うれしくても踊れない

人間という動物は、動物性の台木に人間性の芽をつぎ木したもの、と岡潔は定義した。
だから、動物であることがベースにあると強調している意味でもある。

感情がゆたかな身近な動物は、高等動物の犬がいる。
動物には下等動物から高等動物まで、それぞれの区分がある。
脊椎動物が、高等動物の区分になって、そのなかに哺乳類、なかでも霊長類が君臨するという構造になっている。

脊椎動物のなかで下等なのは、魚で、それから両生類と、だんだん陸上にあがってくる。
進化の歴史と「高等」さの分類がリンクしているのは、必然である。
金魚だって、エサを与えるときにはうれしそうだし、エサを与えるそぶりをしても、こちらに寄ってくる。

犬の感情は、人間の感情を見ぬくというレベルまで発達していて、人間が悲しい感情でいると、犬も悲しくなるようだ。
それで、主人によくなついている犬は、ときによって主人の悲しみを慰めるような行動をとる。
万年単位でのおつき合いが、とうとう犬のDNAに変化をもたらしたのだろう。

感情の起伏というものはだれにだってある。
嬉しいときには喜々とした笑顔になるし、悲しいときにはうつむくものだ。
それでは、ものすごく嬉しいときにはどうするのか?
おもわず飛び跳ねたりする。

古代ギリシャを代表する物理学者といえば、アルキメデスだろう。
自分のなまえがついた、原理、すなわち「アルキメデスの原理」を発見したとき、かれは風呂にはいっていた。
湯をはった桶に自分の体をつけると、水位があがるのをみて「ひらめいた」という逸話で、「ユリーカ(わかった)!」といって、そのまま裸で走りだしたという。

これは、後世のつくりばなしも混じっているが、とにかく「ひらめいた」ことはたしかで、裸で走りだしたのもたしかとされる。
けれども、叫んだのは当時のギリシャ語だったはずだから、英語的に変化した「ユリーカ」ではないはずだ。

ちなみに、「テルマエ・ロマエ」で有名になった入浴の風習として、湯船に湯をはりそれに浸かる、というのは、古代ギリシャとブータン、それにわが国しかないという不思議がある。
ギリシャの風習はその後ローマ帝国につたわったが、ローマ風呂は基本的に「蒸し風呂」であったのはトルコもおなじで、なぜかまた江戸市中の「浮世風呂(基本蒸し風呂)」につうじる。

アルキメデスはあたかも、異常な行動をしたのだが、本人には至ってシンプルな「よろこび」しかなかったはずだ。
それというのも、岡がみずからの数学的発見をしたときの逸話で、アルキメデスの行動に深い理解をしめしている。

これとはレベルがちがいすぎるけれども、わたしも仕事で「ひらめいた」ことは何度も経験した。
このときの自分は、ずいぶん悩んでいて、どうしたら業務改善できるのか?それはどんな方法か?をずっとかんがえていた,という点では似ている。
夢にもでてくるから、枕元にメモ帳をかならず置いていた。

夢のなかで解決策がみつかったのに、朝になって肝心のひらめきをすっかりわすれていて、よろこんでいた場面しか思い出せないことが何度かあったからである。
メモを置いたら、それがおおいに役だったのだ。
しかし、家内には、そこまでやるの?と若干気持ち悪がられた。

アルキメデスや岡といった偉人ではないが、かれらがいうことはつたないわたしの経験からも理解できる。
ずっとかんがえていて、それがけっこう「頭の奥の方まで」に染み渡ったかんじになると、ふと、思考がとぎれたときや、なにかのきっかけ、しかも睡眠中でも突然「ひらめく」のである。

散歩中に「ひらめく」こともおおいので、ICレコーダーを持ち歩いたりしたことがあるが、いまではスマホアプリで音声を文章に自動転換する。だれかと通話しているようにみえるだろうが、ひとりごとである。
散歩途中の喫茶店で、アイデアをふくらませることもあるが、そのまま文章化してしまうことがふえた。

しかしながら、我を忘れて小躍りしてしまうことはめったにない。
「情緒の中心」が弱くなっているのだろうかとおもうことがある。
これは、もしや現代日本人に共通しているかもしれない。

映画『ALWAYS 三丁目の夕日』に、休日最強の娯楽だった映画館のシーンで、裕次郎の『嵐を呼ぶ男』が上映されていて、若い観客がいまのライブ・コンサートのように一緒に踊っているすがたがあった。

街をあるいていても、見知らぬ人が子連れの母親におかまいなく、こどもをあやしていたりもした。
いまなら、不審者になりかねない。

世界で大ヒット中のクイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』は、日本ではどうか?
もちろん、大ヒットで、三回も四回も観たひとがいると聞くが、画面といっしょに盛り上がっている様子はない。

日本人の情緒が衰退しているのだとかんがえれば、妙に説得力があるのである。
それは、個人が「アトム化」(原子化)しているのだとも解釈でき、ジャン・ジャック・ルソーのいう『人間不平等起源論』になって、どんどん「革命」へと接近する。

「情緒」をうしなうと、革命の野獣と化してしまう。
かくもおそろしいものなのだ。

嬉しいときにはもっと小躍りして恥ずかしくないのがいい。
「シラケ」たニヒリズムは、情緒の邪魔である。

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