ながかったゴールデンウィークがやっと終わって、ほっと一息ついているひともいるかもしれない。
「連休疲れ」は、仕事での疲れかたとちがって、遊び疲れだから始末が悪い。
この連休前の4月25日に、名門、東京女子医科大学でユニクロのウェアが同校の式典用標準服に推奨されたというニュースがあった。
この「ニュース」の主眼は、ユニクロというカジュアル・ウェアを得意とし、品質の高さと価格の安さがなによりの特徴である企業の服がえらばれたことにある。
ようは、ユニクロの服が大学当局によって指定された、ということだ。
それで、記事ではファーストリテイリングの広報が、質問にこたえている。
ただ眺めれば、なんということもない「記事」なのだが、決めた側への取材がない。
それで、アパレル側の説明に、式典や実習教育の場など、学生がスーツを着る機会がおおいので大学側から相談があったのだという。
記事に添付された写真では、ことしの入学式に、おなじ服を着た新入生がずらりと並んでいる光景が紹介されている。
日本人がみれば、この写真もとくだん目にとまることはないだろう。
街で「リクルートスーツ姿」をみかけるだけで、就活の学生だとわかるくらい、だれもが似たような色とデザインの服、それに鞄と靴をはいている。
大手求人企業が主宰する、学生のための就職セミナーで、企業側の目線からの講演を依頼されたことがあった。
約500人ほどが熱心に聴講してくれた。
壇上からの景色は、ほぼ真っ黒の服で埋まっていたから、じぶんを採用して欲しい面接官に、おなじ服でアピールはできないのではないか?とはなしたことをおもいだす。
もちろん、奇抜な服を着ろといいたいのではない。
すなわち、プロトコールやエチケットにかんする知識が貧弱なために、どんな服装ならよいのかを決めるのに、じぶんではわからないから、洋服屋の「標準服」を買えば済むということだろう。
そんな服を買い与える親も、同様に知識がないし、いちいち選ぶのが面倒だからよしとしているはずである。
しかし、ここには、周囲のひととおなじである、という主張をして、それが「安心」なのだというかくされた心理がある。
「同化」こそが、じぶんは異端ではない証拠だと、じつは積極的に主張しているということだ。
かつて、スターリンも毛沢東も、人民服を着ていた。
映像が粗く、いまのように4K、8Kどころかハイビジョンだってなかったから、おなじ色合いでおなじデザインなら、すばらしい絹の服であっても、人民とおなじなのだといえば、よほど近くにいなければわからない。
そんなわけで、旧社会主義国だった東欧では、スポーツ以外でおなじ服を着るということが、忌み嫌われている。
冠婚葬祭だって、プロトコールやエチケットの範囲をこころえて、各自がそれなりの衣装をまとうことになっている。
それが、自由、というものだ。
日本では、入学式はあたりまえだし、学期末にも、学期のはじまりまりにも「式」があるし、社会に出ても入社式という「式」がある。
これは、文化だから文句はないが、欧米にはこうした「式」がほとんどないことはしっていていい。
東欧の有名大学で日本語を教えている日本人の先生から直接きいた話で、あるときふと授業中に、街でおこなう日本祭りへの学生たちの参加にあたって、日本語学科でTシャツをつくってそれを着たらどうかと話したら、正式に学生から抗議があったという。
それで、学部長と学長にも相談して、正式に謝罪したということだった。
冒頭の記事を先生におしえたら、そんなことをしたら当地ではどんなことになるか、想像するだけでおそろしい、という返事をいただいた。
これは、あんがい笑えないはなしだ。
つまり、じぶんが何を着るのかすらじぶんでかんがえなくてよい。
うえ(当局)からの指示にしたがえば、まちがいはない。(身の危険もない)
慣れれば、たいへん楽ができる。
些細なことに気をつかわなくていいし、余計なおカネもつかわなくていい。
ましてや、同化することの安心感も与えられる。
すなわち、愚民化である。
しかし、これこそが、人民服着用義務の主旨ではないか。
日本の名門大学で、しかも、医学や看護を主とする人材育成の場で、まさかの個人の自由に対する侵害と愚民化が、堂々とおこなわれていることが、「ニュース」なのではないか?
公共放送もふくめ、ニュース番組の気象情報のコーナーでは、とくに季節の変わり目に、明日はどんな服を着たらよいかといって、こんな服、を画像とともに紹介している。
これに、アンカーの女子アナが「いいこと聴きました、明日はそれを着ます」と笑顔で伝える放送がある。
いまどきの東欧圏なら、放送局への大規模抗議デモにもなりかねない、個人の自由への侵害と映るはずだ。
何を着るかは自分でかんがえる。放送では、天気に気温と湿度、風向きと風速の情報「だけ」でいいと。
大げさでも、笑い事でもなく、日本人はそれを「優しさ」だとおもい、お節介だともおもわない。
かつて、自由をうばわれていたひとたちは、あこがれの自由を手にいれただけに、自由に対しての攻撃に敏感である。
国家権力によって、かんたんに、あっさりと奪われる自由とは、じつに繊細なものだと苦しい経験からしっているのである。
あぶない発想をしているのは、じつはわれわれの方なのである。