国民が望む「国に」わるいこと

今日は、78年前の大戦争開戦の一ヶ月前にあたる。

国民が望むことのなかに「国にとって」わるいことがある。
へたをすれば「滅亡」するかもしれないが、それでも国民が望めば、民主主義国家はイチかバチかの勝負をやらざるをえない。

これが、「大東亜戦争」であった。
もちろん、「大義」も「名分」もある。
「大義」とは、白人支配からのアジアの解放であり、「名分」は白人が構築したブロック経済に仲間はずれにされたことの自衛である。

大義もあって名分もあるのだから、われこそが「正義」となる。
後先かんがえずに、「正義」で猛進できる精神は、儒教からくる。
これぞ、徳川幕藩体制の亡霊であって、下級といえども「武士」によってできた明治政府にだって引き継がれたDNAである。

幕末の志士たちが読みふけった、会沢正志斎『新論』こそが、儒教(朱子学)からうまれたイデオロギーである。
そして、かれらは、じっさいに行動した実行者たちだった。
このひとたちがつくったのが、新政府である。

文明開化ばかりに目がいくけれど、ひとびとが新政府に違和感をおぼえつつしたがったのは、朱子学という地下水による。
初期の旧武士階級の「反乱」で、政府は朱子学を地下にながすが、幕藩体制下より飲み続けた一般人には、とっくに普及していた。

商家にみる階級(番頭、手代、丁稚、小僧など)は、身分制のように機能したし、もちろん主人は絶対である。
じっさいに、いまでも日本企業にはこの「伝統」がはびこっていて、小僧から番頭に昇格するばかりではなく、主人にもなれるけど、主人になってこの体制を破壊するのでなく維持につとめるという特性がある。

絶対支配の「特権階級」に昇格するための「努力」こそが、社内競争における唯一のインセンティブだからである。
すなわち、「経営者」になりたい、ことの意味が、矮小化してしまうのであって、経営したい、ではなく支配の特権階級になりたいのだ。

そんなわけで、朱子学の無意味を明治政府は大学教授にいわせることで、その価値を隠匿したが、民間にはしっかりと浸透していたから、「民主主義」が採用されると、朱子学による行動原理が社会を支配したのである。

だから、過去の経験をもって、戦後は朱子学による国民の行動を隠匿するために、「軍部」という「国民の敵」をつくりだしたのは、天才的な「すり替え」だ。

国民が敗戦までにあじわった悲惨をガマンできたのは、じぶんたちが望んだ戦争だったことをちゃんと記憶していたからだが、GHQによる「すり替え」をもっけの幸いとしたことで、責任をほおかむりできるラッキーとなったのだ。

国民はわるくない。
わるいのは戦争をあおった軍部のエリート軍人たちである。
だから、おなじ軍にいても、わるいのは兵隊ではない。

このことばの居心地のよさ。
おおくのひとが、居心地のよさの誘惑に「負け」てしまった。
じつは、このことこそがほんとうの「敗戦」なのである。

その証拠に、敗戦直後の論調には、国民努力が足りなかった、というものがある。
うらがえせば、言いだしっぺは「国民」だということだ。

しかし、あとだしじゃんけんならぬ、物量でかなうわけがない、とか、科学技術の彼我の差が大きすぎるとかが敗戦理由となって、こんな戦争をはじめたのは軍人があまりに愚かだったからだ、という「甘言」がでてくる。

国民は「知らされていなかった」という暴言すらあるのは、国民を徹底的にバカにしているのだけれど、居心地のよさをもとめる国民にとっては、悪魔ではなく天使のことばに聞こえるのだ。

たとえば、いまにつづく企業で、戦前にニューヨークに支店をもった中小企業がどれほどあったかすら無視しているし、そもそもアメリカへの日系移民12万人が強制収容所にいれられている。
平時、このひとたちからの情報が実家や友人になかったはずがない。

しかも、当時の日本には民主主義はなかった、という愚論がもっともらしく吹聴された。

斉藤隆夫による衆議院本会議における「反軍演説」は昭和15年。
これをもって議員除名処分をしたのも、議会の決定、すなわち国民が望んだのである。
齋藤の除名について、国民は反対の声をあげてはいない。

こうして、わが日本国民は、重大な自己責任から逃げたのである。

それが、なにがあっても戦争だけはいけない、という人類社会ではありえない価値観が「絶対」になってしまった理由である。

さらに、国民と政府が分断されたから、ひどいことを国民に強いた軍部の政府への意趣返しで、国からもらえるものは「奪う」まで自己のものにすることが「正義」になった。

年金をいつ、どのように「もらう」のかが、もっとも「得」で、それいがいは「損」になる、という概念も、民間の積立なら当然でも、賦課制の公的年金にあっては、個人の損得だけでいいのか?という問題が内在している。

けれども、「権利行使」なのだから、わかい現役世代の負担がどうなろうと知ったこっちゃないので、選挙のたびに「年金の充実」がもっとも重視される選択要件になってしまった。

つまり、国民が望んでいるのである。

軍部だからしっている彼我の差だから、ほんとうはやりたくない戦争を国民から無理強いされてしたように、ほんとうは「破たん」しているといえなくて、「安心」をいっていたら、千万単位で生活に足りないとわかったら、国民から「詐欺」とよばれるのである。

けっきょくのところ、「ポピュリズム」のいきつく先というのが結論なのか?
すると、もはや民主主義が「機能しない」国になったのではなく、民主主義を機能させてはいけない国になったのだ。

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