現代と平安時代の文化比較

リアリティを喪失すると、ファンタジーと現実の区別ができなくなって、かなりのトンチンカンな言動となる。

もしも完全に、ファンタジーと現実の区別ができなくってそのままなら、それは一般的に精神に異常をきたしたとして医療機関のお世話になるハメとなる。
残念ながら、わが国は、世界一の精神病棟・病床数を「誇って」いて、500万人が「病気だ」と診断されている、世界一の精神病国家なのである。

もちろん、こんな状態になりたくてなったわけではない。

それでいわれている原因の第一が、ストレス社会、という妙な共通認識なのである。
では、わが国は、いつからストレス社会になったのか?
あるいは、ストレスへの耐性がなくなったのは、どうしてなのか?

こうした、社会的要因とか、外部環境要因とかをかんがえると、おのずと「歴史認識」という方向へと向かう。

たとえば、1000年前の平安時代とは、どんな時代だったのか?
基本的に、戦争がなかったので、「平安」だったというけれど、果たしてほんとうか?

むしろ、「イェルサレム:エルサレム:アルサラーム:The 平安」ということで、平安を願って付けただけの都の名前だったのではないのか?

短命だった「長岡京造営」では、親王クラスの暗殺があるし、「天神様」になった改革派、菅原道真も政変で左遷の憂きの目にあう。
そもそも、藤原氏の台頭は、応天門の変による、政敵、大伴氏と紀氏を排除してのことだった。
後期には、平家の台頭と、陰謀がセットになって、「乱」になり、ついには源平合戦になったのだ。

平城京の木簡から、1万人をこえるペルシャ人官吏の名簿が発見されて、むかしからの伝説、平清盛は碧眼(青い目)だったことから、平家ペルシャ人説まであるのだ。

さて、平安時代を描いた作品として、高校現代国語の定番といえば、芥川龍之介の『羅城門』にちがいない。

ここに登場する主人公は、「下人」である。
1950年、ヴェネチア映画祭で金獅子賞をとった黒澤映画の、『羅城門』は、同じく芥川の『藪の中』をもとに橋本忍が脚色した作品だ。
やはり、主人公は、「下人」なのである。

おかげで、『羅城門』は、二つの話がこんがらがるのである。

 

平安時代といえば、『源氏物語』と『枕草子』が双璧で、『古今和歌集』が思い出されて、王朝絵巻のイメージがある。
それで、木村朗子『平安貴族サバイバル』(笠間書院、2022年)が、現代人のサバイバルと「似ている」としているのは、なかなかに興味深い。

圧倒的多数であったはずの、農民や、都会に巣食う下人のことではなくて、貴族のサバイバルと現代人の生活を比べているのだ。
その根拠に、現代になって顕在化してきた、「格差社会」という現実を強調している。
著者がスポットをあてたのは、貴族社会における出世競争なのだ。

しかも、生まれもった序列を突破するためには、学問を修めるほかなかった、と。
つまり、著者は現代人の受験競争を指している。

しかし、これらは本書の「つかみ」であって、決して浅はかをあげつらっているのではないから、念のため。
逆に、王朝内の教養競争は、男を凌ぐほどに激烈化するのは、権力の源泉が娘の子が次期帝になること一点に集中していたからである。

これは、江戸期から戦後まであった、「公娼制度」に転移された。
富裕層の男性を籠絡するのは、女性の教養が第一であったのだ。
それがまた、夜の銀座にも引き継がれて、ときのひとにまでなる「ママ」とは、まったくの教養人であった。

ヨーロッパだと、ヴェルディが残したオペラ、『La traviata:道を踏み外した女:椿姫』が代表的か?
ただし、こちらは教養が強調されているわけではない。

平安後宮での常套句に、「女にて見たてまつらまほし」がある。
女にしたいというほどの美男子、という意味だから、「美少年」ということだ。
女性がうっとりするほどの男性を指す。

かつての、「ジュリー」(沢田研二)や、ピーター(池畑慎之介)が、黄色い声を集めたのとおなじ感覚だろう。

だが、本人というよりも、熱狂する女性たちの教養はいかがだったのか?とあえて意地悪なかんがえをめぐらせば、前にも書いた、「女大学」の廃れ方こそが恨めしい。
子育てを男女問わず共同で行うべきとの強制が、子供のための発想ではなく、ヘンテコな「男女同権」の押し付けだというのは、子供からしたら母と父の役割のちがいを本能的にしっているからだろう。

中勘助の驚異的な記憶力が冴える、『銀の匙』は、相手がおばさんであってもそこに母の姿を重ねているからだとおもうのは、わたしのはるかな記憶の中にもあるからだ。
母が母性をもっているからではなくて、子供が母性を慕うのであって、父に母性を期待する子供はいない。

この意味で、平安貴族の女性たちは、母性よりもなによりもいまそこにいる男性(貴族)の寵愛を欲したのであった。
それがサバイバルなら、確かに今様なのかもしれないが、あくまでも上流階級だけの話である。

庶民は?
いつだって、『藪の中』なのである。

語学としての数学

ずいぶん前に、数学を「言語」として書いたことがある。

日本人は、母語の「国語」と、外国語の「英語」を、言語(学)学習だと思いこんでいて、言語学習とは、「文系」の科目だとも思いこんでいる。
そして、「理系」の代表格といえば、「数学」で、生徒が嫌いになるように仕向けて教えるのは、「英語」もおなじ、という共通に気がつかない。

ずいぶん前に、「国語の文法(「学校文法」)」と「日本語文法」のちがいについて書いた。

小・中学校の「国語」で習うから、これを外国人に日本語を教える日本語教師は、あえて「学校文法」と呼んでいる。
「狙い」は、高等学校の「古文」を読むための下準備だという。

しかし、外国人の日本語学習者には、とりあえず「古文」は必要ないし、外国人の母語との関係をもって説明しないと、ただでさえ複雑な日本語を理解するのは困難になる。
そこで、外国人の母語と比較できるように工夫したのが、「日本語文法」なのである。

幸か不幸か、欧米の言語や中国語は、その文法が厳密であるから、これらと日本語のちがいを比較対照することは、外国人にとってわかりやすい、という効果を生む。
なので、日本人の外国語学習者は、下準備として「日本語文法」をしっておくと、外国語たとえば英語の文法とのちがいを理解しやすくなる、という事実があるという。

日本における英語教育は、この下準備を生徒にさせない無謀がある、とはベテラン日本語教師の告白である。

さてそれで、文系人間がもっとも嫌うのが、「数学」なのも、数学とはなにか?という下準備を一切教えない無謀が、妙な伝統になって、数学教師達が生徒をマウントするための十分な理由となっている。

何度か紹介している、『教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社、2018年)で、数学者である著者の新井紀子氏は、「長い歴史を通して、数学は、人間の認識や、人間が認識している事象を説明する手段として、論理と確率、統計という言葉を獲得してきた、あるいは、獲得できたのはその三つだけだった」と書いている。

さらに、「論理、確率、統計。これが4000年以上の数学の歴史で発見された数学の言葉のすべてです」として、衝撃的な一言がつづく。
「論理、確率、統計には、もう一つ決定的に欠けていることがあります。それは、「意味」を記述する方法がないということです」。

文系人間にとって、数学の冷たさとか、無機的な不気味さの理由が、この「意味を記述する方法がない」に尽きている。

「意味」は、人間が別途かんがえないといけないのだ。

逆にいえば、きっと数学にはまった「理系人間」たちは、この意味をかんがえることが楽しいにちがいない。
すると、理系人間たちのこの楽しみとは、やたら「文系」的なのである。

役人が政策立案をすることの、「とんでもない」を、だれもいわなくなったのは、民主主義の普及がされていないから、ともいえる事象だ。
本来ならば、政策立案は、「議会」と「議員」の仕事だ。

それで、議会が決議したら、行政は粛々と実行する、という手順と役目がある。

しかし、議会と議員(政党)がシンクタンクをもたない手抜きのために、役人にシンクタンクの役割を振ってしまったので、「役人天国」ができあがった。

企業の場合は、スタッフが政策立案することになっている。
そのスタッフのおおくが、「文系人間」なのである。

だから、「数字」も文系のスタッフが用意する。
社内データはもとより、各種統計データを用いるのはいうまでもない。

しかしながら、その「解釈」の訓練はどうしているのか?
あんがいと、本人任せ、なのである。

日本企業の「強み」が、ことごとく「欧米に遅れている」として、「改革」されてきたのは、文系人たちによる破壊活動であった。
これを牽引した、経済学者の肩書きをもっていたひとは、いまでは世界経済フォーラムにおける日本人唯一の理事となっている。

このひとのよくわからない論理に、おおくのひとがだまされた。
似たようによくわからない論理をかざすのは、三浦瑠麗氏である。

どうしてこのようなひとたちが跋扈できるのか?を問えば、日本国民に対しての「論理」の訓練が中途半端だからで、それが学校教育における従来型数学の限界となっている。
実用を教えないから、なんのために勉強させられているのか理解できない。

ただ、点数をとるための解法を暗記したり、手計算の方法を身体でおぼえたりしている。
つまり、おおいなるクイズ番組が数学の授業になってしまった。

しかし、もっと驚くのは、高校数学から「行列」が消えていた。
2012年からの話である。
2022年からは統計が必須化したのと交換になったのか?
しかも、「ベクトル」も文系数学から消えるという変な扱いを受けている。

天下り問題で文部次官を解雇された、前川喜平氏は、高校の中途退学者を減らすために、数学の必修をはずせばいい、と主張しているそうだが、言語道断である。
このひとには、「教育の目的」やらの「肝心」が欠落している。

わが国は、あくまで「科学技術立国」を維持しなければならない。

そのための数学を、従来の方法ではなくて生徒に理解させる工夫が必要なのである。

ナイ教授のそれはないレポート

今日2日は、わが国が連合軍へ降伏した日である。

ただし、沖縄は7日に日米両軍の将官が「無条件降伏」文書に署名している。
アメリカのプロパガンダで、日本政府も無条件降伏したかのように喧伝されているが、日本政府は降伏したが、それは条件降伏で、無条件降伏したのは日本軍であるから注意がいる。

この日以降、アメリカ政府には、「ジャパン・ハンドラー」と呼ばれる、対日政策専門の高級官僚(SES)が存在することは一般にもしられてきている。

そのなかに、ハーバード大学教授にしてケネディスクールの学長であった、ジョセフ・ナイ氏がいる。

上の一行だけで、アメリカ民主党のブレーンであることがわかるが、じっさいにカーター政権で国務副次官、クリントン政権で、国家情報会議議長と国防次官補(国際安全保障担当)を歴任している。

いまの言葉でいえば、グローバル全体主義者である。

この意味で、「ハーバード大学特別功労教授」という栄誉があるような肩書きは、ハーバード大学がかつてのモスクワ大学に匹敵する共産主義・全体主義の一大教育センター(洗脳機関)になっていることも明らかなのである。

よい子はハーバード大学にいっちゃいけないよ。

さて、ナイ氏がまとめた『対日超党派報告書』とは、2008年(ブッシュ息子・共和党政権時代)にアメリカ連邦上・下両院から、200名の議員を集めて作成した、対日戦略会議の超党派(戦争屋ネオコンたち)による報告書だ。

主なポイントは以下の6つ。

1 東シナ海・日本海近辺には未開発の石油・天然ガスがあり、その総量はサウジアラビアを凌ぐ。米国はこれをなんとしても入手しなければならない。(と勝手に決めた)

2 上記1のチャンスは、台湾と中国が軍事衝突を起こしたときだ。米・日両軍が台湾支援をするため、中国は日本の「本土攻撃」をし、逆上した日本人は本格的に日中戦争にのめりこむ。(アメリカは日本を煽るため、得意の「偽旗作戦」と日本人の似非保守をつかう)

3 米軍は徐々に引いて、日中だけを戦わせる。

4 日中戦争が激化したところで、アメリカは仲介にまわる。(「ポーツマス条約」を彷彿とさせる)この際、米軍は東シナ海・日本海でのPKO(平和維持活動)をおこなう。

5 4によって、この地域における資源開発に、圧倒的なアメリカエルギー産業が開発優先権を入手することができる。(唐突感があるがナイ氏は気にしていない)

6 以上の前提として、日本の自衛隊が海外で自由な軍事活動をできるような状況を形成しておくことが必要である。

まことに、アメリカ民主党らしい、自分たちの利益のためなら日本人や中国人(「真珠湾」で犠牲になったように、米軍の若者も消耗品として)がいくら死んでもかまわない、という見事な「戦略」なのである。
もちろん、この文章における「アメリカエルギー産業」とは、ロックフェラーやロスチャイルドの利権のことだ。

かんたんにいえば、ロックフェラーやらの利益のために、日本と台湾を見棄てる、といっている。
これが、民主党のいう、「日米同盟」なのである。

しかしながら、こんな稚拙で一方的なシナリオが現実化するのか?

このレポートから15年経ったいま、アメリカ民主党のめちゃくちゃな政策が、各地で「反米同盟」を結束させるに及んでおり、その典型がサウジアラビアのBRICs参加になって現れているのである。
しかも、アメリカの命綱「ペトロダラー」の約束が、反故になった。

ナイ教授がいう、ロックフェラーやらの利益を民主党が自分から毀損していていないか?

つまり、策士策に溺れる、になっている。

ただし、このひとたちには、成功体験がある。
それが、ウクライナでの「マイダン革命」(2014年)だった。
もっといえば、イラク戦争だったし、リビアのカダフィ殺害、あるいは「アラブの春」だった。

どれをとっても、「悪手」ばかりで、ひとつも「妙手」がない。
いかにも、囲碁・将棋を理解していないで、パワーゲームしか能がない別文化人(=野蛮人)である。

しかし、このレポートの結論は、日米同盟の終焉を意味するから、日本人にとって、あんがいとラッキーがある。

つまり、戦後から一貫してきた、「日本占領」が終わる「かも」、という意味だ。
もちろん、ナイ氏の頭の中に、「日米同盟の終焉」なんて一文字もないだろう。
あくまでも、アメリカ民主党に都合がいいことしか頭にない。

だが、アメリカのエネルギー利権のために、なぜに日本人が犠牲になることのシナリオに疑いを持たないのか?をかんがえればかんたんで、奴隷扱いだからである。
だから、ナイ氏のシナリオが現実化するのは、日本人が奴隷のまま、という条件が必要なのだ。

アメリカ民主党は、いつまでもどこまでもずっと、人種差別を是とする、とんでもない奴らだ。
この一点が壊れたら、日米同盟という名の植民地の終焉となる。

また一方で、もはやトランプ氏を司法の武器化という不正義でしか止めることができなくなったように、民主党の支配は国内各州でも終わりがみえてきた。

もしも、トランプ氏が返り咲いたら、「アメリカ・ファースト=各国ファースト」の政治理念が示されて、やっぱり日米同盟の終焉となるのだが、日本側にトランプ政権のカウンターパートがいない、という問題が浮き彫りとなる。

つまり、わが国には、「6」のさらに前提にあたる、「独立国家」としての準備がどこにもできていない、というウソのような状態がみえてくるのだ。

なんのことはない、植民国家ニッポン、なのである。

そんなわけで、やっぱりいい子はハーバード大学にいっちゃいけないよ。
バカになるから。

私説:デパート衰退のわけ

「不要産業」の代名詞が、デパートになってきた。

セブン&アイ・ホールディングスが売却を急ぐ、「そごう」と「西武百貨店」の従業員組合は、事ここに至ってストライキを実施する、としたものの、対象は西武池袋本店「だけ」という状態になったのである。

しかしながら、西武池袋本店は、新宿とはちがった地域からの客層でごった返す、「東京」のなかのひとつの中心地にある。

これがまた、「地方」との関係でいうと、田中角栄が意図した、「全国をくまなく・まんべんなく東京化する」という、あの、「日本列島改造論」に影響された、「東京の見本市」となったので、移動が困難で東京がまだ物珍しかった時代には、それでも重宝されたのである。

東海道新幹線のオリジナル計画で、「沼津駅」があったのを、ときの沼津商工会が顧客の東京への流出を懸念して、これが「大反対運動」となって、とうとう、隣の「三島駅」に決まった。
当時の孫にあたる、現商工会のメンバーは、沼津の経済衰退を、祖父達の変な努力のおかげ、と皮肉っているけれど、ほんとうか?

沼津経済は、そんな程度で興隆も衰退もするほど単純構造なのか?

わたしからみたら、この祖父があって、この孫がいる、という、「安易さ」がみごとに遺伝しているだけだとしかおもえない。
もちろん、これは、わたしの「感想」である。

その沼津に、デパートは消滅したとはいえ、大型SCは花盛りなのである。

それがまた、東京の大手不動産デベロッパーが、金太郎飴的なワンパターンでつくって、ワンパターンのテナント募集をするので、地域特性がほとんどないナショナルブランドのオンパレードになっている。

このことは、世界でも起きている。

王太子時代がえらく長かった、英国のチャールズ3世が書いた、『英国の未来像』(東京書籍、1991年)で、ヨーロッパ各地につくられているSCの貧しい建築における「思想の貧困」を批判している。

わたしは、チャールズ3世がいう貧しさを、地元横浜の「ランドマーク・プラザ」がそれだ、と勝手に特定して見物している。

この商業店舗群のつくり方とおなじものを、ルーマニアのブカレストや、ブルガリアのソフィア、ポーランドのワルシャワで観ている。
ロンドンにも、パリにも、ほぼ世界中に点在していることだろう。

そんななか、アメリカ・カリフォルニア州で160年以上の歴史をもつデパートメントストア「メイシーズ」が、とうとう閉館の苦境に立たされている。

この最大の理由が、「治安の悪化」だ。

アメリカ民主党政権(カリフォルニア州のこと)が2014年に成立・住民投票で承認された、「Proposition 47」で、950ドル以下の窃盗は「軽犯罪」となったのである。
それで警察当局は、捜査をしない、と決めたのである。

つまり、カリフォルニア州は、「万引き天国」と化した。

もっとも、カリフォルニア州は、あの有名な、歴史上もっともついていない不幸に見舞われた、ズータ氏の牧場から出た砂金が、持ち去り放題になってズダズダにした末裔が住んでいる地域だ。

血は争えない。

所有権の絶対が崩壊すれば、近代社会はたちまち無法地帯となる。
その意味で、カリフォルニア州は、「中世以前」に回帰したので、近代社会ではなくなった。
人口が他州へ流出をはじめたのは、近代社会で生活したい、ということでの引っ越しコストになっている。

さてそれで、デパートの衰退とは、徹底した「セレクト・ショップ」でもなく、なんだか漫然と商品が陳列棚にある、という景色一辺倒になったことに尽きるとおもう。
加えて、もうひとつが、買う側の無教養だ。
商品選択にあたっての「目利き」の目がないことを、ここでは無教養という。

おそらく、地方都市でも伝統文化を子供に教えないために、地元産品の目利きもいなくなってきているはずなのだ。

するとこれは、アメリカ式マーケティングリサーチでは問題解決できない。
むしろ、「生活の歴史=民俗」の問題なのである。

となると、誰がトータル・コーディネートするのか?よりも、完全なる暮らしの理想モデルはなにか?をいったん描いて、そこからの「優先順位的な提案」を観せてみたい、というのが、消費者へ教養を付与する一歩となる。

こうした「社会的使命」をすっかり失念したがゆえに、「不要産業」と評価されるに至ったのである。

アメリカナイズして、自らを鍛えたつもりの、セブン&アイ・ホールディングスの浅はかさは、コンビニで強調したい細かな気づかいの日本文化とは別のタイプの日本文化をアッピールすべきところが、その区別ができないザマに陥ったのである。

だからアメリカから輸入した経営学や経済学が通じない。
むしろ、国文学や歴史をしっかり重視していたら、とおもうと惜しい。

結局、残念な経営者が会社を潰す、の法則はなんら変わらないのであった。

金1グラム1万円

世の中は、「金価格上昇」と書きたてているけれど、金の販売社がかならずパンフレットに書く、「太古からの不変の価値」が本当ならば、「ドルや円価値の下降」が正しい評価になる。

そのドルに対しても「円安」だから、日本人が貧しくなるメカニズムは、このなかのどこかに潜んでいる。

約30年前、1グラム1200円だったのが、いっとき700円台までになって、これを底にしてとうとう1万円となったのである。

従来型の経済理論を、ことごとく否定したのがトルコのエルドアン大統領で、徹底したトルコ・リラ安政策を実施してきた。
しかし、3期目の昨年の大統領選挙で、対立候補との激戦となり、その政権基盤が「盤石」ではないと国際社会のしることになった。

どこでなにがあったのかはしらないが、3期目のスタートにあたって、従来型の経済理論を採用することになったのは、これはこれで世界をおどろかすことになったのだった。

しかしながら、トルコ人はトルコ・リラを使わないでドルでの生活になっているから、だからなんなのか?があるのである。

それでも紙面を埋めるために何でもするインチキで、トルコのインフレをトルコ・リラベースの論法でもっともらしい記事にして、中央銀行の利上げについても不可思議な解説をしている。
7月のインフレ率は、47.8%なのに、8月のトルコ中央銀行の利上げ後も、政策金利は年率25%でしかないのである。

これで、インフレ退治ができるのか?になるけれど、トルコ・リラをベースにした話なので、もはや話半分でしかない。

こんな国もある。

わが国は、「経済カースト」のなかでは、トルコよりは「まし」だとおもいたいが、完全にFRBの支配下に日銀が位置するから、その政策自由度においてはまさかのトルコ以下なのである。

これは、トルコが地図上で位置すること、つまり、地政学的に、ロシアの影響が避けられないことと関係している。
NATO加盟国なのに、EUには加盟できないトルコの中途半端さは、逆にトルコの政策自由度を担保させているのである。

あたかも、トランプ氏を徹底的に政治迫害してはばからなくなったことが、かえってトランプ氏の支持を深めて、過去最大の政治資金があつまっているように、トルコはうまくヨーロッパとつき合っている。

翻って、わが国のまずさは、徹底的にアメリカ民主党の分党のようにふるまうことで、その腰巾着ぶりを強化しているけれど、もはや「泥船」だと国民が気づきだしている。

とうとう、あのソロス財団(「オープンソサイエティ財団」)が、ヨーロッパからの撤退を表明し、従業員は全員解雇の対象となった。
どんなに資金をいれても、効果がないばかりか、かえって反発を生むことに気がついたようだ。

別の見方からしたら、トランプ潰しに集中する、という意味にもみえる。

また、BRICs首脳会議では、事前にいわれていた新通貨の話はなかった。
だが、現在の各国通貨の決済を加盟国間でより円滑にするためのシステムを構築する、ということが、新通貨のことだとすると、あんがい「まとも」なのだ。

これにはふたつの意味がある。
ひとつは、BISからの脱却を示唆するからだ。
もうひとつは、ハイエクの「通貨自由発行論」がイメージできる。

すると、わたしにはBRICs機構は、第二国連にみえてくるのである。

24年1月に新規加盟が決まったのは、イラン、サウジアラビア、エジプト、アルゼンチン、UAE、エチオピアの6ヵ国で、これらを加えた後のBRICs経済圏は、なんと西側先進国(G20)のGDPを抜き去るのである。

そしてなにより、サウジを中心とするアラブ湾岸産油国が、キッシンジャーが提案した、「ペトロダラー」からの脱却を決めたので、ドルの神通力が弱まること確実になったことが、わが国にも多大な影響を及ぼす。

何のためのアメリカ国債大量保有だったのか?だ。

また、BRICs新通貨が金本位制だという噂がもっともらしくながれたのも、石油本位の後ろ盾を失うドルへの攻撃だったとしたら、否応なしに金価格が上昇し(ドルや円の価値低下)が起きるのである。

すくなくとも、ペトロダラーを創設したキッシンジャー御大(御年100歳)が存命中に、その崩壊を目にして永眠するのか?それともすでになにか手を打っているのか?

一般人にはわからない。

ただ、1974年から半世紀で、大転換点をむかえていることはまちがいない。

国際バカロレアの解説講義を聞いてきた

国際バカロレア(International Baccalaureate:IB)とは、スイスに本部を置く非営利団体がおこなう、大学入学資格試験とそのための教育プログラムをさす。

この設立の背景には、外交官の子供たちが赴任先の国における教育で、母国での大学進学に不利にならないようするためで、目的には、より良い平和な世界を築くために貢献する人材育成として、「全人教育」を掲げているという。

ここで注意したいことが3つある。

ひとつは、ヨーロッパの外交官とは、すなわち「貴族」だということだ。
日本人はすっかり忘れてしまっているが、現代ヨーロッパは相変わらず「身分社会」なのである。
ゆえに、貴族の子供に対する特権的教育プログラムになるのは当然である。

ひとつは、より良い平和な世界を築くために貢献する人材育成としているのに、ウクライナ戦争をやめられられないのは、このプログラムの失敗を意味しないか?ということだ。

それがまた、ひとつ、「全人教育」を掲げていることの不可能なのである。
わが国の伝統にしたがえば、子供の教育の責任の第一は、家庭=親にあった。

共産化したアメリカ民主党は、親が子供の教育責任者であることを否定して、行政にあるとした。
それで教育委員会に抗議した親たちを、なんと「国内テロリスト認定」したのであった。
この認定を受けた親を、FBIが逮捕する事態にまでなっている。

このような、発信源の側の諸事情をふまえたうえで、IBの説明を受けるのは重要なことだけど、説明者はこのような前提を説明してくれるわけもないので、聴く側の問題になっている。

また、このブログでは何度も書いてきたが、だからといってわが国の教育が素晴らしいとは到底いえないのも事実である。

この原因は、独占禁止法に違反する文科省の学校教育全般(義務教育から大学まで)に対する独占であって、さらに、研究予算の配分も文科省が決めるので、学者も全員いやでも文科省の役人に逆らうことができなくなっているおぞましい現実がある。

文科省役人の好き放題の隠れ蓑になっている、堕落した国家機関が、日本学術会議なのだ。

もちろん、わが国の大学受験制度は、文科省の独占を強化するためにある。
そのための、手段が「難関校の神話化」である。
これにぶら下がっているビジネスが、受験予備校・塾である。

とにかく、「なぜ?なに?」といった余計なことを一切かんがえず、教科書が聖書・コーランのごとく正しい、とした一種の宗教的な学習ができる者が、難関校に合格するようになっている。
ゆえに、A.I.時代を迎えて、これらの人間は生き残れるのか?という疑問が各所から湧き起こっているのであって、決してやっかみからの世迷い言ではない。

それはもう、いまの日本政府をみればわかる。

この難関校出身者ばかりで構成されている組織群の体たらくは、かつての興銀や長銀の破綻と似ているのである。

興銀は東大出でなければひとに非ず、だったし、対する長銀は京大出でなければひとに非ず、といった、およそいいおとなが口にするのもはばかれることが、行内の常識だった。
この幼児性は、家庭内教育の否定を第一にした、GHQ=アメリカ民主党が構築した、戦後教育の成果であり、その経営破綻は、結果だったのである。

ただし、日本型の経済を支えたのも、これら長期信用銀行の役割だったから、これを潰さざるをえなくしたバブルとバブルの崩壊は、日本潰しの最終局面としてアメリカに都合がよかったことも、日本人はしっておくべきだ。

そんなわけだから、家庭内教育とIBを分けて、あらためてIBだけをみれば、少なくともいまの日本の完全管理された学校教育の方法よりは、より、生徒オリエンテッドであることは間違いない。

前にも書いた、アメリカの教科書がやたら分厚いのは、「読めば分かる」ように、懇切丁寧さの結果なのである。
だから、学生はこれら大部冊を読む作業に徹するのだけれど、飽きさせないための工夫も又ページ数を増やす原因で、現実世界での応用事例をふんだんに紹介している特徴がある。

今回、わたしが受けた解説講義は、IB認定校のじっさいの数学授業をサンプルにしたものだった。
生徒たちと学校の中庭に出て、校舎にある塔の撮影をする。
この画像に三角形を書く加工して、タンジェントをもちいて塔の高さを算出するのである。

そのためには、現場でなにを確認しないといけないか?を生徒にかんがえさせて、意見を述べさせる。

なお、これらの計算に用いるのは、世界的に有名な「教育用グラフ電卓」、TI-Nspire CX II CASで、生徒たちに配布されている。

さて、こうした授業法がわが国で普及しないのは、当然に文科省の独占から逸脱するからだし、受験問題の解法に合致しないからであるけれど、一方で、現場レベルでは、数学教師がこうした授業法を面倒がって嫌がるからである。

公務員化=お役人化した教師は、学習指導要領に準拠していていさえあれば、それでいいからで、できるできないは、生徒の理解力と努力次第、という上から目線が、この上もなく楽ちんだからだ。

もはや、国家百年の計、などと教育の重要性をいうものもいなくなって、なんでもいいから大学卒業が高学歴なのだ、とか、それで一生が安泰だという時代は終わったのに、素直にやらされているだけの子供が最大の被害者なのであることだけがわかったのである。

人類史上初が軽すぎる日本の怖さ

フクシマの、処理水(「汚染水」となぜかいわなくなった)海洋投棄のことである。

電気事業連合会からの巨額広告料収入があるからか?また、政府広報の巨額広告料収入があるからか?むかしは、「聞屋」といって蔑まされた記者稼業が、ふたたびあやしい存在になってひさしい。

もっと政治向きに穿ってみれば、電力労連がNHKとかの労組と結託しているのか?ともおもえるのは、その報道内容のほとんどが、「ウソ」で、国民の目を事実からそらす努力をしているからである。

物質文明のひとつの極致が、原子力発電である。

二度も「核」の空中爆発をくらってえらい目にあった日本人がいう、「世界初の暴挙」があることを忘れて、今度は自ら「世界初」を決定して実行した。

あたかも、ヒロシマに刻まれている、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」に対して、被害者の日本人があやまちを冒したようで書き換えるべきではないのか?の正当な意見に、広島市は詭弁を弄しているから、参照されるといい。

こんなことがまかり通るから、フクシマの人類史上初がたいした議論にならずに、あるいは信用できないけど、マスコミが実施する社会調査で、支持者が6割もいるような恥を恥とも思えぬ国民になったのである。

広島市の見解のとおりなら、二度目となる今回の海洋投棄は、わが国の意思なのだから、攻撃された受身とはぜんぜんちがう、かえって重大な「あやまち」ではないか?と、広島市長は広島市民たる岸田首相に抗議をして当然なのに、これをしないのは、ダブルスタンダードである。

そんなわけで、中国がわが国水産物の禁輸を決めて、わが国の水産物輸出の42%を失うに至った。

この数字の中に、広島県の水産物も含まれる。
ことは、福島県の漁協だけの問題ではないのだけれど、こんな事態を日本政府と与党はほんとうに事前に予想しなかったのだろうか?

さきに「ありき」を決めてしまって、あとはひたすら実行するのみ、というのは、あまりにもストレートで単純すぎる。
単純な受験脳が仕切る、エリートの崩壊だとしかおもえない。

まずは、外交的な敗北があげられるのだ。

海産物が市場からなくなって、困るのは中国人だ!という言い分も、子供じみている。
なんであれ、外交カードを相手に渡したことにかわりはなく、今度は解禁したばかりの渡航制限復活もいいだした。

24日付、ニューズウィークによると、もしや、あちらの原潜が台湾海峡で沈没したかもしれず、その汚染はフクシマ海洋投棄の比ではない。
これを隠す、絶好の口実を相手に与えた、という意味でも、外交カードなのだ。

「廃棄物その他の物の投棄による海洋汚染の防止に関する条約」通称、ロンドン条約は、わが外務省のHPでは、「同条約は,水銀,カドミウム,放射性廃棄物などの有害廃棄物を限定的に列挙し,これらの海洋投棄のみを禁止していた。」と解説している。

つまり、条約違反が疑われるのである。

さらに、この条約の前提に、「海洋法」がある。
「海」は誰のものか?を規定しているのだけれども、「みんなのもの」と結論づけている。
世界の大陸につながっているのが海だからで、汚すな、という具体的ルールがロンドン条約だ。

政府が「お墨付きを得た」という、IAEAは、上の条約を管轄してはいない。

人類が経験した、メルトダウンを伴う原発事故は、過去3度ある。
スリーマイル島とチェルノブイリ事故につづいて、フクシマとなったが、どれもこれまでは、「陸上での処置」をしてきた。

このたびの日本政府の決定は、人類初めての海洋投棄となったのだ。

事故から12年以上が経過して、タンクが足らないというけれど、水のまま保管するだけなのはどういうことか?
コンクリートで固体化する方法がどうしてとられないのか?がわからない。

つまり、物理的方法論の前に、わが国はこの12年以上、この事故を国内問題としていたのに、今回、国際問題に拡大したのである。
しかも、自分たちの意思でだ。

さらに、あたかもトリチウムだけだ、とウソをついている。
東電の発表で、ALPSを通過した「処理水」には、セシウムやらストロンチウムやらも含まれている。

世界の原発を見渡せば、どこもかしこも、トリチウムを含んだ排水を放出しているという、無責任な報道もある。
これは、熱交換器を通じて蒸気を冷やすのにつかった水が、トリチウム化するからで、フクシマのように、デブリに直接触れた水とは意味がちがう。

だから、セシウムやらストロンチウムが入っているのである。(環境省
トリチウムの半減期は、12.3年。
セシウムは、セシウム134の半減期は約2年、セシウム137の半減期は約30年。
ストロンチウムは、28.8年だ。

ついでに書けば、デブリとは燃料棒が溶けてしまって、周りの構造物も溶かしたために溜まったもので、どんな成分なのか?はいまだにわかっていない。

どちらにしても、薄めたから大丈夫だ、という理屈は、バリバリの文系か知能が低いひとにしか通じない。
いよいよ、小学校の理科での授業が面倒になったのである。

理系脳の子供に、薄めたから大丈夫は通じっこない。

悪魔的な宣伝部隊からしたら、6割と、かくも支持者が多いことに満足していることだろう。
しかし、この愚かな支持者達は、「仕方がない」という理由のはずだから、仕方がない人生を歩むはずだといえば、他人事になってしまう。

ところが、国内問題から国際問題になったことの重大性にも気づかない阿呆だから、思いもかけない海の彼方の国から、どんなイチャモンがつけられるのかも想像できないないのだろう。

もちろん、「風評被害」を作り出しているのも、政府だ。
ぜったいに正確なデータを公表しない。
日本の漁業を潰して平気の平左なのは、もう「票田」ではないからである。

これに真っ向対抗するような外務省なら、とっくに反対表明してしかるべきなのだった。

さては、日本観光で寿司や刺身を食べることの危険を外国人観光客にも擦り込んだ政府が、インバウンド増大のためと称する観光庁予算を倍増させるのは、もう狂っている。

歴代最長の外務大臣経験者の岸田氏をして、国際問題になったことの重大性に気づかないのも不幸だが、やっぱり国民のおおくが阿呆丸出しなのが問題なのであった。

みずほ銀行への提訴はエリート崩壊

ブルームバーグが9日に伝えた記事によると、みずほ銀行ニューク支店に勤務していたアメリカ人が、「差別的待遇を受けた」として、ニューヨーク州地裁に提訴したという。
なお、損害賠償として、約14億円を請求しており、一方のみずほ銀行からはコメントがとれていないという。

記事は、「訴状」に基づいていて、なにがあったのか?について書かれている。
また、訴えた相手は、みずほ銀行と上司だった3人のマネジャー(個人)である。
もちろん、裁判なので今後どうなるかはわからないが、サヨクの牙城ニューヨーク州地裁ということで、みずほ銀行サイドは大忙しになっていることだろう。

ちなみに、みずほ銀行といっても、旧富士銀行なのか、旧興銀なのか?はたまた旧第一勧銀なのか?があるから、3人のマネジャーとは、これら旧3行のひとを指すのか?もわからない。

わたしがもっとも気になる原告の主張は、マネジャーから「より日本人的な従業員になるための講習を受講すべきだと伝えられた」としていることだ。

つまり、外国人職員に対して、「より日本人的な従業員になるための講習」があることを意味するからで、それはどんな内容なのか?に興味が涌くのである。

むかしから、「郷に入っては郷に従う」という諺があるのが日本人だ。

明治で、幕藩体制という地方分権が、中央集権体制に体制変換した。
なので、いまの日本人は、中央集権がふつうだと思いこんでいる。
しかしながら、この国の歴史をみれば、地方分権の時間もじゅうぶんに長いのである。

それゆえに、旅人は「水のちがい」に気をつけた。
けっして生水を呑まずに、ところどころにある茶屋で、沸かした湯でいれる茶をのんで給水していたのである。

それが、中央集権の国民軍ができて、外国に出かけて戦争をすることになった。
日露戦争の2年前に発売された、『正露丸』は、「征」の字が当初つかわれていたのである。
発売当初は、『忠勇征露丸』が商品名であった。

この画期的な薬は、「水のちがい」を克服したのである。

なので、国内でも重宝した。
近代水道が全国津々浦々にまで整備されたのは、ついこないだのことなのである。
しかも、まだ井戸水に頼っている地域はたくさんある。

すると、この「水」という概念を、「ひと」に置換させれば、その土地土地の人びとの生活に、独特のもの(文化)があるのも当然で、これをまた、「この街の水があう」とか、「あわない」とかというようになったのである。

アメリカという人工的に建国された国で、民主党と共和党の対立が起きていることの原因のひとつに、東西の沿岸部、東海岸なら建国13州や、西海岸なら、カリフォルニア州やらワシントン州、それにオレゴン州とかが、民主党の牙城で、その他の内陸部が共和党の牙城になっているのは、建国後も移民の流入がとまらない沿岸部と、総じて農業で定着した伝統がある内陸部のちがいとになっている。

その代表的で、かつ、面倒なのが、ニューヨーク州なのだ。

バイデン政権が国境を破壊して、すさまじい数の不法移民が流入したことで困り果てたテキサス州が、民主党の知事や市長がかかげる「聖域都市:移民はたとえ不法でも受け入れるべきだ」と宣言した場所へ送り込んだら、ニューヨーク市長が「もう無理だ」と声明を発したが、聖域都市の看板は降ろしていないので移送を継続している。

これも、移民側からしたら、水があう・あわないという話であって、ニューヨーク市は、アメリカ人のホームレスを施設から追い出して、これに移民をいれている。
ただし、待遇、たとえば市から提供される食事などが口に合わないとして、ニューヨーク市役所に押しかけて抗議デモをやっている。

これらが、ぜんぶ合法的な「権利」なのである。

さて、みずほ銀行がアメリカ人従業員とコミュニケーションをとれなかったばかりか、どうやら失敗したらしいことは、訴状でみえてくるのは上に挙げたとおりだ。
この事象だけをみれば、日本のエリート教育がまちがっていることにも直結する。

そこで、心配事はふたつある。

ひとつが、日本企業でドミノ倒しのような訴訟ラッシュにならないか?
まずは、日本企業に就職してから、後に提訴すれば、莫大な「ボーナス」を得ることができるかもしれないからだ。

もうひとつが、経団連からケツを叩かれて自公政権がやっている、移民政策が効をなせば、ニューヨーク市のような状態が、全国に拡散して発生することの可能性だ。

すでに一部の国から、自国民への「奴隷制」だという批判を浴びている。
安い労働力が欲しいだけ、が通じないのは、相手も人間だからである。

つまるところ、ここでも、エリート教育の失敗がその根本にあるとわかるのである。
その失敗の原因は、かんたんすぎて誰にでもわかる。

文科省による、教育カリキュラムの独占(学習指導要領)だし、その延長にある受験制度がやめられないのも、ぜんぶが「利権」だからである。

利権によってつくられているのが、わが国のエリートなのだ。

だから、世界に通用しない。
もちろん、一切の逸脱が許されない教育カリキュラムの独占なのに、日本文化とはなにか?もないのは、受験の問題にはでないからである。

ムリは承知でいえば、公正取引委員会が、「インボイス制度」でしたように、文科省に対しても独占禁止法の適用を予告してほしいものだし、願わくば、この役所の廃止を訴えたい。

そうしたまちがったエリート教育のひとつの成果を、夏の甲子園で慶應義塾高校がみせてくれた。
「勝てば官軍」が染みついた自称エリートたちは、相手のミスを煽ることを旨とする。

高野連の爺さんだか、慶應の塾長だかが、スポーツマンシップとか、相手のリスペクトがなかったことに対して、世間に遺憾の意ぐらい示すべきがなにもない。

全体が麻痺しているのである。

今般、みずほ銀行が提訴されたのは、ぜんぜん特別なことではないのである。

安芸高田市政&議会の全国拡散

こないだ書いた、安芸高田市の若い市長が中心になっている軋轢は、市の公式YouTubeチャンネルで、1ヶ月で前編が116万回、後編が57万回、併せて170万回以上再生と、人口3万人ちょっとの地方自治体としては異例の記録を叩き出している。

これに便乗してか、地元、「HOME広島ニュース」(テレビ朝日系)も、100万回再生を連発して、全国放送並みのヒットとなっている。

翻って、奈良県宇陀市では、市長(たまたま出身校が京大と安芸高田市と同じ)が、駅前施設を巡る市議会議員との対立から、議員の一般質問への回答を拒否する事態となって、「全員協議会」が、異例の公開・録画・放送されるに至っている。

ただし、「宇陀新聞社」のYouTube再生回数は、上と同様に1ヶ月での数字だが、こちらはずっと地味で、前半が1600回、後半が2000回弱の再生回数である。
なお、こちらも、人口3万人ちょっとの市である。

安芸高田市は、市長がガンガン発信しているアクティブなのに対し、宇陀市は真逆のパッシブだから、野次馬の見物としては、確かに圧倒的に安芸高田市の方が面白い。

宇陀市と対立に至った議員は、弁護士の指示なのか、パッシブを貫いているので、業を煮やした同僚議員たちが、いろいろ発言しているけれど、要領がつかめないのである。
そんなことからか、コメント欄にも投稿がないのは、なんのことかよくわからないために、滅多な書き込みができないのだろう。

その他、YouTubeに、全国各所の自治体の「お粗末」が動画になっているのを散見するようになったのは、わたしの視聴分析アルゴリズムのおかげか?
ただし、再生回数では、宇陀市にも及ばない地味さばかりで、その興味のなさに興味が涌くのである。

そこで、わが横浜市はどうなのか?例によって野次馬根性が顔を出したので検索したら、全国最大人口370万都市の議会中継動画は、昨年暮れの「令和4年市会定例会第4回」で、ダイジェスト版というのがでてきた。

再生回数は24日の本稿執筆時点で、1708回だ。
人口で宇陀市の123倍以上ある、横浜市にして宇陀市に劣る実数を、統計学者の現職市長はどのようにかんがえているのか?

たぶん、興味もないのだろう。

しかしながら、予算のかけかたがNHK並みだと一目でわかるのがその贅沢なナレーションやらプロの仕事で、職員が淡々と定点で録画しています、というスタンスではぜんぜんない。

また、市議会は、「みんなの横浜市議会 子ども向け学習動画ができました編」という動画を1年前にアップしている。
議長、副議長、議会広報会議委員らの登場で、クイズ形式で学習動画をPRする企画だ。

それが、同様に、1498回の再生数なのである。

これは、市民が観ているのか?それとも市外の専門家が観ている数が多いのか?
どんなに画像や音声の質をあげたりしても、市民が興味を示さないのは、やっぱりつまらないからである。

なお、上に挙げた横浜市の公式動画は、どれも、「コメントはオフになっています」とあって、書き込みそのものも拒否しているのである。

もちろん対照的に、書き込みもアクティブなのは、安芸高田市の方で、そのほとんどが市長への応援になっている。

確かに、理詰めの市長の瞬間芸に昇華しているロジカル・シンキング能力は圧倒的だ。
また、メガバンクでアナリストだっただけに、統計の職業専門家に対して統計素人の議員が挑んだ無惨は、議員の無謀な勇気だけが目立って、吉本喜劇のような展開になるから、見物人が拍手するのも頷ける。

ただし、この拍手は、誰向け?かと問えば、なんだか無惨な議員向けだと思いたくなるのは、とっくにキャラ化してしるからだ。
これらのキャラが立った議員が一般質問に登壇すると、妙に期待が膨らむからで、もちろんこの期待を裏切ることはなく、あくまでもトンチンカンな芸を披露するのである。

市長にどんなに論破されても出てくる、あくまで上から目線でものを言う根性は、まことに恥知らずなので、視聴者を飽きさせないのである。
ただ不気味なのは、これらの御仁たちが、どうやらヒール・キャラであることすら自覚していないことへの驚きで、それがまた怖いもの見たさの「見せ物化」になっている。

なんだか、猫が捕らえたネズミをいたぶるような感じがして、一方でたまに市長への批判があるのは、そのサディスティックな残虐性に対する不快感にちがいない。

二元体制はそもそも対立関係にある、という正論に、なぁなぁに慣れた議員も新聞社もついていけない。

ただし、形式上は対立関係にある通りだが、知恵として収束を図るというのも、あながちぜんぶがまちがってはいない。
それが許されるのは、二元体制下での当事者双方が全員(首長も議員も)、正しい職務倫理のもとにある、という前提がある。

いま、我われが目にしている二つの市の軋轢は、この前提が崩壊した姿なのであり、横浜市は最初から「ありません」と表明してくれているも同然だから、市民と市が分離して存在するようになっている。
あとは国と同様に、「マフィア化」するしかないのである。

地方がこれだから、中央たる国も崩壊する。

それが、フクシマ汚染水の海洋放出問題で、当事者を無視して実行責任を担っているのが、淡路島を選挙区とする大臣様なのだった。

反対する漁民たちは、淡路島を訪問して、この議員の無謀を島の有権者に訴えたのだろうか?

こうしたことを飛び越えて、隣国から正論をかまされるわが国の国家としての「自治」はどうなっているのか?を改めてかんがえたいものである。

上方が芸能の中心なワケ

文化大革命(1966年から1976年までで「終息宣言」は1977年)で、徹底破壊された「伝統文化」は、二度と戻らない。

日本人は、「漢籍」の伝統を江戸期まで「常識の一部」としていたけれど、やっぱり、明治政府の「文明開化」とか、「脱亜入欧」が、「富国強兵」のスローガンで上塗りされて、さらに敗戦でGHQが命じたので、すっかりわずかな「古典のなかの漢文」として暗記させられているにすぎなくなった。

それでも、まだ、テストにでるからと、「絶句」や「律詩」の暗記は常識なので、いまの大陸人よりは漢詩を理解している。
あちらの一般のひとたちはぜんぜんしらないのである。

しらないだけでなく、詩の原文をみせても読めない。
当時の文法がちがうだけでなく、当時の漢字を簡略体しかしらないひとにはもう読めないからである。

さらに、日本人にはもうひとつのアプローチがあって、たとえば、『枕草子』とか、『源氏物語』には、ちゃんと漢籍の知識が織り込まれているので、これら「国文学」に親しもうとしたら、おのずと漢籍をたどらないと意味不明になってしまうのである。

藤原氏による、「摂関政治」の確立は、世界史的な不思議にみちている。

そもそも、だれも天皇の地位を簒奪しようとせずに、代理人たる摂政や関白職を設置して、その席の争奪戦を一族でやっていた。

「平安」だから、血なまぐさいことはなかった、とはぜんぜんいえない血なまぐさいことばかりやって、藤原氏はあの地位を独占するに至るのである。
すると、こんどは一族のなか、親兄弟に母方の親兄弟も加わってまた争うのだった。

ちなみに、当時は、天皇の跡取り(将来の天皇)を誰が産むかが、祖父の地位を決めた。
つまり、自分の娘を皇后にさせるばかりか、国母にしないと、摂政や関白になれないのである。
この点で、あの平家でも「清盛一代」しか、これを実現していない。

ポッと出の秀吉が関白になったことの驚き(異例さ)は、征夷大将軍よりもすごいのである。

さて、藤原氏の栄華は、道長を頂点とするといわれている。
ときの天皇は、後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇で、源流となったのは、後一条天皇・後朱雀天皇の曾祖父にあたる村上帝であった。

この村上帝が、王朝文化の祖ともいえる風流人だったのである。

ただし、村上朝で平将門と藤原純友の乱があって、質素・倹約に努めなければならなかったことが、かえって帝を風流の道に向かわせたのかもしれないが、元々の才がなければやろうとしてもできないことに相違はない。

「光源氏」のモデルとされているのが、道長だというのは、紫式部の立場も影響している。

村上帝の孫にあたる、一条天皇(後一条天皇・後朱雀天皇の父)の皇后は、有名な「中宮定子」であった。
このひとの父は、道長の兄にして関白・内大臣の道隆である。
女房(中宮のブレーン)に、清少納言がいた。

しかして道隆に人望がなく、道長は対抗して娘の彰子を入内させ、なんと、ふたりが「皇后」になってしまった。
その中宮彰子の女房が、紫式部であった。

そんなわけで、清少納言と紫式部は、文化レベルを競う代理戦争のブレーンになっていたのである。

ときに、当時の平均寿命はやたら短い。
男性が50歳、女性が40歳という。
女性の嫁入りは、13歳ぐらいだった。

すると、たいそう不思議な疑問が湧き起こる。
彼女たちの教養は、どうやって磨かれたのか?だ。

ここでいう教養とは、宮廷における文化レベルに追いつくという程度ではなくて、中宮のブレーンになるほどの高度な教養をさす。
分野でいえば、手習い、和歌、音楽、絵画、薫物がメインで、ただ手習いといっても内容は深く、古歌・故事を学び、昨歌も含む。

音楽は、琴や琵琶の演奏のことで、絵画は自ら描くことはもとより、他人の作品への鑑賞力も要求された。
とくに、演奏については幼少時より厳しく教わったという。
薫物とは、香のことで、調合の知識も含む。

また、男性の必修、「漢籍」についても、ひそかなるもの(あからさまにしない)としての、当然の修得があった。

しかしながら、これらを統合した生活が、宮廷での日常なので、学問というよりも、「芸能」であったのである。
帝やらを慰めるための、ウィットに富んだ女性が好まれ、これらの素養がないものは高い地位のものほど相手にしなかった。

つまり、嫁にいけないのだ。

ただし、当時は通い婚なので、娘は実家にて一生過ごす。
なので、家庭内教育でぜんぶを修得するのが当時の常識だったから、「家」そのものの教養が娘に転化されるとかんがえられていた。

上方の、とくに、女性を中心とした「芸事」が、関東以北のそれとは様相がちがうのは、どうやら宮廷文化の影響なのではないか?とおもわれるのである。
その典型が、宝塚(少女)歌劇団だとしたら、素養にみちた良家の子女がこぞって入学を希望する意味も理解できるというものだ。

雅の伝統なのである。