夏休み 城崎から その2

美山の途中,綾部のはなしがながくなった.
京都駅から直行バスがでているときいた「美山茅葺きの里」は,深い山の深山と,美しい山がかさなって,「美山」におちついたのだろう.
現代の快適なバスでも,2時間かかる.

途中の一軒宿に泊まることにした.
はなしずきな女将に,綾部のトンチンカン話をしたら,おおきくガッテンしてくれた.
なかでも,「ライバルは東京です.」の幟旗については,「他人は関係なく自分とこの魅力が大事なのに」といわはった.

商売がわかっているひとは,商工会にいないという証拠をまたみつけた.
こんな女将さんだから,どんな夕食かとしぜんに期待がたかまる.
それは、「鶏鍋」だった.名古屋コーチンと地鶏を掛け合わせたというから,軍鶏のような味わいがあるが,軍鶏ほど肉は硬くない.

地元の醤油と水と砂糖だけなのに,肉と野菜からのうまみでしっかりした味である.
その鶏の卵をつけていただくから,ユダヤ人が卒倒しそうな罪な食べ物になる.
罪なものは美味いにきまっている.
ところが,もっと美味いものがでてきた.

ご主人がつくる米であった.
小さいとはいえ,茶碗に四杯もたいらげて,かんじんの鍋の肉をあまらせた.
うっかりご飯をたべすぎて,鍋を完食できないことをわびたら,「そんな言いかたもありますか」と笑われた.

こうなると,朝食への期待はふくらむ.
パンが出てくることはありえない.
深い山の中とはいえ,若狭まではそう遠くない.
それで,若狭のかれいの一夜干しに例のご飯である.

久しぶりに,日本人にうまれてよかった,という朝食だった.
かれいの身は手で折ると,中骨だけがかんたんにはずれた.縁側の小骨はそのままいける.
うまいみそ汁に,三方の梅干し.
このあたりは,紀州の梅ではない.

京都の食が若狭に依存しているのがよくわかる朝食でもあった.
祇園まつりのこの時期,洛中では生鮨(鯖の棒寿司)を食する風習があるから,縁起物として馬鹿高い値段になる.
鯖は下魚あつかいされるけれど,鯖寿司となれば別格である.

江ノ島にそそぐ境川は,相模国と武蔵国の境だったからという名称だ.
この川の岸沿いには藤沢から横浜市瀬谷区まで,わが国唯一,七社の「鯖神社」が連なっている.
いくつかは「鯖」ではなく「左馬」と書くが,一日で全部を参拝すると御利益があるという言い伝えもある.自転車で回れるが,徒歩ではきつい.
おそらく,江ノ島沖でとれた鯖を川を遡って運んだのだろうというが,詳しくはわかっていない.

茅葺きの里は,じっさいに生活している家々である.
ここも,妻籠宿と同様に,すっかり開発から忘れられたのが幸いした.
当時の美山町が,その貴重さに気がついてずいぶんと予算を投じたという.
茅葺きの茅は,入会地の茅場で調達していたはずで,屋根葺き職人の手配もたいへんだ.
市になっても,葺替え費用の9割を負担して保存に尽くしているという.

大型バスで見学していたのは中国人観光客だった.
この光景をどのように感じ観ているのかわからないが,写真スポットは心得ている.
このエリアの駐車場は無料だが「心付け」のための箱が設置されていた.
これは,天橋立でも検討すべきではないか?

きれいなトイレも,休憩所も無料で利用できるのは,ヨーロッパでは論外である.
どんなによごれたトイレも有料がふつうだし,無料の休憩所という発想がないだろう.
「玄武洞」には,ボランティア・ガイドがいたが,ガイドが無料という発想もない.
免許をもったプロのガイドが,きっちりガイドしてその恩恵を有料で受ける.

日本にも国家資格で通訳案内士があるが,ありえないほどこれで食べていくことはできない.
ボランティアの心掛けはすばらしいが,「プロ」ではないものをたくさん欲しがるのが日本の行政である.
この逆転は,生産性に影響することもつけ加えておく.

美山の山中から高雄をこえて,洛中を南北・西から東に斜めに通過して,山城の国から伊賀に向かう.
つまり,但馬の国の城崎から,丹波の美山を経て山城の洛中を通過して伊賀の国へという順になる.なぜか,ふるい国名の方がわかりやすい.

関東平野という日本最大の平野に住んでいるから,ふだんは気づきがないし,新幹線という高速移動手段を利用すれば,箱根一帯のトンネル群を除けば海沿いを走るので,やっぱり気にしないが,自動車という交通手段をつかうと,たちまち「日本は山国である」という小学校で教わることの意味をしる.

岐阜まで中央道を行ったからなおさらだが,とにかく「山」ばかり.
その形状のちがいが,はるばるやってきた感を増幅はするものの,やっぱり山地にかわりはない.
長野県では,諏訪湖から登った県内唯一の県営射撃場からの,北アルプスを見通す眺めがすばらしい.
しかし,この景色は「絶景」ではあるが,「絶望」でもあったろう.
連綿と連なる山々の緑は,そこに人手による生産がなにもないことを示している.冬ともなれば,一面は白しかない.

だれがどうやって決めたのか?
律令制による「国名」のいわれは,ほとんど古代から現在までをとおして納得がいくものである.
もしかしたら,「うたごころ」があるからかもしれないなどとおもうのである.

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