地元の価値がわからない

人口減少に対処するため,さまざまな「特典」を自治体の「制度」にしなければならない,という宗教的な価値観があたりまえになっている.
なぜこれが「宗教的」なのかといえば,祈りにも似た効果しか期待できないからだ.

それは,人口問題は完全ゼロサム・ゲームだと以前にも書いたとおりで,国全体で減少する人口を,移住によって増やそうとしても,それは部分でしかないからである.
さらに,地方の自治体は,移民として「(子どもがいる)若い世代」が欲しいのであって,社会保障負担が増える「中高齢世代」をあからさまに嫌がるから,年齢層による区別がおきている.

ところが,このルールとはちがう現象がおきている地域がある.
外国人の移住者の増加という現象がそれだ.
首都圏のばあい,どういうわけか不思議と東アジア系のひとたちが増えている.
これは,おおくが不法滞在からの事実上の移民だろう.

しかし,一方で,欧米系の移住者が増えている地域がある.
たいがいは,当該地域に外国人移住者の優先受け入れ制度,などはないから,どうして増加しているのかという理由すら把握できていない自治体もあるだろう.
つまり,「宗教活動」をしていないのに,「効果」があるという不思議な現象なのだ.

しかし,欧米系だからといって,かんたんにわが国へ「移住できる」というものではない.
それで,日本人との結婚や,学校の教師といったひとたちの中から「移住」希望者がでてくるのだ.
かれらには,日本文化への造詣を中心にした動機がある.

東アジア系のひとたちのばあいも,経済や自由といった,自国にはない魅力によって引きつけられているなら,自然な動機ともいえる.
そういう意味では,「難民」に近いのかもしれない.
ただし,わが国政府は,「難民」を受け入れる素地をもたないから,不法移民になってしまう可能性があり,また,取り締まるどころか生活保護の対象にもなる.

「日本の特殊性」を強調するつもりはないが,世界の「常識」からいい意味でもわるい意味でも「ズレている」のが日本だとおもうとちょうどよいのだろう.
その「ズレ具合」はひとそれぞれが感じるものだが,「地元を過小評価する」ということは強調しておきたい.
とくに,地方ほど顕著な傾向がはっきりある.

「田舎だからなんにもない」
これは,あくまでも「都会が優位である」という価値観を,そのままへりくだっていいあらわした言葉にすぎない.このときの「都会」とは,おもに「東京」をさす.

廃藩置県後であって,しかも「京」を東に移転させて,あたらしい中央集権国家としての東京になってからの価値観である.
もちろん,江戸っ子が,地方の武士にたいして「いなか侍」と思っていたのは否定できないが,それはだいぶ後のことで,江戸っ子すら田舎からの流民がはじまりである.
だから,由緒正しい地方人士は,「東京出身」と聞くと「どこの馬の骨かしれたものか」といって,その出自をうたがったのだった.

こんごも,東京一極集中でいくのか?
それとも,地方分散型でいくのか?
数年後には,おおきな決めごとをしなければならなくなった,と京都大学と大手電機メーカー日立の共同研究から導かれるAI未来予測の結論だという.

これは,どうやって食べていくのか?という選択を意味するのだが,「効率」という視点がかならず重視される.
どうやって食べていくのか?という問いに,年金受給生活ではこたえとして弱すぎる.
つまり,現役世代の生活手段ということが重要なのはいうまでもない.

すると,生活手段と生活様式は強い関連があるから,どんなふうに生きたいのか?が問われていることになる.
つまり,東京一極集中でいくのか?地方分散型でいくのか?という二者選択には,それぞれのひとの人生観が合成された選択にならなければならない.

だから,国会で多数決できるか?といえば,そうはいかないだろう.
そうなればそうなるほど,都会であろうが地方であろうが,地元の価値を知っておく必要がある.
衣・食・住に職をくわえて,かんがえる時間をもたないと,取り返しがつかないことになるだろう.

他人やAIに決めてもらうのではなく,自分でかんがえなければならないことだから,あんがい,残り時間はすくない.

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