「近代法学」の父とも、「三権分立」をとなえてフランス革命に影響をおよぼしたとも、とにかく有名なひとである。
ルソーとならび評されることがおおいが、ルソーとはちがって「保守主義」のひとともいわれている。
いまは読売新聞のグループ企業になった、中央公論(新)社が、1966年から76年の10年間にかけて刊行した全81巻のシリーズ『世界の名著』にも当然ながら一巻がある。
残念ながら、このシリーズも例によって「絶版」となっているから、古書での入手のみとなっている。
よくよく出版の時期をみれば、わが国が発展をとげている最中で、それは「知識」も一般に開放されて発展していた時代だとわかる。
「48作」でギネス入りした、渥美清主演のご存じ『男はつらいよ』が、この正月に50周年50作目として上映されている。
さてそれで、前田吟演じるところの「博(ひろし)」が若かりしころ、つまり、第一作が69年の夏にスタートしているから、彼の愛読する『世界』とあいまって、『世界の名著』シリーズも販売されていたのである。
このシリーズの想定読者が、「博」のような境遇のひとたちだったと想像するのは、「戦後」を引きずっていたからで、まだまだ「集団就職」の時代だったし、集団で就職したひとたちのふるい世代の生活がだんだん落ち着いてきた時期であるとかんがえるからである。
おそらく、大学という「学府」において、『世界の名著』がおかれた位置は、「専門」ということからしたら、きっと「一段下」におかれていたにちがいない。
「象牙の塔」とはそういうものだ。
だから、「独学の徒」を対象とするのがふつうだが、こんなシリーズを出版したからには、「売れる」と見込んだからで、全部に10年を要することができたのも、「売れていた」から中断されなかったともかんがえられる。
市井のひとが教養人であることは、じつはすごいことだ。
このシリーズを購入していたのが、30歳ぐらいだったとすると、とっくに80歳をこえている。
「なるほど」と気づかされる世代だ。
そんなわけで、ここでいいたいダイエットにまつわる「モンテスキューの名言」とは、
「過度な食事制限で健康を保つことは、やっかいな病気といえる。」
である。
現代人で、耳の痛いひともいるだろう。
いわゆる、食事はバランスが大切、という現代の価値観にも通じそうだが、いった本人はフランス人である。
むしろ、食べたいものを食べろ、に聞こえる。
モンテスキューが亡くなった年に生まれた、美食の大家、ジャン・アンテルム・ブリア=サヴァランの『美味礼賛』では、料理をいかにたくさん食べることができるのか?の研究成果として「コース料理」の合理性がかたられている。
それもそのはずで、本のタイトルを直訳すれば『味覚の生理学』なのである。
しかして、糖尿病の悪化による様々な合併症に苦しんで亡くなった「太陽王」ルイ十五世と時代をともにし、革命の嵐も体験したひとの「研究」として、はたしていかがなものなのか?
彼は革命を支持しながらも、自身の首にも賞金がかかって亡命する。
現代の「栄養学」が、サヴァランの時代から発展したのはまちがいない。
けれども、食品成分の変化という現実とくみあわせると、後手後手になることは否めない。
食品の成分をきめるのは、おもに農業であって、その農業は「土壌」を基盤として成立している。
だから、「土壌が弱る」と、必然的に、食品のなかの成分が「薄くなる」のである。
あるはずの栄養がない。
はたして、「バランスのよい食事」の「バランス」とはなにか?
これを達成するのは、あんがいむづかしい問題なのである。
それに、「人間はパンのみに生きるにあらず」という「格言」もあるとおり、動物としての生存のための「食事」と、「人生の意味」を加味した「食事」とでは、まるで価値がちがう。
比較にならない。
だから、モンテスキューの名言は生きている。
すると、現代の栄養士や医師がいう「ダイエットのすすめ」のもとになっている「メタボ」ってなんなんだ?
血圧だって、基準値がどんどんさがっているから、むかしなら「正常」のひとが、いまなら「高血圧症」という病気にされて自動的に降圧剤が処方され、一生にわたる消費がはじまる。
眠れないと訴えれば、すぐに睡眠剤を処方してくれるけど、なんだか老人の痴呆症を発症させているようにもみえる。
よくよくおもえば、どれもがぜんぶ「対処療法」で、高血圧症という病気を治療していないし、眠れない症状だからムリに眠らせるだけなのだ。
これでは「機械論」である。
「現代」そのものが病んでいる。