アメリカで1987年にはじまった,Teachers Teaching with Technology(T3:テクノロジーによる数学関連の教育)という運動があって,これをうけて日本では1992年に研究会がたちあがったというから,もうかれこれ四半世紀をこえることになる.
8月25日と26日の二日間,恒例の年次大会が東京理科大学で開催されたので参加してきた.
日本をのぞく「先進国」つまり,OECD加盟国のおおくでは,すでに初等教育における「算数」から授業に「教育用電卓」が導入されていて,中等教育においては,「数学」のみならず「理科」においても「グラフ電卓」を使用して実験データの収集と分析にもちいている.
最新の「グラフ電卓」は,ほとんどハンドヘルドコンピューター化していて,各種センサーを接続することができるのである.
これは「国際バカロレア」でも「当然」とされるので,一般の学校の校内試験においても「電卓」の使用はふつうのことで,一見して日本の試験より高度な問題が出題されるという.
ハイテク国家を自他共に標榜しているのが日本だから,算数・理科や数学・物理・化学の授業にハイテク電卓をもちいることをしないのは何故か?と外国の教師から不思議がられているのは,以上のような事情がある.
なにも「国際バカロレア」がすべてではないが,学校の成績と社会に出てからの評価の関係が高いことが「国際バカロレア」の最大の成果といわれているから,各国とも力をいれているのである.
もちろん,わが文科省がなにもしていない,ということはなく,「指定校」という区別的手段で一般校と隔離した導入をしている状態にある.これをあえて「差別」とはいわない.
とはいえ,指定校だからといって授業に電卓をつかうとはかぎらず,むしろ,それでもつかわない,というのが日本の実情のようだ.
これを,T3参加の先生にきくと,ふたつの問題があるという.
ひとつは,学校における管理職(校長や教頭)の「無理解」があがる.
しかし,より深刻なのは数学を専門とする教師がいやがる,ということだ.
もちろん,電卓は道具だから,その購入費用をどうするかがあるのだが,自分の「教え方」の変更を余儀なくされることが,いやがる理由としていちばんの問題だという.
もっとも,「行政(文科省)」の側は,電卓という小さい予算よりも大きい予算を要するからかはしらないが,なぜかパソコンが大好きで,さいきんではタブレットPCなら予算要求しやすいらしい.
それで,電卓アプリをつかう手が見えてきた,とT3の参加者は期待している.
この議論をきいていて,結局のところ,「生徒のため」という顧客満足視点が,行政にも,それに従わざるを得ない学校管理職にも,さらに確立した自分の授業を変えたくないという教師にも欠如していることがわかる.要は,みんな自分がかわいいのである.
そんな状況をしった上で,グラフ電卓をつかった「アート」すなわち「絵」の発表会があった.
「作品」をみせながら,どんな数式を用いて描いたのか,描くにあたっての困難さはどこにあったのか,そして,この描画をつうじてどんな発見があったのかをつくった生徒が発表するのだ.
少ないものでも20本,おおいものなら90本以上の「数式」からなり立っている.
発表者が高一の生徒なら,制作したのは中三の時期になるから,おおいに感心してきいていた.
数式とグラフ描画の関係が完全に一体になるこの方法は,複雑な表現のためにカリキュラムをはなれたレベルの方程式や定理をネットで調べたという生徒もいて,すばらしく教育的である.
発表について,参加した教師側からの質問も鋭い.
ある女子生徒の,「世の中が数式でできていることを実感できた」といった発言が印象的だった.
よほどの達成感があったのだろう.
自分が高校生だったとき,こんなことは思いも及ばない.
それどころか,先生がなにをいっていて,その公式や定理が世の中でどんな役に立つのかをしらないままだから,苦痛でしかない授業だったとしか記憶がない.
あぁ,なんて不幸だろうか.
電卓は道具だが,先進諸国の思想は,「発見的教授法(heuristic method)」にある.
これから,生活現象を中心に統合して教えるべきだとする一般科学(general science)がアメリカで起きて以来,あちらでは,その公式や定理が世の中でどんなに役立つのかの具体例を徹底して先におしえる.
文明の成果を生徒にみせて,それから中身の教育をするのだ.
これは、論理の演繹法である.
日本では,帰納法一辺倒で,コツコツ階段を登るイメージがよいとされるが,それは世の中全体が伸びているという前提があってのことである.
いまの時代は,さきにあるべき姿をえがいて,その実現方法を計画する「演繹」をしないと,企業だって目標をうしなってしまう.
グラフ電卓アートも,手で描いた「下絵」からの演繹でつくられている.
だから,演繹のための道具が「電卓」なのである.
すべてはお客様(生徒)のために.
たったこれだけの追求が,いかに困難なことか.
日本での数学教育の進化は,T3参加の熱心な先生たちだけに頼るわけにはいかないだろう.
ここにも「依存」のすがたがある.