6月4日、とくに待っていたわけではないが、話題の「布マスク」が届いた。
これがどんな「役に立つ」のか?とかんがえた。
現物を前にすれば、すくなくても、ウィルスを吸い込む危険に対してはなんら効果はないだろうから、さいしょにいわれた「咳エチケット」ぐらしか効用はない。
ただし、最近見かけなくなった、ガーゼのマスクなので、なんだかむかしが懐かしい、という「ノスタルジー」に浸れるという別の効果が、大量に票をもっている高齢者層にはありそうだ。
政治が身近でもあるという、効果は、ありがた迷惑だから、あんまりないのが残念でもある。
いまでは、「咳エチケット」で、咳をするひとが着けるモノ、という前からの常識が、あたらしい日常に変化して、誰でもが着用しないと、「エチケット」に反するらしい。
つまり、咳をしているひと、という条件がはずれて、全員がするという、部分集合から全体集合へと変化したのだ。
これを、「過剰」というひともいなくなって、さらに「全体主義」だというひとは、変人あつかいにされるのだろう。
国が緊急事態を解除したのに、まだマスクを着けているひとがたくさんいることに驚くばかりである。
外出時の「習慣化した」というひとがいた。
なるほどそんなものか。
つまりは、条件反射になったということなので、パブロフの犬を人間がやっている。
たまにマスク未着用のひととすれ違うと、なんだかうれしくなるのも変な感覚である。
ただ、ここでいう「未着用のひと」というのは、完全に着けていないという意味で、鼻を出しているとか、アゴに掛けているとか、片耳にぶら下げているというひとのことではない。
ピッタリ着用しているひとのことをおもえば、このような「中途半端」なひとこそ何らかの批難をあびてよさそうなものだが、マスクが顔周辺にある、ということで許されるのは、さいしょから無意味だけど、みんながしているから着用しているのがほとんどだから、その未練が共感を呼ぶのだろう。
だから、まったく顔の周辺にマスクがないのは、意思があっての確信犯となる。
駅だろうが、公共の場なら流れている、これ見よがしの悪意をこめたアナウンスが、「マスクの着用」を繰り返しているのだ。
症状がないひとにとってぜんぜん無意味なマスク着用を「お願いする」という行為を何度も繰り返すのは、まったく理不尽だし、自由の侵害である。
数百万人が生活する空間で、患者数ではない感染者数だけで20人が出たということが、どうしてニュースになるものか。
しかも、誰かにうつす可能性は、拡大を意味する数値ではない。
その意味で、国家がマスクを支給した、という事実は、アナウンスで自由を侵害しても、マスクの購入は自腹(=経済的自由の侵害)だというあらゆる公共機関にかわって、まさに、国が自由を主張する者の権利侵害を黙らせることになるのである。
しかし、これは首相の自費ではない。
国家予算がつかわれたのだ。
つまり、国民の自由を侵害するために、国家予算がつかわれたという、これぞ「憲法違反」が、白日の下で実行されたということなのだ。
日本国憲法は、日本国政府によって堂々とその死を看取られた。
政府がいう、「あたらしい日常」とは、日本国憲法が機能を停止した、死後の社会のことをいうのである。
なるほど、三権(立法、行政、司法)の全部が、ゾンビ化した。
第四の権力、マスコミも同様だから、わが国はすごい状態になっている。
令和2年とは、歴史の転換点であることにまちがいはない。