わが国は、山国である。
全国土の70%が山地で森林だから、ほんとうは「木の国」である。
それが、いつのまにかに、コンクリートの国になってしまった。
ところが、売れると見込んで植えた杉が売れなくて、花粉症という病人の国にもなってしまった。
「自然」というと、耳にきき触りのよいことばだが、なにが「自然」なのか?とあらためて問えば、あんがいてきとうでいい加減なことばである。
前にも触れた、「日本庭園」の「自然」は、完全なる設計と植樹技術のたまもので、まったくの人工物なのだが、鑑賞するひとはそんなことはおかまいなしに、「美しい自然」をめでるようになっている。
また、「千枚田」とよばれるけわしい山あいにつくられたちいさな田んぼの集合体をながめれば、これを人力でつくりだし、人力で維持してきた先人たちにおもいを馳せれば、突如としてその美しい風景にくわえて、美しい感情がわきおこって、みるひとを感涙させもする。
そんなわけで、耕作放棄された田畑にだれも「自然」を感じないが、じつは人工的な創造物に「自然」をかんじて、「やっぱり『自然』はいいなぁ」と感嘆してしまうのである。
地方自治体がいう「わがまちには自然がいっぱい」の自然とは、なにを指すのかしれてしまうから、都会人が魅力を感じる決定要素でなくなって、「自然自慢」だけでは競争力にならない。
そんなこんなで、自治体がなにかするほど自然と衰退することになっている。
どこの山間部にいっても、かなり奥深いところまで集落があるから、ちゃんとした道路ができていて、山の風景を見あげることができる。
なにも、登山やハイキングをしなくても、山の姿が観察できるようになっているのだ。
それで、広葉樹が落葉している冬によくみれば、なんの変哲もない山なのに、杉だけのエリアがかたまりであって、じつは植林された人工林なのだと気づくのである。
それに、「国有林」という看板をみつければ確信的になる。
ついでに、「国有林」にはかならず柵があって、「関係者以外立ち入り禁止」というプレートがセットになっている。
だから、じつはわが国に「原生林」はめずらしく、それが世界遺産になったり国立公園になっている。
もちろん、たいがいの「原生林」も「国有林」であるから、ふつう一般人の立ち入りは禁止されている。
こうしてかんがえると、「国有林」とはいっても、じっさいは「国有地」のことで、かつて大赤字の「国有鉄道」と同様に、「林」が管理できないままになっている。
ところが、「自然保護」という「運動」が、ありがたいことにわきあがって、「手つかずの」山が「自然」なのだから「触るな」という、管理できない管理者にとって、たいへん都合のよいことが社会に浸透した。
苗木を密集して植えるのは、成長具合をみて、あとで「間引き」するからで、さらに、選んだ木がちゃんとした「商品」になるように、若木のうちから「枝払い」をしないと、「ふし」だらけの木材になって価値がない。
こうしたことから生じる、「間伐材」が、割り箸や爪楊枝の原材料だったが、「触るな」という「運動」で、「木を切ってはいけない」に転じ、山からの現金収入がとざされた。
むかしの「国有鉄道」会社の傘下にある「駅蕎麦チェーン」は、割り箸を「廃止」して、わが国では産出しない石油からできるプラスチックの箸を「エコ」だと称しているのは、自国の山を見捨てたも同然だと気づいてもいないのだろうか?
それで、各地の自然の観光キャンペーンを億円単位でやっている。
もちろん、これを支えるのは毎日運賃をはらっている国民にかわりはない。
もう一方で、事業者から出る割り箸を「産業廃棄物」あつかいする自治体も、自国の山を見捨てているのに「エコ」だと叫ぶ。
むしろ「駅蕎麦チェーン」が、追いつめられて余計な投資をさせられた被害者にもなれるから、始末がわるい。
「エコ」ではなくて、「カルト」ではないのか?
植林した木の本体が商品になるには、30年以上かかるから、その間その土地からの収入は、間伐材しかないのである。
みんなで林業をこわして、「エコロジー」と自賛するのは、「エコロジー」を人類最初に造語した、紀州の英傑、南方熊楠に失礼である。
それで、こんどは放置されるようになったら、「自然」にかえるだけでなく、山が荒れて、川が氾濫するようになった。
古木が倒壊して、自然のダムができ、それが山津波になるという「自然」のわざだ。
人間の人生の時間と、木の一生のながさがちがうから、相手が木なら、木にあわせてかんがえなければならないところに、人間がかんがえた「自然保護」が、人間をくるしめることになっているのは、まさに因果応報というものである。
なにも「自然保護」がいけないといいたいのではない。
「人間のため」の「自然保護」が、あやしいといいたいのである。
そうして、山国で森林資源がたっぷりあるはずのわが国は、外国から大量の木材を輸入する国になっている。
外国の木なら切っていいとまではいわなくても、だまっていればおなじであるから、不道徳きわまりない。
北欧三国の林業が成りたっていて、わが国の林業は成りたたない。
北欧三国の漁業が成りたっていて、わが国の漁業は成りたたない。
なぜだろうか?
「やり方」が、間違っているのではないか?
という「仮説」が、中学生にもたてられるだろう。
そして、社会が不道徳だから、子どもが不道徳になるのも当然だ。
桜の開花が報告されるようになって、人生一度は観てみたい「吉野の桜」と、木の国の「紀州」に、いつかゆっくり観光したいとおもっている。
「森」を観光資源にしたいなら、ポーランドとベラルーシ国境にある、ヨーロッパ最大の原生林(ほんとうは「森」)である、「ビャウォヴィエジャの森」の管理方法と観光設計を学ぶとよいだろう。
ちゃんと専門ガイドさんから、森の新陳代謝を学ぶことができる。
しかして、この森へは森林事務所で「地元有料ガイド」を依頼しないと森にはいれない。
徒歩で4時間ほどの案内で、料金は約1万円。参加人数での割り勘になる。
言語はポーランド語やドイツ語、英語などがえらべるが、外国語のできるガイドがいつも待機しているとはかぎらない。
それで、運がわるければ、森にはいるために、ぜんぜんわからない言語のガイドについていくことになるけれど、対象物を示して説明するから、事前に勉強しておけばなんとなくわかるものだ。
「ボランティアガイド」が普通の日本は、安ければよい、になっているふしがあるけれど、ちゃんと料金をとるべきである。
それで、ガイド内容の質を向上させることが、観光客の満足度を高める。
「森」に精通するとは、生半可な知識ではない。
ちゃんとした観光客は、生半可なガイドでは満足しない。