なにが問題なのか?
この認識がちがってしまうと、解決できる問題が宙に浮くばかりか、議論そのものが滑ってしまって、いわゆる時間のムダになる。
こうしたことが発生する原因に、情報不足がある。
だから、問題を議論する前に、情報収集という事前作業をしておかなければならないのだが、これを怠るのである。
なぜ怠るのかといえば、問題認識をまちがえているからである。
このように、問題認識をまちがえるひとが、情報収集という作業を怠るのは、情報不足が問題だという認識がないからである。
つまり、議論の方向性をシミュレートせず、いきなり「問題発生!」を叫びだすのである。
こうしたひとをトップにすえた組織は、悲劇的な運営を強いられる。
「生の問題」=「発生した事実だけ」で討議の対象とするから、おのずと議論が発散してしまう。
日本人はやさしいから、情報がすくなくて議論にならない、とはいわないばかりか、あたえられたコップの中の情報だけで話し合うことにつき合うのである。
それで、時間を浪費する。
こうして、「生の問題」を提案しても、みんなで議論しているふうになるので、本人の問題意識はいっこうに改善されないし、かえってこれでよいと「強化」されてしまうのだろう。
つきあわされるほうは、座っているだけでへとへとになる。
まるで古典落語のようなはなしだ。
すると,江戸時代の庶民は、これを「お笑いネタ」にしていたのだから、よほどいまより合理的である。
現実と落語を区別できていたのが江戸時代で、いまはそれが区別できないどころか、落語が現実になっている。
それでかしらぬが、さいきんは「空前の落語ブーム」になっている。
現実があまりに変なので、ちゃんとした落語でも聞かないと、精神の安定を保てないのかもしれない。
町内会や集合住宅の自治会などの悩みのタネに「ゴミ出し」がある。
生ゴミを「燃えるゴミ」、プラゴミを「燃えないゴミ」といういい方も、緑色のランプを「青信号」というように、現実と用語が一致しない事例である。
ゴミ出しのマナーについては、やかましくいわれる。
「民泊」が普及しないのは、外国人客を想定すると、ゴミ出しがうまくできないことが最大の理由だろう。
ゴミの管理経費だけで、採算がとれないからだ。
家庭ゴミの収集にあたっては、海外をみてもどちらさまも苦労しているが、だいたいコンテナ型に統一された規格の箱をつかっている。
おおきなものなら、箱ごと交換する方式があるし、ちいさなものなら収集車が自動的に回収できる構造になっているのは日本もおなじである。
さいきんはプラゴミがふえてきたのと、収集車がくる回数が生ゴミ優先なのとあいまって、日本仕様のコンテナからプラゴミがはみ出すことが問題になっている。
それで、生ゴミ用のコンテナを一台、プラゴミ用に振り替えるアイデアが議論になった。
例によって事前情報がないままでの議論だから、主観でしか語れない。
ところが,ここにあらたな情報がくわわった。
それは、「環境委員」さんからで、横浜市はコンテナを廃止したい意向がある、ということだった。
新規のコンテナ導入はゆるされず、現行コンテナの寿命がきたらおしまいなのだ。
では、なにをしたいのか?
「ゴミ倉庫」をつくって、そこにベタ置きして欲しいという。
耳を疑う内容ではないか。
それは、収集日しかゴミを出すな、という意味でもある。
もちろん、回収作業のひとの人力を必要とする生産性への逆行でもある。
これで、議論の方向は横浜市のかんがえかたについての批判になるかと思いきや、あからさまにはそうはならず、コンテナを大切につかいましょう、になったのは、たしかに庶民の知恵である。
蓋があるコンテナの便利さは、ゴミ出しと収集日の関連がうすい。
つまり、いつでも棄てられることにある。
それに収集後、役所ではなく住民がコンテナを洗浄する作業をするので、清潔が保たれているのは、日本的だ。
外国では、だれも洗浄しないから、コンテナそのものが汚れて臭気あるものが置かれているのをよく目にする。
なるほど、市当局は、そうやってゴミの削減をしたいらしいが、本末転倒の市民イジメである。
横浜市には「3R夢」(これで「スリム」と読ませる)という、「運動」があって、統計データの定義を改変して「ゴミ削減に成功した」と宣伝した前科がある。
リデュース(Reduce発生抑制)・リユース(Reuse再使用)・リサイクル(Recycle再生利用)を進めることによって、更なるごみ減量と脱温暖化を推進するという「夢」を意味するらしいが、これぞ「環境プロパガンダ」であり、政治思想としての「イデオロギー」といえる。
イデオロギーだから、現実を合理的に分析する作業を無視して、いかなる経費がかかろうが、それは関係ないと思考する。
このブログで書いた、野菜を買うとプラゴミがふえる、ことをリデュース(Reduce発生抑制)せずに、あろうことか環境にやさしいはずのレジ袋を憎むのは、小売業界への見え透いた補助金になっている。
むかし懐かしい「ちり紙交換」が消滅したのも、紙のリサイクルに行政が介入したことによる。
それで、不要な紙を引き取ってもらうのに、わずかでもトイレットペーパーをくれたのが、なくなってしまった。
ゴミ出しで不便さを体験すれば、アホな市民はゴミを減らすはずだという考えのどこに根拠があるのか?と問えば、みえてくるのは、なんのことはない「問題認識がちがう」ということしかない。
多摩川の先でなにが起きているのか、毎日通勤していても、住人でないからゴミ出しルールを横浜人はしらない。
東京23区のうち、半分ちかくが分別ゴミ回収をやめてしまっている。
「ムダ」だというれっきとした事実が、そうさせたのは、議会のちからでもあるし、かぎられた税金をほかにつかいたいからだ。
環境は、イデオロギーになってしまったから、これを行政があらためるには政治のちからが必要なのだ。
この春の統一地方選挙で、これを論点にする勇気あるひとは、残念ながらあんまりいないだろうが、すくなくても横浜人は23区の実態をしっておくことが重要だ。
もちろん、政治をうごかすのは住人だからだ。
自治体が住人たちを平気でイジメるのだということを、町内会や自治会の経験をつうじてしることができることこそ、役員をやる価値がある。