今日、11月7日の「この日」は、ドナルド・トランプ アメリカ合衆国大統領が定めた。
つまり、2017年の1月にトランプ政権が発足して10ヶ月にしてこの「国家の日」を制定したのである。
アジアの覇権どころか世界覇権をねらう国が標榜する「思想」に対して、強烈なアッピールをしたのである。
だから、さいきんの米中関係、ひいては米中経済戦争は、トランプ政権の発足で開始がきまっていたようなものだ。
この日の存在を地域分析者として、わが国で最初に気づいたのは河添恵子氏だというが、本人はそのまえに、ホワイトハウスのHPに掲示されているのを「観ただけ」だといっている。
ちなみに、いまも掲示されているのは、毎年この日がくるからである。
インターネットの技術のおかげで、われわれも自動翻訳の「日本語」で趣旨を読むことができる。
さてそれで、どうして11月7日なのか?といえば、1917年11月7日のロシア革命100周年に「ぶち当てる」ためである。
すなわち、ロシア革命への賛辞をおくるのではなく、人類における「暗黒時代の到来」を記念し、二度とこのような人的厄災を起こさせないという「自由」と「民主主義」の「日」としたのである。
これは、トランプ政権ましてや「共和党」としても、存続の意味そのものであって、もちろん、アメリカ合衆国の建国理由でもある価値観だ。
だから、旧西側陣営にしてアメリカの同盟国であるわが国政府がこの日を定めない理由を聞いてみたい。
旧東側陣営にして、いまはEU加盟、NATO加盟各国は、それぞれに同趣旨の記念日をもっている。
昨日書いたように、歴史は回転して繰り返す。
まさか、アメリカの民主党が「社会主義をめざす」ということが、どれほどの破壊力をもたらすものか?
社会主義とは、富の分配を「国家」が決める思想であり体制である。
社会主義者が資本主義をにくむのは、資本主義が自由主義とセットだからで、ほんとうは「自由主義をきらっている」のである。
ところが、「自由主義がいやだ」というと変なひとだとおもわれるから、「資本主義はいけない」ということにしている。
すると、なんだが「インテリ」にみえるから、これをパロって芸人が発言していたら、本人が「パロっている」のか「本気」なのかがわからなくってしまった。
こうして「お笑いなのにインテリ」というキャラができた。
「笑い」を哲学すれば、アリストテレスにたどりつく。
すると、「インテリ」でないと「笑い」はつくれないし、これを商売にできないのだとわかる。
中世の「道化」における「阿呆」は「演技」なのである。
官僚支配だからだれがやってもおなじ。
こうした風土が、お笑いタレントをふくめた芸能界からの「政治家」を産む。
経済成長著しく、ノー天気でいられた70年代に、知名度だけで議員にさせた無責任政党は、いまも政権与党である。
ただし、瓢箪から駒ということもある。
ドナルド・トランプ氏も、一時はテレビタレントだったし、相手のウクライナ大統領は、あまりの政治家による汚職蔓延をきらった国民が、ならばとコメディアンから選んだひとだ。
報道では、トランプ氏がウクライナ大統領を脅したことになっているが、ウクライナ大統領はトランプ・ファンだと告白し、プーチン氏に対抗している。
そんなわけで、てきとうな政治家をよいしょしたり、じぶんたちが気にくわないひとをこき下ろしたりしたりするのが、マスコミの「本分」になってしまった。
それでもアメリカのマスコミは、立ち位置を表明する。
にもかかわらず、大統領が名指しでマスコミを批判し、とうとう名指ししてホワイトハウスで購読契約をしている新聞社の契約解除を指示した理由は「フェイク(うそ)生産会社」だと断定したからだ。
こうした「ドタバタ」をやれるのがアメリカだ。
日本では、まずありえない。
首相官邸で購読している新聞を、首相が「とらない」と表明したら、大騒ぎになること確実だし、「独裁者」だと最大限の表現をして国民をあおるだろう。
放送局も、公共放送の民営化をもっともおそれるのが既存民放各社である。さほどに巨大化してしまった。
それでなお、すきなように放送できるのが「表現の自由」なのだから、国民はすきなように「洗脳」される。
その「洗脳」には、情報の「遮断」という方法がつかわれている。
かれらに「幸い」なるかな、日本人を日本語しかできないようにすることで、外国の情報を遮断できるのである。
だから、すこしでも日本人の英語力がたかまる可能性があれば、どんな難癖をつけてでも葬ることにいそしむ。
その犠牲者は、「受験生」という若年層である。
ましてや日本語表記の情報に、外国の事情をいれなければなおよい。
情報の「鎖国」である。
しかし、ネットをつかうとこれに穴があく。
そんなわけで、情報弱者を「いかに保持するか」が既存利得者たちの重要な戦略になる。
「情報リテラシー」は、じぶんでみがくしかないようにできているのは、このためである。
だから、そうさせないように「娯楽」をあたえる。
国家が国民に「パンとサーカス」をあたえれば、国民はたちまち「愚民化」し、国家がすきなようにコントロールできるようになる。
現代における「パン」とは、年金や社会保障、ばあいによっては職場まで与えられるし、「サーカス」とは、カジノをふくめた数々のギャンブルやビデオゲームなどの新種、それにテレビや映画などを主体にした旧式の「娯楽」の数々である。
もしや、わたしたちは危険にさらされていないか?をかんがえるのがわが国における「共産主義犠牲者のための国家の日」の意義だろう。