タレント発掘番組は娯楽ではない

アメリカNBCが2006年から放送をはじめた、オーディション番組で、翌年からイギリスITV(最大・最古の民間放送局)でも開始された。
あの「ポール・ポッツ」も「スーザン・ボイル」も、この番組から誕生しているのでご覧になったむきもおおかろう。

世界各地に拡大開催・放送されるようになったので、さいきんでは「世界一決定」までになっている。
おなじ「フォーマット」で開催を実施しているのは上記の他に、
・オーストラリア
・韓国
・ドイツ
・スエーデン
・中国
・クロアチア
・デンマーク
・フィンランド
・オランダ
・ノルウェー
・ポーランド
・ロシア
以上、ぜんぶで14カ国ある。

いわゆる「タレント」といっても「才能」のことなので、「歌手」や「アイドル」といったジャンルをこえているのが特徴で、むしろ「エンターテインメントの才能」があれば、なんでもいい。

本家アメリカ版では、優勝賞金100万ドルとラスベガスでの公演にメインで出場できる。
イギリス版は、女王はじめ王室メンバー御前でのパフォーマンスと、賞金25万ポンドとなっている。
たかが「民放」の「娯楽番組」で、「王室」が「特典」としてでてくるのだから、およそわが国では「ありえない」ことでもある。

しかも、順番が「賞金」ではなく「王室の御前」が先なのも、イギリス版をしてイギリス版せしめている。
アメリカ版では、「賞金」がトップである。

フランスをのぞく米英露中で同一フォーマット番組があることが、興味深いし、日本版がないのはなぜだろうか?
それでも、日本人は出場していて、2013年にはアメリカ版で『蛯名健一(ダンス)』が初優勝している。
その後もたくさんの「才能」が出場しているのだ。

この意味でもこの番組は、国内地上波では観ることができない「情報番組」になっている。

オリジナルの番組としては、審査員の「毒舌」ともいえるほどの「厳しい講評」も「売り」である。
他人がきいても耳が痛いはなしは、聴きようによっては「いじめ」のようにもなるが、その「適確さ」が「ショー・ビジネス」の裏側を一般人も垣間見ることができるようになっている。

もちろん、「言い過ぎ」については、観客が審査員に容赦なく「ブーイング」をおくるのだ。
審査員はその「ブーイング」に、「反論」か「詫びる」というどちらかの対処をするが、反論には説得力があり、詫びには非を認める理由を添えている。その「理由」がたとえ「屁理屈」であってもだ。
すると、観客はさらに「ブーイング」をあびせるのである。

ブーイングを喰らっても、気にとめない態度と、屁理屈でも言い訳することこそ、「白人的ふてぶてしさ」である。
善し悪しをこえて、こうした「態度」が「世界標準」であることも学べるのだ。

とはいえ、緊張して自信のない出場者は自己紹介で、おもわず厳しい男性審査員に「Sir」をつけてしまうが、ちゃんと「呼び捨て」にするようにうながすのだ。

このことが、「日本版がない」ことの理由ではないのか?
さらに、審査員適格者が「いない」ことにも原因があるのではないか?とうたがう根拠になる。

つまり、番組制作者やスポンサー、あるいは「業界」におもねることはできても、「ショー・ビジネス」からの「商品開拓」ができないということだし、日本の観客は権威ある(はずの)審査員に、「ブーイング」などしないし、もしそれが起きたら「ニュース」になってしまうだろう。

もちろん、司会者だって、審査員には「先生」をつけて「さん」呼ばわりもしない。
「先生」なら「先生らしい」講評をすべきところ、「できない」のである。

つまり、審査員としてこの番組への出演は高いリスクを負うことにもなる。
日本で想定できることは、「厳しい講評」をいうことはなく、適度なダメ出しコメントにならざるをえず、外国版にくらべれば「迫力」が減衰することになるだろう。
「リスクは避けるモノ」だからだ。

いつからこんな「脆弱な文化」になってしまったのか?

かつて、日本テレビが放送していた『スター誕生!』(1971年~1983年)は、ジャンルを「歌手」に限定していたが、敗退した出場者が泣き出すほど「厳しい講評」が連発されていた。
けれど、だれも「いじめ」とはおもわない、かえってそれが「本人のため」という説得力にあふれていたものだ。

なにも、はるかとおい過去に、「最低辺身分」としての「芸人」がいたからという意味ではない。
もちろん、はるかとおい過去、とは、ついぞこの間の昭和の時代にまであった。
歌舞伎から「人間国宝」が輩出されるようになったのはいつからか?
能と狂言は、ずいぶん前から朝廷が保護下においている。

このあたりの、むかしの事情は、隆慶一郎『吉原御免状』、続編の『かくれさと苦界行』にくわしい。
ちなみに、この2作品は本編ともいえる大作『影武者徳川家康』を読み込むための「準備編」でもあるし、並行世界の「外伝」でもある。

  

  

それは、残念ながら会場に詰めかける「客層」のちがいにもあらわれているように感じる。
日本では、じぶんの興味ある特定分野いがい、反応しない傾向がある。「お客さん」になるのだ。

しかし、外国の会場はそのようなことはいっさいなく、出たとこ勝負の出場者と同様に、これからなにがはじまるのかの好奇心の高さであふれている。
すごいものはすごい、と素直に評価する。

「世界」がみえてくる。
「世界」をみせてくれる。

これは、「娯楽」をこえて、れっきとした「情報教養」番組なのである。

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