紙幣のあたらしいデザインが発表された。
世界が電子マネーをつかう時代に、紙幣に投資するとはなにごとか?という意見もあるようだが、19世紀をひきずるわが国としては、当然の「新札」投資である。
わが国の歴史上、最初の銀行は「第一国立銀行」で、創設は1873年(明治6年)であるから、19世紀なのだ。
前年の12月には、太陽暦が採用されたので、本格的に太陽暦になった最初の年になる。
そもそも、明治政府が太陽暦を採用した理由に、膨張した官吏への俸給支払いを「節約」するため、といういまでは想像もつかない財政優先政策であった。
明治5年の12月がほぼなくなったことで1か月分、それに、旧暦にあった「閏つき」をなくして1か月分の合計2ヶ月分の給与支払いを停止した。
役人が対象だったけど、「こよみ」の変更なので民間もおなじだったと想像できるが、この時代の日本は「農業国家」だったから、サラリーマンなんてほとんどいない。
政府がみずからを「正す」常識と良識とプライドがあったのだろう。
そういう意味で、現代の政府とはぜんぜんちがう。
そんな政府が発した「国立銀行条例」にもとづいて創設されたのが「第一国立銀行」で、「国立」とあるけれど、わが国最初の「株式会社」である。
それで、「株式」の売買のために、東京証券取引所も創設されている。
だから、わが国資本主義の「誕生」といっても、おおげさではない。
これをなした、中心人物が渋沢栄一だ。
歴史の連続性をかんがえると、渋沢は資本主義を表面にだして、これを実際にうごかしたひとだった。
だから、その前に、資本主義の精神を説いたひとがかならずいるはずだ。
これを、準備段階、といってもいいだろう。
それは、まちがいなく「二宮金次郎(尊徳)」である。
二宮金次郎の「偉業」すら、いまはすっかり忘れられてしまった。
小学校の校庭にかならずあった金次郎の銅像も、見向きもされない。
薪を背負って、本を読みながら歩いている姿の銅像が、「ながら歩きは危険である」という、表面しかみない価値感でかたられるのは、「悪意」しか感じない。
その「悪意」の根源は、資本主義を憎む思想から発生するにちがいない。
アメリカにおいて資本主義のエバンジェリストとしていまだにあつい尊敬をうけているのが、ベンジャミン・フランクリンである。
むかしは、わが国でも10代で読むべき図書にランクインしていた『フランクリン自伝』の著者でもある。
アメリカ人をしらなかったのに、日本で資本主義に気がついた稀有な人物の評伝は、当然だが読むにあたいする。
小田原藩の財政立て直しから、全国にわたる金次郎の活躍は、「学びたい」という純粋な欲望からはじまる。
当時、彼の「身分」では、学ぶことが決して立身出世とむすびつかないからだ。
ここが、現代の「勉強しろ」と、根本的にことなる。
それで、渋沢栄一だ。
彼にはひとつ名著がある。
それが、『論語と算盤』だ。
いまさら、マックス・ウェーバーの「プロ倫」(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)をもちだすまでもないが、渋沢は資本主義の本質を「論語」にもとめている。
金次郎が熟読していたのは、「四書五経」のうちの「大学」だった。
「偉人」が、なぜ「偉人」なのかもわからない、これは「知的衰退」といいたくもない「廃退」である。
わが国の教育が、すでに「廃退」しているから、かたちのない電子マネーではなく、肖像をかならず目にする「偉人」をえらぶのは、意義のあることではないか。
しかも、紙幣刷新の理由が「偽造防止」である。
この安心感こそが、紙幣だけでなく「貨幣」に求められる、もっとも重要な要素なのだ。
では、いったいだれが「偽造」するおそれがあるのか?
そんなことをして「採算」にみあうのか?
そんなことをしても「利益」があると、かんがえる国が近隣にあるのである。
「偉人」たちがおしえてくれることの、奥深さである。