,それに近い「阿波おどり振興協会」の事務所は市役所内にあったというが,これも今年追い出されている.一方,「徳島県阿波踊り協会」という団体があって,こちらは徳島新聞本社に事務局をおいている.
だから,これらの「協会」を合併させるための振興協会分断工作も,これからの観ものになるはずだ.

「総おどり」中止決定前にチケットは一般販売されていたから,これに驚いた購入者は「総おどり」がないならいらないと,返金を求めたが実行委員会は,これに一切応じていない.
メインイベントがなくなったらコンサートにしろスポーツにしろ,観客にとっては価値半減である.「価値」を理解しない実行委員会とは何者か?
だから,このゴタゴタはチケット購入者にまで波及した.

むき出しの利権構造だが,これを鉄板にしているおとなたちの姿が衆人にさらされている.
すこし古いが,絵に描いたような「守旧派」と「改革派」の対立構造になっている.
日本にはまだこんなことが残っている.残念だが徳島だけではないだろう.

ラテン系なら暴動になりそうな事態である.冒頭の「総おどり」の強行は,まさに気分は「暴動」だろう.
ネット上では,市長へのリコールと新聞購読中止が呼びかけられている.
さては「大衆の反逆」のつづきを今後リアルにみることができるかもしれない.

似たような経験がある.
市民が手弁当ではじめた「祭り」が,やはり市に乗っ取られた.
分裂開催となったとき,行政側の嫌がらせはみごとに組織的だった.
町内会の掲示板へのポスターに許可を出さない.回覧板もだめ.
手作り御神輿も,地元警察に要請して道路使用許可を出させないから,歩道を行く.
保健所が食品の作り売りを許可しないから,無料で振る舞う.

しかし,不思議と盛り上がったのは,しらない市民まで気がついたからである.
その異様さは,気がつかない方がおかしいくらいだった.
いかめしい風情の役所の職員が,嫌がらせのためのダメダメを大声で連発している横で,交通規制の警官が勝手違いなかおをしている.

「なんで御神輿が車道にでちゃだめなの?」「許可がとれていません」
「なんで許可がとれないの?」「許可しないからです」
「これが権力」を確認できる「お祭り」になって,その異様な雰囲気をみんなで味わうことができた.

400年前,阿波おどりを蜂須賀家政が許したのは,徳島城の完成祝いという説があるから,民衆パーワーのガス抜きを兼ねたにちがいない.蜂須賀家は徳川時代を生きぬき,明治には侯爵となっている.
それがいま,お金が欲しい人たちの餌食になって,民衆パーワーが溜まってしまった.

今後,市と新聞社の実行委員会は,あらゆる手段で阿波おどり振興協会に対して牙をむくこと確実である.
しかし,彼らが「振興協会つぶし」に夢中になっているうちに,チケットがぜんぜん売れないで肝心のことしの祭りの収支は「完全赤字」になるのではないか?もし,「黒字」なら,それは「今年だけ」というせこい条件で,新聞社が利益を減らす合意をしたからだろう.

けれども,「祭りの収支」発表と,「新聞社の業績」発表を「連結」しないと詳しくはわからないから,かならず一般財団法人の新聞社は「業績」の詳細を発表しないだろう.
こうすれば,すべては闇の中,という筋書きどおりとなる.

来年は,分裂開催になるかもしれないが,「振興協会」は徳島市での「おどり」にこだわらないという手もある.
近隣市町村での「おどり」をオークションにかけるのはどうだろう?
有名連ばかりなのだから,いっそのこと自分たちで「稼いでしまう」という発想だ.
大道芸の収金方法を参考にしたい.
市長の任期はあと二年.とにかく市民を味方につけることが重要だ.

げにおそろしきは補助金という悪魔である.
いったん受け取れば,魂が抜かれる.
そして,祭りがおおきくなればなるほど,利権がうまれる.
そうなっても,祭りに参加する市民は,かならず無報酬である.
ここに付けいられるスキができるのだ.

明治から150年.
市民のための役所になるのに,あと何年いるのだろう?

「帰省」にみる労働基盤

ことしも帰省ラッシュがはじまった.
毎年の風物詩だから,日本に生まれるとなにも不思議を感じない.
大学までの子どもには長い夏休みがあるが,おとなにはお盆休みの5日間がせいぜいである.
製造業は工場の操業を止めて休むから,出勤しても機械は動かない.それで,事務職も一緒に休まなければならないという義務もうまれた.

「盂蘭盆会」とは,わざわざいうまでもなく先祖をまつる仏教行事である.
「7月15日」を中心とした数日間なのであるが,この日付が例によって「旧暦」なのか「新暦」なのかでややこしい.
当然だが,明治5年以前では「旧暦」しかなかったから,日本全国旧暦の7月15日が「お盆」だった.

この日は,道教では「中元」にあたる.
それで,夏のご挨拶である「お中元」の贈り物も風習化したから,仏教と道教がまじっている.
さすがニッポンの外国文化吸収力!なのである.

それでも民族の記憶はあんがい忘れられて,「旧暦」で生きてきた人たちがいなくなると,「新暦」の7月15日が「裏盆」になって,8月15日を「表盆」という勘違いがおきる.
今年は新旧の日付が1ヶ月以上もちがうから,「旧暦」の7月15日は8月25日になる.
そんなわけで,お盆休みは,「月遅れ」の8月15日としたのだろう.奇しくも終戦の日にあたるから,先祖をまつる仏教行事としてぴったりになった.

「お盆休み」は祝日がなかったが,山にはなんのいわれもない「山の日」が8月11日とされて,お盆のはじまりを合図するようになった.
これで,わが国の祝日は年間16日+振替休日となり,世界的に祝日がおおい国の面目躍如である.振替休日で変動はあるが,ほぼ世界一の祝日数の国である.
お国が休みを決めないと,自分から休めないのは「子どもの国」ならではともいえそうだ.

さて,「帰省ラッシュ」とはなにか?
地方生まれのひとが,東京を中心にした首都圏に就職して移り住んできたが,この時期と年末年始は最低限帰省する,すなわち,「故郷との絆」が解けていないことを意味する.
これは,律令制における「防人」の伝統であろうか?万葉集の防人歌には,関東地方の方言があって,はるか故郷をおもう切実さがある.

室生犀星に,「ふるさとは遠きにありて思ふものそして悲しくうたふもの」とはじまる有名な詩がある.
望郷の念だけではない.志をもってふるさとから出たものが,失意のうちに帰郷しようものなら,いかほどの制裁を受けるものか.帰りたくても帰れない.

フジ子・ヘミングも,30年間苦闘したヨーロッパ暮らしをふりかえって,「これで日本に帰ったら,ざまぁみろ,おまえはなんにもできないで帰ってきた,といわれるのが嫌で帰れなかった」といっている.これは、実母のいいようの想像であろう.それで,母の死があって帰国した.
成功者はチヤホヤされるが,失敗者には冷たいのが日本のふるさとである.

しかし,そのふるさとが捨てきれない.
それが日本人なのだ.
「実家」の存在とは,「家業」の存在を意味する.
つまり,最後の最後,恥を忍めば実家で家業を手伝って生きていける,という思いがそこにある.

これと欧米を比較したのが,東大紛争時の総長だった大河内一男だ.
欧米の歴史,とくにドイツにおいて,ふるさとを捨てるとは,一家の総移動だったとある.
つまり,ふるさとに痕跡をのこさない.
「実家」も「家業」もない状態からの「リセット」を意味した.

新転地における「就職」には,当然に能力が問われたから,労働市場が形成される.
大河内は,日本に欧米的な労働市場がないことの根源をこれで説明している.
このはなしにおける「労働市場」とは,労働者が自分の労働力がいくらぐらいになるかの価値をしっていて,採用する側も,その労働力を買うという行為の連続をいう.

日本のハローワークや人材紹介業にある求人募集に応募して採用がきまる,というのを欧米的には「労働市場」とはいわない.
日本のばあいは,おおまかな仕事内容と時給などの条件が表示されるが,あちらでは細かな仕事内容と必要能力が記載され,それに価格がセットになっている.

だから,欧米ではまさに「就職」であって,「職」に「就く」.それで,細かな仕事内容と条件が記載された「労働契約書」をとりかわす.
日本は,「就職」といいながら実態は「就社」で,どんな仕事をするかわからないけどある会社に勤務することがきまる.だから「社畜」になるのだ.

そんなわけで,大河内は,日本に欧米的な労働市場ができて,欧米的な労働契約をむすぶのが常識になるには,そもそもふるさととの断絶が必要なので,無理だろうとした.
ところが,少子化によって,ふるさとの維持が懸念されるようになった.あと二三世代もすれば,おおくは自然消滅する可能性がある.

すると,「帰省ラッシュ」という風物詩も,数十年後には「へぇ,そんな時代があったんだぁ」といわれるようになるだろう.
それならそれで,ファミリーカーでの大渋滞の経験も,よきむかしばなしになるだろうから,いまのうちに子どもに経験させておいた方がいい.

おそらく,その頃の就職は,「就社」ではなくなっているだろう.

柿渋寝具とサービス設計

あんまり暑いので,どうにも寝不足になる.
エアコンの風で喉をやられ,咳と声がでないのにも困った.
家にくすぶっても暑いだけだから,外出をこころみるも,冷房の効いた建物内と外気との繰り返しは,過ぎるとバテてくる.

ここなら適度に涼しいだろうと,秋葉原のJRガード下「2k540 AKI-OKA ARTISAN
ニーケーゴーヨンマル アキ・オカ アルチザン」に入った.
すぐに目に入ったのは「柿渋染」であった.
柿渋の米袋と石鹸は,すでに愛用しているから,わたしは柿渋ファンである.それに,家内は柿渋染のショルダーバッグも愛用している.

柿渋染は,京都木津川市の名産だという.
こないだの旅行で,伊賀に向かう途中,通過してしまった.
渋柿を種から育てることからやっているという説明だった.
「寝具」がメインだったのも意外で,抗菌効果とあわせて「涼しい」のが特徴だと熱の入った口上をきいた.

それでは試しにと,枕カバーを購入した.
つかってみて合点がいった.
なるほど,「涼しい」のである.
寝返りのたびに涼しさがやってくる.とても快適だ.

せっかくの柿渋の成分がなくなるから,あまり洗濯しなくてよい.
できれば風呂桶に水を適当に溜めて,洗剤はつかわずに流すようにする水洗いをすすめられた.
軽く絞って干すというから,これだけでめったに洗濯できない気がする.
それでも,柿渋の効果でニオイもしないと太鼓判をおされた.まさに万能である.

宿泊を商売にする宿の寝具にとって,これはなかなかの脅威である.
シーツや枕カバーの洗濯がオススメでないから,「業務用」にはならない.
けれども,この会社ががんばって業績をあげれば,それは一般家庭に普及することを意味するから,一般人は快適さを手に入れてしまう.

宿の悩みの根本にある,家庭の「ふつう」を提供する難しさ,が顔をもたげる.
近年では,洗浄式トイレが例になる.あっという間に家庭に普及したが,ホテルや旅館での対応にそれなりの時間がかかったのは,電源と電気容量問題の解決があったからである.古いユニットバスには,そもそも電源がないことからでもわかるだろう.

あるいは,ホテルの浴槽で自動給湯して最適な水位で止めるのも,いまだに普及しているとは言いがたい.家庭の浴槽では,とっくに当たり前になっているのにである.
家庭は個別の給湯器から,ホテルはセントラル式で給湯管を通じで供給される.それで,各部屋ごとの浴槽水量を計測する機器が高価なままであるから普及しないのだ.

進んでいて便利そうにみえる「客室の機能」も,こまかく追求すると家庭にはかなわない.
ある程度の生活水準を超える,いわゆる「富裕層」にとって,このことはあんがい不満の種なのである.
高価な料金を支払っているのに,自宅以下の機能しかない,ということになるからだ.

すると,そのような「層」をターゲットにしていて,もし柿渋寝具を「採用」するならどうすればよいのか?
こたえは,「マイ寝具」というサービスをつくることになるだろう.
だから,一回こっきりのお客様には提供できない.
「リピーター特権」という概念を持ち出すしかない.

つまり,デジタルだろうがアナログだろうが,どんな方法であれ「顧客管理の仕組み」をもっていて,「運用のルール」をあらかじめきめないと,寝具を購入しただけではなにもできない.
これが,「サービス設計」である.

物品によって「機能」を追求すると,投資さえすればすぐに競合他社に真似されるから,目新しいものを外部から購入して配置するだけなら,その宿の特徴といえるだけのものにはなかなか育たない.
たとえば,温泉宿の客室内マッサージ・チェアである.
不思議なのはたいがい一台しか設置していない.なぜ二台でないのか?

夫婦での滞在を標準とするなら,時間の節約ができて家庭でもあり得ない同時利用がのぞましく,それこそ価値があろうというものである.
温浴施設なら,ふつう一回100円を想定するから,もしマッサージ・チェアがある部屋の料金が,ない部屋より高額設定しているなら,利用者は本能的に差分を100円で割り算するだろう.
これを想定しているとはおもえない宿が少なからずある.

しかも,もし,故障でもしていたら,一瞬にしてマイナス効果になるのに,メンテナンスができていない宿がめだつから,なんのために設置しているのかをうたがいたくなることがある.
重量があるから搬出して処分する手間と費用を惜しんでいるなら,それは客室に粗大ゴミがあるのとおなじになる.客室が商品であることすら忘れて,業績を気にする本末転倒がある.

上述の柿渋寝具の例では,「サービス設計」を必須とするから,あんがい簡単には真似されない.
柿渋寝具という物品をただ置いた,ということではなく,提供のためのあたらしいサービスを開発した,ということになるからである.

やってみようと挑戦する宿はあるだろうか?

ねぶた祭の掠奪

地元で騒ぎになっているというニュースがあった.
コインパーキングが「一時間5000円,上限なし」.500円ではなく,ゼロがひとつおおい.
もはや「紙幣パーキング」であって,「コイン」ではない.
祭り期間中の宿泊客優先対応だった,とのこと.
なるほど,駐車場入口看板には「特別高価格」であることが「大書」してある.

「大書」したからわかるはず,と「想定」していたら,わからないひとが相次いだ.
10時間以上駐車して,65,000円を支払ったひともいたという.
おまけに機械が千円札にしか対応していないので,ATMで65枚を用意したというから,さぞや時間が気になったろう.
それで取材を受けた管理会社は,「想定外」とコメントした.

このニュースにはいろんな情報がまじっている.
「ぼったくり」視線からみれば,たしかに「なんてこった!」になるだろう.
それで突然,「被害者」になる.
だから,「返金」が当然という理屈になる.

ところが,全額返金要求となるから,はなしが直線すぎる.
駐車した事実があることを差し引くのが筋だろう.
つまり,「適正価格」の要求がいいところではないか.

一方で,会社側の「想定外」も過剰反応である.
客商売をしていれば,「とっぽい」ひとはどこにでもいるものと「想定」するのは容易であるし,常識でもある.
この価格設定は,隣接するホテル利用客のための駐車スペース確保だったから,割り切って「本日ホテル専用」とすればよかったのではないかとおもう.

事前に,オーナー(当該駐車場とホテル),ホテル,管理会社の三者が話し合って決めたというが,簡単にいえば,「こなれてない」のである.
わたし流にいい換えれば,目的合理性の追求にあたってのロジックが甘い,ということだ.
それが,管理会社のつぎのコメントにもあらわれている.「来年はひとの配置も検討する」.

これが「プロ」の発想なのか?
24時間営業のコインパーキングである.
「想定外」の無人の時間帯に,またまた入庫されたらどうする?
ホテル利用客以外に「空きがあれば」一般にも開放している,という通常時の営業条件をどうしても守りたいらしい.

ところで,いま,ひとの顔を識別するわが国の技術が評価をえて,世界の空港などのセキュリティーシステムとして注目されている.
東京オリンピックでも活用されるのは,すでにアナウンス済みのことだ.

複雑なひとの顔より単純なので,高速道路などのETCには,ゲート通過時に前方のナンバープレートを撮影するシステムがとっくに導入されている.
これで「不正」も追跡できるが,犯罪車両の行き先も追跡できる.
この仕組みを宿泊施設が導入しはじめている.

駐車場に来た時点で読み込み,瞬時にスタッフへお客様の到着を知らせるのだ.
これからかんがえると,イベント時にはとくに,駐車場での応用ができたらよいとおもう.
今回の騒動も,元に「駐車場不足」がある.
昨年の数字で,6日間の延べ観客数は282万人(47万人/日)だ.これは,青森県の人口126万人(H30年7月1日人口推計)と比べれば,あきらかだ.

報道には,熊本からやってきて「被害」にあったひとのコメントもあったが,「二度と青森に来たくなくなる」のでは本末転倒である.
そこで,「遠方割引」というシステムがあってもいいのではないかとおもう.
足りないかといって,年に6日だけの祭りのために市内に駐車場をつくりましょう,にはならない.

たとえば,ナンバープレートを読み込んで,遠方ほど割引率が高くなるようにして,駐車機器で読み取れる割引券発行機を用意する,というアイデアはどうだろう.
地元のひとは,公共交通機関の利用をうながし,遠方からの客をおもてなすのである.
日本の技術なら,すぐにできそうだ.

中央構造線露頭でかんがえる

日本列島は,おおきく弓なりの形をしている.なかでも「本州」のまんなかあたりではっきりと反りかえっていて,その延長線に北海道も四国も九州も,果ては沖縄もある.
これは,はるかむかしに,地殻がうごいてできたというから,ふだんはまったく意識しないことだ.

地球という星が太陽系にうまれて46億年といわれているが,星として死んだわけでもなく,いまでも活発な活動をしている.
わたしたちは,そういう星に住んでいる.

日本の本州にある「南アルプス」と呼ばれている山岳地帯は,地球上でもっともはやく動いている地域として世界的に有名だ.それは,年間4ミリメートルで高くなっているからだという.
山が高くなっている!

10年で4センチメートル,100年で40センチメートル,1000年で4メートル,10000年で40メートルになる.このままいくと,100万年で4000メートルになるから,いまの高さを加えれば,ヒマラヤ並になる.

もっとも,インド大陸が衝突してできたヒマラヤも相変わらず隆起していて,こちらは年間2ミリメートルだ.日本の南アルプスがヒマラヤを抜き去るのに何年かかるか,各自計算されたい.ちなみこの計算を,小学校では「旅人算」と呼んで中学入試の定番になっている.

ひとの一生がいかに短いものかというよりも,ひとの存在を無視した地球という星の物質的活動である.
この活動のおおもとは,太平洋の海底に噴き出すマグマだという.

われわれが住む地面の30キロメートル下には,ドロドロに溶けたマグマの対流がある.
なぜそんなドロドロのマグマがあるのか?といえば,46億年前に火の玉のような星だったからである.つまり,この星は,46億年たっても,いまだにぜんぜん冷えていない.

陸地より地殻が薄い海底に裂け目ができて,そこから吹き出したマグマが「プレート」になって滑ってくる.そして、ご存じのように海溝で沈み込み再びマグマになる.
このプレートに乗っかった丹沢島が500万年前に,伊豆島が50万年前に本州のまん中に衝突した.

丹沢島は本州の地殻の下に潜り込んで上には丹沢山地から秩父山地をつくり,もぐり込んだ下は甲府盆地に到達した.どちらの山にも,しっかり神社がある.
神奈川県と山梨県の縁は深いが,地面の下でつながっている.
それでか,丹沢の相模平野側に出る温泉と,甲府盆地笛吹川沿いの温泉の泉質が似ている.

伊豆島の衝突では,地上に皺ができて,それが南アルプス,中央アルプス,北アルプスをつくったというからすさまじいエネルギーである.
南アルプスが世界的スピードで高くなっているのは,衝突して伊豆半島になった伊豆島がいまもぜんぜん「止まっていない」ということだ.
南アルプスの山頂付近からは,貝殻などの化石がみつかっているから,伊豆島衝突前のその前には,海底にあった証拠である.かつての海底が2000メートル以上も隆起した.

伊豆半島の付け根,三島にある「三嶋大社」には,伊豆島衝突の伝承があるから不思議である.
どうやってむかしのひとは「伊豆島」が本州に衝突したことを識ったのか?
しかも,いまだにめり込んでいるのだから,三嶋大社の信仰は現在進行形である.
「不思議」と認識した「不思議」がここにある.

本州を南北に真っ二つに分断しているのは,有名な「糸魚川静岡構造線」で,この線で本州は折れ曲がっている.諏訪湖の諏訪大社上社前宮,諏訪大社上社本宮は,不思議と真上にある.
一方,諏訪湖は伊那谷へ中央高速道路がほぼ真上を走る「中央構造線」が交差している.
これより西側は,まるで魚の中骨のように分断線が走る.この線で地下構造がまったく異なっているというから驚きだ.

中央構造線がわかりやすいのは天竜川で,国道152号がある.
伊勢湾から紀伊半島を分断して,四国山地,そして九州を分断し沖縄につづく壮大な地質構造のちがい.豊岡稲荷も,伊勢神宮も,高野山もこの線の上にあるのは偶然か?

中央構造線が,地上に顔を出しているのが数カ所ある.
とくに,長野県下伊那郡大鹿村にある「露頭」は有名で,ここには唯一の「中央構造線博物館」(村営)がある.

わたしが不思議なのは,どうしてここが「一大観光地」になっていないのか?である.
ものすごく「地味」なのだ.
「露頭」の現場を観るための道も,「露頭」そのものも,なんだここは?というぐらい「地味」を通り越して「素っ気ない」.

ほんらい「観光」には理解のための知識が必要だ.
神社仏閣とて,そもそもの意味をしらないと建物を観ても価値がわからない.
仏像だって,「印形」の知識があればグッとわかりやすくなる.
つまり,「観光」には,ひとの知識欲を満たす,という要素が不可欠なのである.だから,教育的なのだ.

現地こそ,という要素と事前知識が組み合わさって,観光の価値は俄然高まるのだが,「余暇」の要素が強すぎるのがわが国の「観光」の姿である.
「中央構造線露頭」のような,地球レベルでも珍しい場所はどうあるべきなのか?
幸いにして手がついていないから,ぜひヨーロッパ人にプロデュースを依頼するとよい.

どうやら「この分野」は,われわれ日本人にはプロデュースができない.
それは、「目的合理性」の追求が論理的でないからだろう.
反省しても,批判しても,できないものはできない.
できるひとを呼んでくるのがせめてもの「合理性」というものだ.

デパートで観光できるか?

地方都市の中心にあって,生きのこっているデパートでも,そのおおくが青息吐息のようだ.
入店すれば,おおくが「東京の真似」をしているから,「あゝ」とおもってしまう.
東京のデパートが青息吐息だから,その「真似」をすれば悲惨になるにきまっている.
デパートがいつの間にか「リスク回避」を是として,徹底的にリスクを排除したら,利益がでなくなったのである.

「小売」をするのがデパートの真髄である.
だから,大規模小売店舗立地法という名の法律で規制もされている.
この商売で,リスクを回避した方法は,不動産業への転換を意味した.
自分で商品を仕入れて売る,という小売の原則をやめて,売り場面積を売ることにしたからである.

「リスクは回避するもの」という思想の蔓延が,大企業を中心にダイナミックな活動を阻害している.
「リスクとは利益の源泉である」ことをすっかりわすれた,異様な思想だということに気がつかない.「利益の源泉を回避する」のだから,儲かるはずがない.

自分で売らずに,他人に場所貸しして家賃をとろうという算段だから,家賃がちゃんと払える借り手でなければこまる.それで,成功している業者にばかり声かけしたら,全国どこにいってもおなじ商品やブランドばかりになった.
これを,民営化したJRが全国の主要駅ビルで展開したから,駅からちょっと歩く老舗のデパートはますますたち行かなくなったと前に書いた

わが家では,地方都市に旅行すれば,できるだけ地元のスーパーマーケットとデパートには行くことにしている.
いわゆる「ご当地もの」の発見が,楽しいからである.
この「ご当地ものの発見」という行為が,立派な「観光」だからである.

だから,外国旅行に行ってもおなじである.
商品そのものだけでなく,売りかたや配置など,日本のスタンダードなやり方がすべてではないとよくわかる.
もちろん,外国なら「ご当地もの」ばかりだから,それは楽しい.
なによりも,生活感がはっきりとしてくる.

その中でももっとも興味深いのは,やはり食品売り場である.
これで,一般家庭の「冷蔵庫のなか」が想像できる.
近しいひとへのお土産も,珍しくておいしいものはよろこばれる.
そういったものを見つけるのは,現地でしかできないから,風光明媚な名所旧跡よりも魅力がある.

地方都市のデパ地下は,以上の意味から楽しみな場所なのだが,残念なことがふえてきた.
「ご当地もの」の貧弱である.
外国人をふくめた観光客が,全国に広がっているといわれる昨今,またまたなにを勘違いしているのか政府に依存した「誘致合戦」という「予算ぶんどり合戦」がはげしいけれど,誘致した観光客を「がっかり」させるなら,逆効果になりかねない.

これをわたしは「嫌われる努力」と呼んでいる.
英語教育に絶望的な失敗をしているわが国では,外国人=言葉の壁というパブロフの犬がでてきて,うそみたいに腰が引けるのである.
ところが,そんな自分が外国に行って,現地のスーパーマーケットやデパートで買い物に苦労などほとんどしない.

つまり,「売る気があるのか?」という感情が湧いてくるのが日本の地方デパートなのである.
たとえば,味噌醤油.
この伝統的食材は,地方色が豊富で,味のバリエーションはすばらしい.
全国共通大メーカーの商品もあっていいが,地元色が皆無の売り場はいかがなものか?

さいきんは,わが家の近所のスパーだって地方のちゃんとした味噌醤油をおいている.
だからこそ,知らない銘柄を見つける価値がある.
なにも,デパートで観光地の売店にあるようなものを売れというのではない.
地元密着を期待しているのである.だから,地元のひとが買う商品でなければ価値がない.

むかし,札幌をはじめて訪問したとき,地元の住民になった家内の友人が案内をかってでてくれた.
それで,北海道のさまざまな物産を土産にしたいといったら,「デパートが一番」といわれた.
観光客に有名なところで,道民は買い物をしない,と.

いわれてみればもっともで,横浜に生まれ住んで半世紀,市内観光地の売店でなにかを買った記憶がない.
品質と価格のリーズナブルさは,なるほど地元民を相手にするデパートがもっとも信頼できるものだ.

それ以来,札幌に行ったらかならずデパートに行く.
ところが,さいきん,地方都市のデパートがつまらなくなっている.
「想定客とリスク」が狂うと,観光にもならない.
もったいないはなしである.

出国税

来年2019年1月7日から,千円の「出国税」が国籍をとわず徴収されることになった.
これをわたしは「出国税A」と呼ぶことにしている.
すでに「出国税B」があるから,順番が逆なのだが,なぜか2015年7月1日からはじまったこちらはマスコミも話題にしない.それで,あえてAとBの順番をかえて区別しただけである.

「出国税A」の税収は,どの省庁かは関係なく,観光客の「おもてなし」のためにつかわれる,という政府の宣伝によって,「観光業」では降ってくるお金に興味津々のむきもあろうが,何回だまされたらわかるのか?
マスコミでは,どんなタイプの「業」に恩恵(得)があって,どんなだとない(損)のかにかまびすしい.これまでなかった税なのだから,損も得もあったものではない.
乞食のような発想はいかがなものか?腹立たしいばかりである.

アメリカの独立戦争は,新大陸住民を無視して英本国による一方的な「紅茶への課税」が原因であったことは有名である.もちろん独立の気運があったことは確かだが,この一件が「トリガー」になった.
さほどに,「税の徴収」について英米人は敏感なものなのだが,日本人は鈍感である.せいぜい,「消費税反対」というキャッチフレーズが長年いわれつづけているだけだ.

「税」にかかわる人びとは,一般的に優秀である.
そもそも,あたらしい「税」を発案するひと.既存の「税」の制度をいじくるひと.そして,とかく頭脳戦になる「税」を徴収するひと.これらが,地方自治体をふくめて政府側にいる.
おおくの場合,これら政府の「岡っ引き」を引き受けているのが「税理士」で,クライアントの利益よりも税務署の意向を優先させるしかない.

これは、「士業」がからめとられている「試験」と「開業後」の「制度」が,政府によって仕切られているからで,けっして個々の「税理士」やその他の「士」の責任ではないから念のため.
それで,各士業は,管轄する役所に住所がある「有資格者」の名札を掲示して,所長の配下である「岡っ引き」であることを「明示」している.

法曹会のように,「(司法)試験」と「開業後(裁判官,検察官,弁護士)」が分かれているほうが健全な制度だが,他の「士業」では採用されていない.
つまり,(税務・会計士)試験があって,受かると,会計士,税理士,監査監督官,租税徴収官になるようなものだ.

しかし,根本的な問題は,税制の複雑さ,それゆえの「専門性」にある.
だから,だれでもわかりやすい税制が望ましいとしたのはハイエクであった.
たとえば,所得税は「(所得ではなく)『収入』の一律10%」というだけのシンプルさに統一すれば,上に書いた「税」にかかわる優秀な人びと全員が,「税」にかかわらなくてよくなる.かんたんにいえば「失業」するから,「転職」するしかない.これが,社会維持のコストを下げ,かつ,優秀な人びとが付加価値生産に関わるようになるから,社会の利益自体を上げることになる.

この指摘はもっともで,残念ながら,会計士も税理士も,職業上,社会の「付加価値生産」にかかわっていない.つまり,付加価値生産のための歯車でも潤滑油でもなく,本来は必要ないかもしれない生産システムの外にある「チェック制度」にすぎないのである.当然に役人もしかりである.
生産性をあげるには,シンプルな税制にせよ,と一言もいわないわが国「財界」は,とっくに痴呆化している.

戦後占領期に行われた「シャウプ勧告」は,まさに,従来日本の「複雑な税制」と「運用上の不公平」が指摘されたのだったが,これを「骨抜きにする努力」が,独立日本のとった選択だった.
裏返せば,アメリカ人は「シンプルな税制」と「公平」が,その価値観の根底にあることがわかる.
なるほど,それこそが独立戦争の精神というものだ.

国家の都合が官僚の都合に変換されて,国民はそれを押しいただく,という発想とは真逆なのだ.
ところが,ここにきて,フィンテックという進歩で,制度変更ではなく,技術によって制度が攻撃される事態が予想できるようになった.
決済を現金に依存しているのは,もはや「後進国」とみなされるようになったからである.

日本は「先進国のトップ」にいなければならない,と信仰している,国際ランキングではもはや世界から相手にされない国内最高難度の学校出身者たちが,みずから「エリート」であることのプライドをかけて,「電子決裁先進国になる」として民間への命令づくりがはじまった.

売上金の入金が電子化されれば,取引先の他社との決済も電子化しないと効率がわるいというが,自社の売り上げにならない他社取引とは,他社からみれば「売上」だから,お互い様のはなしである.「経費」は他社の売上にすぎない.
すなわち,銀行が要員削減に血まなこになっているように,企業も経理を中心とした事務職のおおくが,不要になる可能性があって,その最後の壁が「納税計算」になる.
ここでは,自社内の「経営会計」にはふれない.

各国税制が,プログラミングの手間として評価されるようになるはずだ.
そのことが,本社をどこにするかという問題を引き出して,投資活動のおおきな判断材料にもなるだろう.
ここでは,「税率」以上に,制度設計における「解釈」や「煩雑さ」がおおきな評価項目になるから,「シャウプ勧告」が生き返る.

いまなら妄想にすぎないが,トヨタ自動車の本社が,たとえばシンガポールになってもおかしくない.
「税」という国家による「搾取」が,企業活動の原資を奪うなら,株主利益を優先させると本社設置場所の選択も経営上の課題になるのは当然だからだ.

そうなると困るのは国家や地方自治体である.
それで,ひそかに「出国税B」が生まれている.
これは,正式には「国外転出時課税制度」といって,国外に転出する1億円以上の株式などを有する資産家などを対象に、その含み益に対して所得税を課税するものだ。

「資産家」が前面に出ているから「お金持ちの個人か」と,人びとの関心をうすめたが,「(株式)など」,「(資産家)など」の,「など」がポイントなのである.
「個人」だけでなく「法人」も対象にしてしまえば,どうなるか?
いまは「個人」が対象だが,しっかり国外転出までに「納税管理人」という「税理士」を選出すること、所轄税務署へ届出書の提出をすることが必須だから,ちゃんと「岡っ引き」に仕事を与えている.

さておそろしきは,「入国税」である.
「出国税B」を課税されて外国へ転居しておわりではない.人生ははかりしれない.
それで,帰国しよう,となったら「入国税」を開発するかもしれない.
それまで外国で稼いだ分に課税する,という構想だ.

外国で稼いだ分は外国で課税されるはずだから二重課税だといったところで,相続税はなくならない.所得税を負担して残ったお金で家を買って死んだら相続税がくる.
それで,相続税を廃止する国がでてきた.
毛色がちがう例では,スウェーデンの「イケア」創業家は,オランダに移住した.それで,金づるの金持ちが逃げ出さないようにスウェーデンは2004年に相続税を廃止したから,ここでも重税化の日本は逆をいく.

いま,資産家が海外移住すると,山田長政のように帰国したくても帰国できなくなるかもしれない.つまり,キャピタルフライトは面倒になっている.
だからそもそも出国するな,ということだ.

どんな時代にも政府は「奪う」ものである.
それにしても,とうとう,わが国は「鎖国」をはじめようとしている.