前にこのブログでも紹介した,倉山満『お役所仕事の大東亜戦争』にでてくる近衛内閣にかんする表現である.
戦争にいたる複雑な状況をぜんぶ理解するのは,いまとなっては容易ではないが,せめて「近衛内閣」だけはおさえておきたい.家父長的な近衛のちゃぶ台返しの後片付けをしたのが,ちんまりした貞婦,東条英機の内閣だった.
五摂家筆頭の近衛家当主だから,爵位は「公爵」だ.
当然,天皇家とは親戚になる.
その,近衛文麿は,河上肇の門下生だった.
河上は当時わが国最高峰の共産主義理論家だ.
それで,近衛はじっさいに,オスカー・ワイルドの『社会主義下における人間の魂』を在学中に翻訳,出版しようとして発禁になっている.
戦後の翻訳では,以下がある.
社会主義の下での人間の魂 (1968年) (リバタリアン叢書〈1〉)
オスカー・ワイルドは,『幸福な王子』だけを書いたのではない.
近衛も,けっして「幸福な王子」ではなく,むしろ「家族」という私の空間では不幸だった.
こんな近衛に,民衆は期待したから,近衛内閣の支持率は高かった.
民衆の期待の根拠は「血筋」という権威だった.
そういうわけで,アカなのかバカなのか?という議論がうまれるのだ.
アカなのが近衛なら,バカなのは国民になる.
だから,真人間なら,戦後に国民が反省しなければならないと気づくのだが,悪いのは国民ではなく軍部や政治家の方であると憎悪をもって決めつけるように仕向けたひとたちがいる.
もちろん,仕向けたひとたちはアカである.
でもやっぱり,それに乗ってしまった国民はバカのままである,と真人間が気がつく構造に,21世紀になってもまだ,ぜんぜん変化がない.
深刻なのは,「反省」といったときに,アカに乗せられたバカな国民は,「戦争の『反省』」だと擦り込まれたことだ.
真人間は,そうではなくて「アカに乗せられたこと」を「反省」すべきだとかんがえる.
米英との戦争を求めたのが国民だったからだ.
わが国の「学術」の世界での「禁句」に,「コミンテルン」がある.
これを発したが最後,学会や研究会の学者集団からあいてにされないことになっていた.
しかし,米国の情報公開制度で,コミンテルンのスパイ活動に関する米国政府による衝撃の盗聴記録が公開された.
これを『ヴェノナ文書』と呼ぶ.
盗聴という手段での情報は,裁判での証拠採用はされないのがルールだから,これによって有罪になるものはいないが,米国政府の公文書,として公開されたことに意義がある.
アカはいまでも,それがバレたら困るから,「軍部の暴走」とか「軍国主義」という「用語」をつかう.
このもっともらしい「用語」を,あらためて論理をもってかんがえると,じつは「主語がない」ことに気づくだろう.
「軍部」とは「誰のこと」で,「暴走」とは「誰がした」のか?
「軍国主義」を信じたのは「誰」で,その「主義」とは「誰の」どんな「哲学」なのか?
説明せよ,といわれてちゃんと説明できるのか?
それこそ,チコちゃんに叱られる!
「ボーっと生きてんじゃねーよ!」
ま,このネタをNHKがつかうことはないだろう.
バレたら困るからである.
では,これは一体なにを意味するのか?
「中心がない」のである.
おどろくことに,わが国には,いまもむかしも,「中心がない」.
国ぜんたいが,なんとなく動いている,のである.
それは、企業もおなじだ.
形式ではなく,実態としての「中心がない」.
形式なら中心はある.
天皇がいる.内閣総理大臣がいる.国会には議長が二人いる.最高裁長官がいる.日銀総裁がいる.
会社には,会長がいる,社長がいる,監査役がいる.
しかし,形式と実態の一致,すなわち,ほんとうの中心は誰なのか?
その中心が,ほんとうに組織をけん引して,それが達成できているのか?と問えば,いきなりあやしくなるのがわが国なのだ.
たとえば,日本型クーデターの例として,主君押込がある.
家臣団が,問題のある主君を,座敷牢に押し込め,隔離する.
しかし,上級幹部の一部だけがしっていて,部外者や藩内の庶民にはしらせないから,一般人だれでもが「お殿様」は健在だとおもってなんら問題なく暮らしている.
幕府=ご公儀にバレることだけがリスクなのである.
つまり,中心は架空でも,わが国では組織が動く.
まるで,こっくりさんなのだ.
誰の力がかかっているのかわからないが,紙の上を浮遊するように,ものごとがきまる.
中心がいなくて世界をあいてに大戦争を実行したことが,まったく信じられなくてあわてたのが,良くも悪くも中心があるのが当然な白人国家であったから,「戦犯」という犯罪人を,たとえ「架空」でも,いたことにしないとかれらの精神がこわれかけたのだ.
悪い奴がいたにちがいない,と.
そんなわけで,本来「順不同」の戦争犯罪を,日本語の書類なら「イ,ロ,ハ」や「・」だけで区分するのと同様なことに,英語だから「a,b,c」と小文字で区分した.
それを,「罪の重い順」として,またまたアカがバカに仕向けたから,いつの間にか小文字が大文字になって,あたかも「『A』級戦犯」だけを問題だと切りだすが,『私は貝になりたい』のように,あるいは「捕虜にゴボウを食べさせたのは虐待だ」として,「b級」だろうが「c級」だろうが,死刑になったひとがいるのを忘れさせようと努力して見事に成功させている.
日本が講和して独立したとき,社会党の発議でもって,わが国の国会は共産党もいれたもれなく全会一致で戦犯全員の「名誉回復」を実施している.「独立」国家とはそういうものだ.
だから,法的にわが国には戦犯は存在しないが,隣の国と同様に「国民感情」からか,アカに乗せられたバカな国民だからか,いまだに戦犯の議論をしている.
これぞ「国会軽視」,「憲政の常道」を無視している事例となった.
とっくに「解決済み」なのだ.
だから,aだろうがbだろうがcだって,死刑になったひとにも,みなさんきちんと年金受給者にもなっている.これが「法治国家」というものだ.
それで大手を振って靖国合祀をしたら,戦犯は分祀せよという.
こういうときは「政教分離」に反しているとアカはいわない.
ついでに,日本国憲法の第九条は,独立国家にあるまじき,と大反対したのが日本共産党だった.
ダブルスタンダードがここにある.
むかしはやった上方芸人に,「ボヤき漫才」で有名な人生 幸朗・生恵 幸子(じんせい こうろ・いくえ さちこ)がいた.
「責任者,出てこい!」の決めセリフで爆笑をかったのは,じつはだれもが「責任者がいない」ことをしっていたからだ.
笑いにこそ信実がある.
失われた『喜劇論』のアリストテレスのことばとされる.
芸人にも,真人間がすくなくなった.
いまどきのアカが芸人のふりをして,ワイドショーの司会をやって,いつものように世論を誘導している.
これをもっけの幸いと,責任者ではない責任者が,責任者の格好だけをして「君臨」する.
このことが問題の本質なのに,年収の多寡ばかりをもって個人への憎しみを増大させるのは,アカがバカをまた誘導して,組織を崩壊させ革命でも夢見ているのか?
日本人は金持ちを尊敬せずに,悪いヤツだとおもいこむようにさせられた.
マルクスやレーニンが思想統制でやろうとしてできなかったことが,できてきた.
まったくもって,バカげたことに,かんたんに乗せられる.
まことに卑しいことである.