任期切れ間近の,金融庁の森長官に対する評価と批難が交差している.
歴代で,もっとも果敢に金融行政をけん引したその根拠は本人いわく,「顧客本位の業務運営」.
行政の長として,これにはいささか違和感をかんじるが,規制官庁にして,顧客本位の業務運営を「やれ」といわしめる日本の金融機関のお粗末な実態だとおもえば,納得もできた.
しかし,これは、金融監督庁時代からの「検査機関」から,日本の金融の「ありかたを定める機関」という,旧大蔵省銀行局・証券局の本来の役目が復活したにすぎないともとれる.
それで,森長官は,数々の商品を開発したスルガ銀行を「地銀の雄」として肝いりをしたが,いまとなっては,「スルガ銀行事件」にまでなってしまってずっこけたようにもみえる.
そんなことから,冒頭のように,長官への評価と批難が交差しているわけだ.
以上が,ふつうの感覚なのだろう.
長官の手腕に期待したが,期待通りにはいかなかった.いや,いった.と.
けれども,相手は「行政」なのだ.
行政が勝手に絵を描いて,それを実行してよいものか?
ましてや,たまたま(順番で)長になったひとが,過度の期待を組織外から受けるのはどうしたものか?
戸籍係のひとには例にして悪いが,行政とは戸籍係のようなものだ.
あたかも,フリーハンドでの勝手な振る舞いがゆるされるものではなく,国民がゆるしたこともない.
アメリカには「ジャクソン・ルール」が存在している.
第七代大統領が定めたルールが,良くも悪くも今につづいている.
その根拠は,「行政は誰にでもできる」し,誰にでもできる範囲「しか」行政にやらせてはならない,というかんがえ方である.
つまり,「判断」は選挙で選ばれた「政治家」の仕事であるから,行政は誰でもできる.
問題の「提案」は,民主主義だから,市民ならだれでもできるから,行政の範囲には「提案」もない.
粛々と,決まったことをするのが「行政」なのだ.
これに対して,わが国は,行政がほとんど全てを仕切っているけど,これに違和感をもつひとが少ない.
それで,行政に過大なる期待をいだくのである.
その,過大なる期待が,行政のあるべき範囲をとうに超えているから,行政も勘違いして本来ならやってはいけないことにまで関与する.
これが,世の中の構造が単純なら効果があった.
しかし,民主主義をすこしでもやれば,すぐに世の中の構造は複雑になるから,行政の能力をかんたんに「無能化」する.
こうして,行政は意味のないムダか,さらなる余計なお世話をもとめて肥大化するしかなくなるのである.
政治がさらに上をいく無能だから,現状のままで仕方がないではないか.
経済も,人口も拡大するのなら,仕方がないですますことができた.
しかし,残念ながらこの国に,その余裕はもうない.
だから,行政ではなく,政治が決めなければならない.
こうした目線で見ると,モリ・カケ問題とは,行政が決めることを支持することと,政治が決めることを支持することとのせめぎ合いにもみえる.
つまり,「問題」にしているひとたちは,これまでどおりだから「保守」で,「問題はない」というひとたちは,これまでとはちがっていいということだから「革新」となる.
まさに,「保革」の概念の逆転である.
こうして,戦後体制を保守しようとするひとたちを「革新」とよび,それに疑問をていするひとたちを「保守」と呼んできたことの滑稽があぶり出されてきた.
いったい,占領軍は日本にどんな「改造」をしたのか?ということの本質が,メッキがようやく剥がれるように見えてきたのが,「衰退のはじまり」というタイミングだったことになる.
いいもわるいもなく,とにかく政治には決めてもらわなければならない.
それが,国民に支持されなければ落選し,支持されれば推進する.
こうした決定で,国民には痛いこともあるだろうが,それが民主主義というものだ.
その「痛さ」をもって,厳しい判断をするのが人間の学習能力なのである.
「巧言令色鮮し仁」
この名言を生んだ国では,この言葉の意味が今ではわからなくなっているだろうが,あんがい日本の漢文教育は一線でもちこたえているかもしれない.
期待すべきは政治であって,行政ではない.
現状をみれば,文字にして恥ずかしさすらあるが,これが本質なのである.