末端をいじって元を正さず

問題解決にあたっての「そもそも論」が嫌われている。
目先の「問題」をなんとかすれば、仕事をしているようにみえるのかもしれないし、仕事をしていると評価する上司がいるからでもあるのだろう。

しかし、問題の根源を解決しないと、末端をいくらいじっても底から油が湧いてくるように、またつぎの「問題」がでてきて、ぜんぜん解決されないばかりか、深刻度が時間とともにひどくなるのは、ちょっとかんがえれば誰にもわかる。

だから、ちょっとかんがえることもしない、という思考の手抜きが、実は問題を複雑怪奇な状態に育てているともいえる。

たとえば、犬や猫に代表されるいわゆるペットの殺処分問題がある。
さいきんでは、収容された個体を「ボランティア団体」がひきとったり、「引き取り業者」というひとたちがいて、自治体の施設に持ちこまないでそちらに引き渡すことをしている。

これは、民主党政権下、ペットショップ等の事業者が売れ残った生体を、公共団体の施設が「受け付けなくてよい」とした法改正をしたからである。それで、「受け付けない」ことになった。
子犬や子猫も、ペットショップの在庫中に成長する。そして、本当に売れ残るのである。

これで、「統計的」には、公共団体に収容された個体の殺処分数がなくなるようになっている。
けれども、別にボランティア団体の資金問題や、引取業者による劣悪な環境下での「飼育」が問題になるということがうまれている。
そういうことで、わが国にどれほど飼い主がいないペットが存在するのかぜんぜんわからなくなった。

これとそっくりな事態になっているのが、「プラゴミ」問題である。
「分別ゴミ」というやりかたで、生ゴミ(燃えるゴミ)とプラゴミ(燃えないゴミ)に分けさせられてひさしい。

あらかじめいえば、科学的な発想をする自治体は、分別収集を廃止しているが、科学的でない日本最大自治体の横浜市は強化しようとして、さらなる余計なおカネをかけようとしている。

プラゴミにはペットボトルもふくまれる。
それで、これらは「資源」だからと、わざわざ「資源ゴミ」と名前をつけた。
なぜ「資源」というかは、リサイクルする「材料」になるからだという。

ところが,国内でリサイクルするとコストが新品の4倍以上もかかるから、中国に輸出していた。
「輸出」するのは、「買ってくれる」からである。

輸入した中国では、一部をぬいぐるみの綿とかにして、あとは燃料として燃やしていた。日本で「燃えないゴミ」は燃えるのだ。
日本のゴミ焼却炉は排煙対策もバッチリしているが、あちらはただの煙突だから、それがPM2.5になって日本にも飛んできた。
これを漢字で「自業自得」と書く。

つまり、家庭からなら無料であつめた「資源ゴミ」は、リサイクルのために「輸出」すれば、おカネになる「資源」だった。

状況がかわったのは、その中国が突如、「輸入禁止」にしたからだ。
それでいま、処理できない資源ゴミがあふれ出して、どうにもならない状況になっている。
あっという間に、「資源」からただの「ゴミ」になったのは、カボチャが馬車になった魔法のごとくである。

つまり、ペットの殺処分が減った問題と、プラゴミを輸出していた問題は、構造的によく似ているのだ。
もし、ゴミの輸出に相当する引取業者がいなくなれば、行き場をうしなった個体はどうなるのか?

すなわち、元をたどれば、「過剰製造」に問題がある。
ペットなら、過剰に産ませる、ということだ。
ついに無理やり交配させて、遺伝病まで蔓延することにもなっている。
なにより、そんなふうに生をうけた個体が不憫だが、知らずに飼い主になったひとには多大なる負担をかかえることになる。

生きものとプラゴミの問題が、それぞれに分かれるのは、「生産」の場面である。
その後の流れは上述のとおり酷似している。

生きものの方は「五年に一回」の法の見直しがある。
法改正されても、不備があれば次回の5年後にどうするかが議論になっている。
だれが「五年」ときめたのかはしらないが、ここに立法の不備までがみえてくる。

役所の事務を優先させれば、5年に一回、になるのだろうが、相手は物質ではなく「生きもの」なのだから、不備を承知で放置してよいのか?
これを正そうにも正せない、わが国立法府の弱さが露呈するのだ。

議員を補助して立法化するための要員が、国会にいないから、行政府の役人に頼るしかない。
だから、行政府とは切り離された立法府の第一種(上級)級職員が必要になる。
これが、国会改革の本質である。

資源ゴミのほうは、厄介なことに「地球環境」というもっともらしい理屈がはいりこむ。
「温暖化防止」のはなしと「土壌や海洋汚染」とが主たる課題だろう。
しかし、この議論に欠けているのが「科学知識」だから、どうにもならない。

かってに埋めたり投棄してはならないのは当然として、取り締まりをどうするかも問題になる。
すでにあるゴミも、回収する努力がいるのだろうが、ちゃんと科学知識をもってやってほしい。

一方で、輸出できなくなって、もともとあった焼却工場もパンクしているという。
なんのことはない、分別させておいて実態は一部焼却していたのだが、これがほぼ全量になってきた。

ダイオキシンが猛毒として騒然とした話題になったが、人類史上、ダイオキシンが原因とみられる健康被害は確認されていない。
東大医学部での実験では、「ニキビができた」というから、「猛毒」をあおったあれはなんだったのか?

科学をないがしろにした「報道」と、テレビを信じる悪い習慣がつくったものだが、これは「国民の劣化」という社会に毒がまわったことの証拠になった。

この「事件」で、各自治体の焼却炉が大改修されて、ダイオキシンが発生しない高温で焼いても炉が傷むことはなくなった。
ところが、水分たっぷりの生ゴミは、そのままで燃えるはずがない。
そのままで燃えるはずがないゴミを、「燃えるゴミ」と呼んでいる。
それで、重油などの燃料をかけて焼いている。

資源として使い途のある「重油」を燃やして、資源として使い途のすくないプラゴミを別の炉で燃やすのは愚かではないか?
科学がつうじない横浜市は、わざわざ「資源ゴミを生ゴミと一緒に燃やしていない」と自慢している。

これは、レジ袋もおなじだ。
資源として使い途がない材料でつくったレジ袋をなくしても、その材料は別に燃やさなけれな世の中からなくならない。
生ゴミを燃やすときにこれをつかうのかといえば、そうではなくてやっぱり重油だ。

これこそ資源のムダではないか?

生産性の低さというよりも、日本社会の高コスト体質は、こうやってつくられている。

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