「統計不正」がいつものように泥沼化しているけれども、「統計」をしっているひとが追求しないで、たんなる「政府批判」を、政権担当経験があったひとたちがいうから、議論がねじれる。
究極の無責任を、国民はみせつけられているけれど、それが「選挙の年の『選挙戦略』」だという理屈らしいので、まともな筋立てができるひとなら気分がわるくなるほどの思考の倒錯であることに気づくことになる。
この倒錯した人物たちが、この国の国民を代表する国会議員なのだ、という現実は、そうしたひとたちを選んだ国民がわるい、というのが古今東西、第三者の外国人の見立てになるのがふつうで、「傍目八目」の冷徹さでもある。
とにかく、統計のかんがえ方を学校でおそわらなかったのだから、わからない国民はこの手の議論にだまされてしまう。
わが国における統計教育の「空白」期間は、なんと30年にもおよぶ。
復活したのは平成24年(2012年)度、つまり、やめたのは(昭和55年)1980年だった。
まったくもって、「ゆとり教育」そのものの「愚かしさ」を、いまになって社会が認識させられた、ということである。
いまさら、文部科学省の「視学官」というえらいひとが、「データのあつかいかた」をしることの重要性についてご託を並べている。
このなかで、先生も教わらなかったらわからない、と正直に書いている。
あたりまえである。
30年間とは、まさにひと世代だ。
日本人に、知的断絶をもたらした「文部行政」失敗の責任は、日本人全員が背負わされることになっている。
当時の審議をした「専門家」たちは、オルテガのいう「大衆」になりはてていたのだろうとかんたんに推測できる。
役人に「研究費」というエサで釣られ、魂を売った「ファウスト博士」の群れでもあるが、これらの群れは、いまもいたるところに存在している。
教わらなかった30年間の世代は、すでに社会の中堅を担っている。
日本経済が、「国家依存」する原因のひとつだろう。
じぶんでかんがえることができないから、「国」に頼るのだ。
これが、革命の伝統的な手法、「愚民化」の実践である。
しかしながら、統計が必要だという「視学」さまとて、統計を学んだわけではないだろうから、ほんとうはよくわからないはずなのに、知ったかぶりをして「指導する」。
「朝ごはんをたべると成績がよくなる」と、「相関関係」と「因果関係」をとり違えた「とちくるったキャンペーン」をやったのが、ほかならぬ文部科学省だった。
「部局がちがう」といえば逃げられる、役人のいうことを真に受けると、とんでもないことになる。
統計を勉強しなくても、なぜか「平均」だけは教わるから、ありもしない「平均値」が、平気でひとりあるきする。
だいたい役人になろうと、学生時代に公務員試験を目指すのは、成績が「平均以上」のひとたちなのだ。
ところが,グラフにしてみるという「ひと手間」をはぶくので、その成績がどんな分布図でできているかを意識しない。
毎年発表される、家計での貯蓄額も、たんに「平均」しかいわず、それをそのままニュースにしてたれ流すから、そんなばかな?ということで、「統計」を信じない。
数百万円の貯蓄が「ふつう」にあるはずがない。
ではこれをグラフにすると、まるで最新のリニアモーターカーの写真のような曲線で、はるか遠くまでつづくようにみえる。
それは、一部の大金持ちの貯蓄が、ずずーっとした線になるからである。
こうしたひとたちも「平均」の計算にはふくまれるから、多額な「平均値」が算出されるのである。
そこで、「中央値」や「最頻値」をみると、ぐっと低額な金額になってきて、庶民感覚と一致する。
こうしてかんがえると、じつは、世の中で「平均」が通用するのは「学校」という「特殊な社会」だけである。
その「学校」を卒業して、教師として学校にもどったり、公務員として役所という「特殊な社会」に入りこむと、みごとな「世間知らず」ができあがるのだ。
そして、このひとたちの特性として、「平均」で思考するようになるから始末が悪いのである。
だから、「可もなく不可もなく」が、人生の教訓になる。
そうして、とうとう、「リクルート・スーツ」という、ほとんどおなじデザインにして色合いの、特徴なき衣服を着なければならない、にまで発達した。
じぶんは「平均的な人間です」。
これをわざわざアピールしないといけないのは、「個性」の教育の完全なる失敗を意味する。
それは、ジャン・ジャック・ルソーがいう「アトム(原子)化」にすぎなかったわけだ。
ひとは、個体として「バラバラ」である、というかんがえで、社会との接点がなくなって、社会そのものも「バラバラ」になれば、それこそが「理想社会」だとしたものだ。
しかし、そんなものは社会ではない。
たんなるジャングルである。
成績のわるい子どもに、つぎは「平均点をめざしなさい」というのはまちがっている。
「わかるよろこび」を教えなければならない。
それが、ちゃんとしたおとなのつとめである。