芸術と政治

『表現の不自由展』というアイデアは、なかなかのものだとはおもうが、その不自由が、政治とのたたかいのはなしになるのは必至だから、県や市といった行政との展覧会では、まったくそぐわないのは最初からわかっていたのではないかとおもう。

いわゆる「アングラ」とどういう関係があるのか、アングラ・サイドからのコメントがみえてこないのも、今回の騒動の特徴か?

「体制」によって、あつかいが180度ことなるのは、「体制」じたいが180度ことなるからだ。
すなわち、価値観の逆転である。
この「逆転」こそが、「革命」なのだ。

芸術監督を務めたひとの「謝罪」がニュースになったのは、「謝罪した」からではなくて、なにに謝罪してなにに謝罪しなかったのかということを読めば、ようは確信犯だったことを告白しただけだ。

主催者が自治体だから、『表現の不自由展』における表現がどこまで許されるのか?もあるが、いわゆる慰安婦像を展示したのは、『表現の不自由展』における「不自由」をアッピールするためでもあろうから、主催者からの「中止」という「不自由」をもって目的が完結したとかんがえられる。

すなわち、「中止」こそが当初からのねらいだとすれば、中止にうごいた政治家たちの行動をコントロールしたという成果もふくまれる。
ために、いわゆる慰安婦像の破壊力が発揮された。
いまの韓国政府の思考パターンと酷似していることが読み取れる。

いつから計画されていたのかの詳細はわからないが、日韓関係におけるひとつの破局は昨年の韓国大法院判決があるし、慰安婦財団の解散もあるから、その意味では「なにをすればどうなる」という予測は可能であろう。

ジャーナリストがなぜに芸術監督に就任したのかもしらないが、愛知県と名古屋市の「先進性」が、これを可能にしたにちがいない。

ソ連でもいまの中国でも、芸術は国家(というよりも「党」)が管理するものだというのは常識だ。
上述のように、「革命」の価値観をいかに表現するのか?と社会主義・共産主義の優位性をいかに他国にアピールするかという「宣伝(プロパガンダ)」の目的があるからだ。

従軍慰安婦というファンタジーは日本からの発信だった。
そこにおける「強制」というキーワードが、徴用工についても引き継がれたが、現実の徴用工はそのほとんどが募集工だという事実がある。
しかし、「歴史」における「史実」を改ざんするのも「革命」なのである。

もちろん、発信元の朝日新聞が謝罪文をだしたように、強制連行をともなういわゆる従軍慰安婦は存在しないことが確認されている。
にもかかわらず、この存在を認めた日本政府の内閣官房長官談話としてのいわゆる「河野(洋平)談話」を、いまの内閣も踏襲するとして訂正していない。

この日本側の中途半端さが、日本国内における一定の政治勢力を温存する役割もはたしているし、貿易の手続き上の問題が「意図的に勘違い」のプロパガンダを助長している。

だから、今般の輸出手続き変更についても、一連の韓国から日本イジメに対する日本からの「報復」であるという主張が、輸出品の管理の不手際だという実務をとおりこして、あくまでも「報復」になるのは、「報復」にしたいからである。

自分たちが日本イジメをしているという事実と認識があるから「報復」がはじまったという解釈と、なにがなんでも日韓を分離したいという勢力とのベクトルの一致である。

それにしても、安全保障上統制されるべき品目の国内法整備が「ない」国をどうしてこれまで「ホワイト国」にしていたのか?
小泉政権下の日本からいままでの政権の「不手際」が原因である。

さてそれで、だれが一番よろこんでいるのか?
中国政府は、「両国はなかよくすべき」というメッセージを発信したが、ダブルスタンダードを旨とする国からの発信だから、「もっとやれ」という意味になる。

アメリカがだんまりを決め込むのは、米中代理紛争になっているからで、半導体の製造を韓国にシフトしたことをいまさらに後悔し、これを取り上げて日米での製造に切りかえようというのであろう。
貧乏になった韓国を北と中国に押しつけたい。

すでに韓国はアメリカから見捨てられてしまった。
当事国の現政権はこれを望んでいるのだろうが、国民はほんとうにそれでいいのか?
よほど「反日」が、楽しい国民的レジャーになってしまったのだろう。

明治の日清・日露での日本人の血の犠牲が、元通りになるという歴史的転換がはじまっている。
とうとう、太古よりの防衛ラインであった対馬海峡・隠岐の島にまでに100年ぶりにもどることなる。

日本は安全ではなくなる。
緊張感が必然的にうまれるのは、わが国がふつうの国になるという意味では、よきことかもしれない皮肉がある。

慰安婦像というものを出すならそのタイトルに「政治のファンタジー」とでもつければ、まったくちがう「意味」になるのに、これをしない、という主催者は、外国の「プロパガンダ」にくみしたと批判されてもしかたがあるまい。

なんにせよ、芸術を政治につかうとよきことはない。

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