この夏は、島根の足立美術館に行ってきたと書いた。
じつは、途中、祇園まつりのさいちゅうの京都に立ち寄った。
お恥ずかしながら、わが家北側の窓際に掛けっぱなしにしたジャケットたちが、紫外線で無惨にも日焼けしてしまったのである。
しまったと気づいてももうおそく、この損害はおおきい。
「あゝなんてことだ!」
直射日光ではないからと「たか」をくくっていた自分がくやしい。
呆然としながらも、なんとかならないものかと思案していて、そうだ!とひらめいたのが「染めなおし」であった。
「黒紋付」といえば、わが国の民族衣装でも「正装」にあたる。
もちろん、格付けは「第一礼装」であるから、文句のいわれようがない。
こないだ、ブータン王国を訪問した悠仁親王がお召しになっていたことでも記憶にあたらしい。ただし、紋付き袴は、武士の正装なのではたして朝廷側として?というひともいる。
民族の「色」で、「黒一色」しかも、「限界まで黒」にこだわる、というのは、あんがい特殊な嗜好である。
そもそも「染める」という行為は、かなり科学的(化学反応)なのであって、どうして繊維が「染まるのか?」をかんがえだすと、きっと夜も眠れなくなるだろう。
日本で明治以降、たまたま人類はその時期に「化学(合成)染料」を開発したので、それまでの「伝統的」な植物などから抽出した染料のうち、とくに「藍」が駆逐されてしまう。
「藍染め」を専業とする「紺屋(こんや)」のおおくが、さまざまな「染物屋」に変身を強いられたのが大正期だという。
東京神田にも現存する、「紺屋町」(こんやちょう、こんやまち、こうやまち)という地名は、読み方をかえて全国各地に残っている。
「残っている」のは、おおくが地名「だけ」になってしまった。
その理由が、合成染料によるとおもえば、「近代」がなしえた「功罪」のひとつである。
安価でカラフルな衣料品を着れるのは、合成染料のおかげである。
人間は衣をまとわないと生活できないから、繊維を撚って糸をつくり、それを織り上げて布にしなければならない。
そのままでは味気ないから、色をつけた。
結局のところ、手にはいる材料と好みで、民族の「色」ができる。
このあたりの詳細な説明は、名古屋駅から歩いてもいける「トヨタ産業技術記念館」で、たっぷりと味わえる。
名古屋いがいの中高生の、「修学」旅行にぴったりの博物館だ。
もちろん、おとなが楽しめないはずもない。
なるほど、わが国の近代化と「自動織機」の発明がセットになって画期的なのは、人類がもとめてやまない必需品である「布」を、おそるべき精度とスピードで織り上げることに成功したからで、当時の「先進国」がこぞって購入した意味がわかるというものだ。
敗戦しても、「繊維産業」がこの国を支えた事実にかわりはない。
いまはわが国を代表する総合商社だって、そのルーツは「糸偏」がつくことが多々あるのである。
陶磁器が「チャイナ」とよばれるように、「ジャパン」とは「漆器」のことをいう。
最高の「漆器」こそ、「漆黒」なのである。
その「黒さ」は、よくみれば驚嘆にあたいする美しさで、そのようなものを一般人が持つことなどなかったろう。
いつのころからかはるかむかしから、わが国では「養蚕」がおこなわれ、絹製品の光沢はあいかわらず雅である。
製糸工場の女工たちによる「生糸」が、最初の工業製品になるのは、歴史的な突飛さがなかったからだ。
かってな推測だが、絹の布こそが「黒」に染まったとき、「漆黒」のような輝く黒になったのではないか?
また、そうさせようと染め物職人たちが追究した。
そうであったから、「第一礼装」になりえたのだろう。
そんなわけで、藍染めの紺屋が、黒染めに転じて生き残りをはかったから、いよいよ、その「黒」が「黒さ」を増したのだ。
合成染料にだせない「色」なのである。
「伝統技法」として圧倒的な生き残りを果たしたのが、京都だった。
むろん、各地の藍染めの紺屋が、各地で黒染めに転じてもいるから、京都「だけ」というわけではない。
しかし、おおくが「黒紋付」という「一点」にこだわっているという特徴がある。
そこへいくと、京都では、本業の「黒紋付」にくわえて、洋装も「染め直す」という技法を開発している。
ここが、だてに「千年の都」ではない、あたらしい商品化、をもって生きのこる「都の伝統」があるのである。
日焼けしたのは、秋冬物のジャケットだったから、この夏場に注文すればちょうどいい、とおもいついたのである。
幸いなるかな、ウールやカシミヤ混という「天然素材」であったので、「うまく染まるはず」と案内された。
そして、先日、届いたのである。
さっそく羽織ってみれば、事前の説明どおりソフトな風合いになってはいるものの、みごとな「黒」で、しかも「喪服」ではない。
今シーズンは、ちょっとおしゃれな感じになれるかもしれない。