「岡っ引き」のはなしで、誤解があるとこまるので、追加する。
わたしは「士業」それ自体に従事しているひとを、議論の対象にしているのではない。
「士業」を「創設」して、それを「岡っ引き」にして、世の中を支配しようとする役人の志向と行動を議論の対象にしているのである。
それが転じて、配下の「士業」を喰わせようと「配慮」した、情報統制をおこなうから、世の中が「ゆがむ」のだといいたい。
この「情報統制」とは、さまざまな「お得情報」を、一般人に公開せずに、たとえば「◯◯士会」といった「岡っ引き」組織をつうじて、情報伝達する。
こうして、なにも知らない一般人より、有利な情報をわたされてしることで、その「士業」のひとが一般人から「先生」といわれれ、おカネを得ることができるようになっている。
ある情報を「しっているか、しらないか」ということを、経済学では「情報の対称性、非対称性」というむずかしい用語をつかって、これまた一般人をまどわそうとしているが、「理想社会」とは、情報をしらないひとが「いない状態」、なのである。
つまり、なんらかの「取引」において、一方が情報をしっていて、一方がしらない、となれば、それを「公正」な取引とはいわない、ということからもわかるはなしである。
だから、情報の非対称性が先鋭化すると、「詐欺」になるのだ。
「情報化社会」とは、この側面で観れば、現実の社会が「理想社会」に近づいている社会のことをいう。
取引対象となる、モノやサービスの本質的情報が、ちょっと前より、はるかに、かんたんに手にいれることができるようになってきている。
だから、インターネットなどの情報を得ることができないと、「格差」がうまれてしまうから、これを「情報格差」といい、情報に接することがすくないひとを「情弱(情報弱者)」というのである。
すなわち、「士業」を管轄する役所が、「恣意的に一般人を」情弱にしていることを意味するから、たちがわるいといいたいのである。
一方で、士業が世の中で「必要」になるのは、専門家でなければならない「複雑な制度」があるからだ。
たとえば、所得税にかんしてハイエクが主張したのは「収入の10%だけ」というシンプルな税制だった。
これなら、やっかいな「経費」という発想がないし、特例もない。
だれでも、じぶんの収入に10%をかければ、納税額が計算できて、そのまま納税すればよい。
この案に大反対するのが、「士業」と「役人」で、自分たちの仕事がなくなることを怖れるからである。
ところが、社会のコストは格段にすくなくなる。
わが国は、学業で優秀な成績だったものが役人になり、士業の資格を得る傾向がある。
つまり、これら優秀な人材が世の中に放出されれば、企業は人手不足に悩まなくてすむだけでなく、彼らに対して負担していたコストも軽減されるのだ。
さらに、わが国での「電子政府」が、おそろしく普及しないのも、士業の職務をさまたげないようにするからだし、役人の介在をなくさないようにするからである。
日本の役人は、法律を執行するための「行政官」の範囲をとっくに超えて、みずからの「職権」のために、さじ加減である「裁量権」を確保している。
これは、失礼ながら小役人もおなじで、窓口担当の新人でさえも、すくなからず「裁量権」を持っているのは、役所にいったことがあるひとならだれでもしっていることだ。
この「裁量」は、「法律」=「本法」ではなく、「施行令」や「施行規則」、もっといえば「通達」、「告示」にまでいたっていて、ひどいものでは「文字になっていない」ものまである。
「法律」を定めるのは立法府である「国会」であり、地方議会の「条例」もこれに相当するが、上述した「規則類」は、基本的に役人の作文でよいことであって、やっかいなのは、これら作文に政治が関与できない「不文律」=「慣習」をつくってしまったことである。
国会や地方議会が「骨抜き」にされた、という理由がこれである。
そういうわけで、役人の「裁量」が細かいところにまでおよんでいるから、「電子政府」という方法でさまざまな申請をすることすら、機械的な流れをつくれない。
「機械的な流れ」とは、行政官はだれにでもできる、という原則のことだ。
きめられたルール以外の方法をゆるさないから、平等が実現する。
「裁量」は、きめられたルール以外で役人が介在できることだから、これでは平等は実現しない。
それで、役人と懇意になることが、あいかわらず必要になるのである。
これを「AI」でできるはずもなく、わが国では、電子政府はなりたたない。
電子政府化がすすんでいる国が、比較的小国であることがあるのは、面積や人口がすくない、という意味ではなく、「行政」が「機械的な流れ」になっている平等が小国ゆえに確保されているからで、この条件をちゃんと満たせば、規模は関係ないのである。
役人の裁量権が、社会のムダである、ということである。